The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
本郷和人・著“「失敗」の日本史”を読んで
オリックスが勝った。神戸人としては関西ダービーが楽しみだ。
昔大阪にはパリーグ在阪球団が3つもあった。阪神に対阪急であれば、御堂筋を挟んで100m以内の距離で御堂筋東西決戦があり得た。或いは、阪神対南海であれば、これも御堂筋の北端と南端の決戦となったはずだったが、結局実現することなく、パリーグ在阪私鉄球団が無くなってしまったのである。
南海も阪急も黄金期はあったが、阪神は20年毎の優勝で、そういうことは起きなかったのだ。だから、関西ダービーは日本にプロ野球が発足して以来初めてのことになる。クライマックス・シリーズで番狂わせにならずに、“それ”が実現することを祈りたい。
日銀が金利政策を維持。お蔭でますます円安となるか。それで輸入物価高騰によるインフレに期待なのか。軟弱なあの御用組合レンゴウで賃上げはかのうなのか。賃上げできなければ不況に陥るだけ。どうするニッポン!
ウクライナのゼレンスキー大統領が国連改革を訴えた。正論だが、力の論理が押し通る国際社会で認められる話ではない。いかんともしがたい矛盾をどうするのか。
そもそも“拒否権”は何故必要とされるのか。それは、戦前の日本の外交姿勢から必要とされ、戦後国連の制度としてビルトインされたのだ。戦前、日本は国際連盟の常任理事国だった。だが満州事変を機に国際的に孤立し立脚点を失ったため、国連脱退というところまで追い込まれ、それが世界大戦の契機となった。その反省からある国を脱退まで追い込まないために“拒否権”を認めようとなったのだ。
だが、やっぱり“拒否権”が国連を機能不全に追い込んでいるのも事実だ。国連もそろそろ80年も前のunited nations(連合国)から脱却して、リニューアルすべき時なのだろうが・・・・・・。
さて、今回は本郷和人・著“「失敗」の日本史”の読後感想としたい。誰が失敗したのか、それはどういう影響を後世に与えたのかなど、あまり詮索せず当事者の身になって考えるというよりも思って、見るのも面白いではないか。というのと、本郷先生は何を日本史上の失敗と見ているのかを見てみるのも面白い、てな訳で取り上げて読んでみた訳だ。
いちものように本書の概要を紀伊国屋書店のウェッブ・サイトの紹介で示す。ここでの“出版社内容情報”はそのまま出版社のウェッブ・サイトに掲載されているものだ。
[出版社内容情報]
出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if”を展開。失敗の中にこそ、豊かな”学び”はある!
[内容説明]
あの東京大学史料編纂所・本郷和人先生が、歴史を変えた「失敗」をピックアップ!元寇の原因は鎌倉幕府側にあった?生涯のライバル、謙信・信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ?光秀重用は信長の失敗だったと断言できる?日本史を彩る英雄たちがやらかした数々のしくじりを検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if”まで展開。「失敗」の中にこそ、豊かな学びはある!
[目次]
第1章 鎌倉時代の失敗
第2章 南北朝時代の失敗
第3章 室町時代の失敗
第4章 戦国時代の失敗
第5章 安土桃山時代の失敗
第6章 関ヶ原の失敗
[著者等紹介]本郷和人[ホンゴウカズト]
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。著書多数
“はじめに”で、“戦後の歴史学は唯物史観の影響を受けていた。そのため「歴史にもしもはない」というのが常識であり、歴史学はそうしたことを考える必要はないのだ”、つまり“(時代ごとの)生産構造は人間一人の判断や努力では簡単に変えられないものであるから、生産構造を基礎とする上部の変遷は「もしも」では本質的には変化しない”という考え方が主流だったが、歴史の大枠ではそうでも“上部構造内部での置換”あるいは小さな変化はありうるのではないか、と著者は書いている。そういう著者の考え方に私も賛同する。だから、失敗の歴史を考えるのは意味がない訳じゃない、と思う。
また著者は言う。“子供たちの歴史嫌いが言われて久しい。”だが、“そこに物語があれば、絶対に事情は変わるはず、確信する。”そうだ!そう思う!
当然のことだが日本史上様々な失敗があるのだが、歴史上重要で大きな失敗は、私は元寇と、豊臣政権の簒奪の芽を摘まなかったことではあるまいか、と思っている。
元寇は鎌倉幕府の崩壊を招いてその後の不安定な室町政権への移行があり、それは応仁の乱、戦国時代の破壊と創造を招来したのであり、豊臣氏が政権の簒奪の芽を摘まなかったことで、徳川政権を誕生させ、江戸期である種の日本文化の爛熟を招来することができた、という意味で大きかったのではないかと思うのだ。そして現代人と言えども、江戸期そのもの或いはそのアンチ・テーゼ的で対照的な明治期の影響を受けて来ているのではあるまいか、と思えるのだ。
だからここでは、この2点に限って取り上げたいと思う。
先ず、モンゴルの来襲の話から。“なぜモンゴルは日本に来襲したのか”からはじまるのだが、直情径行の日本人は“モンゴルは侵略マシーン。だから日本に攻めてくるのは彼らの本能からして当たり前。それで話は終わり。”と考えて、思考停止してしまう。そして、一方そんなモンゴルと対峙した“北条時宗は疑問の余地もなく、モンゴルから日本を救った英雄”とされていて、そもそもの来襲の要因について“まじめに考えられることがなかった。”と著者は指摘している。
ところが、モンゴルは事前に日本のことを調査していた。来襲前にフビライ・ハンは趙良弼(ちょうりょうひつ)という人物を日本に1年近くも滞在させ日本の様子をよく見て、報告させていた。その報告内容は、日本は狭く、作物も育たず、豊かではない。人間も野蛮でわざわざ征服しても何の得もないから、攻めるのは止めるべきだ、というものだった。では、何故日本を攻めたのか、となる。
モンゴルは中国大陸を制覇した。そして中華思想の正統な後継者と考えた。だからフビライ・ハンにとっては、“周辺の国々はモンゴルのつまりは元の徳を慕って挨拶にやってくるべき”だと思った。そこでフビライは日本にも使節を派遣してとても低姿勢というか丁寧な表現で国書を渡した。先ず、受け取ったのは朝廷だった。遣隋使派遣の古代より“日出処の天子より”と称して少々夜郎自大の伝統があったのだが、とにかく返書さえ出せば取り繕うことは可能で朝廷も準備をしていた。ところがそれに待ったをかけたのが、幕府・北条時宗だったという。そして、国書を取り上げ、しかも返書を出さなかった。その非礼に対しフビライが軍隊を差し向けたというのが、現代歴史学者の大方の見方だという。
先ず最初の、文永の役は威力偵察だったのに違いないと著者は言う。だから少し戦闘して直ぐに去った。台風で去ったのではない。2度目の弘安の役は本格侵攻となった。フビライはこの本格侵攻の前に、杜世忠をはじめとする5人の使者を派遣しているが、時宗はその使者全員の首を刎ねてしまうという蛮行にでた。それで今度は10万の軍団を差し向けたことになるが、台風が吹き軍勢は難破し、侵攻は日本には無事に終わった。
時宗は、中国事情を“お勉強する”のに、モンゴルから逃げてきた中国人禅僧を起用。ところがモンゴルから逃れた人物がそれを良く言うはずもなく、時宗はそれをそのまま受け取るという愚かなことをやった。
しかも、時宗は対モンゴル戦の防衛準備を全くしていない、と著者は指摘する。何よりも九州やせめて広島あたりまで進出して、陣頭指揮すべきを怠っていたという。
準備したと言っても、北九州沿岸に高々2~3メートル高さの石塁を築いた程度だったのではないか。あの長大な万里の長城を築き、また一方でそれを乗り越えて侵攻した勢力にとって、それがどの程度の効果があったのか、無きに等しいものではなかったか。あの台風が来なければ、九州や中国地方の一部は占領され、その後それを取り返すのにどれほどのエネルギーを消耗することになったかを考えれば、冷や汗ものではなかったか。
とにかく運よく終わって、“撃退できた”。“勝った”が防衛戦だったので、分配するべき敵の土地つまり“ほうび”がない。ところがケチの北条氏は、自分たちの領地を割いて“ほうび”にするわけでもなく、逆に領地をふやして勢力を得て押さえつけようとした。これで武士の反感を買って、鎌倉の滅ぶ原因となった、という。
とにかく、愚かにもやらなくて済んだ戦争をやらかして、準備すらいい加減にもかかわらず辛くも勝てたのだが、結局、その愚かさが祟って鎌倉幕府は滅んだということになる。こう考えると、時宗はホントウに英雄だったのだろうか、となる。
それに、宋の禅僧の話をそのまま真に受けるのも、トンマなことではないか。宋という大国を打ち亡ぼす勢力とは、どういう恐ろしい勢力かへの想像力もないのが、不思議な程だ。彼らは、当時日本が想像もできなかった火薬を使った“てつはう”は固より、大砲の原型となる新兵器も本来備えていたと聞く。時宗は決して賢い指導者ではなく、英雄でもなかったのではないか。
次が“秀吉の失敗”。それは“生前に家康を放置したことにある”と著者は言う。まぁこれは誰から見ても、そうであろう。
そして、秀吉はその本性から“身をもって、もっとも「戦国のリアル」をよく知っていたはず”だと指摘している。主君の信長亡き後の織田家からまんまと天下を奪った。そして信長に近い才能を持った織田信孝を死へ追いやった。その上、信長の娘や姪を側室にしていて、殿のお嬢様を守る気などさらさらない様子なのだ。
そんな秀吉の晩年、信長の天下の時に同僚だった大名の扱いが難しい。特に、大大名で秀吉より格上だった徳川や毛利、上杉への対応が問題だったが、徳川以外の代替わりした後継者を見れば器ではないと見れる。だが、そこで生き残っていた家康は警戒するべきで、見渡しても家康に対抗できる大名など居ない。著者は言う。“朝鮮出兵するぐらいなら、総力をあげて家康を潰しておくべきだった。僕はそこが不思議でならない。”
しかも秀吉存命中は、用済みの大大名は減封や取潰しをしている。蒲生氏や丹羽氏がその好例だという。しかも丹羽家からは有力な家臣も奪っているが、家康からは石川和正を奪っただけ。家康には三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国から関八州に国替えを実行したが、これは140石から250石への事実上の大幅加増。家康は逆にそれを喜んだ風もあったのではないか。信長の次男信雄は秀吉の国替え要求に、本領を奪うとして抵抗したが改易されたという。
そこで、父祖伝来の本領を奪われることに家康が抵抗したのなら、攻め倒すことも可能だったかもしれない。織田秀吉は僻地へ追いやったつもりだったが、逆にそれがアダになった。“家康が律義者の仮面をかぶり続け”て、役者が一枚上手だったのか。
だが、家康にはもっと危機があったという話もある。小牧長久手の戦いで局地戦で敗れた秀吉が、捲土重来、奮起して家康討伐に動いたが天正地震が発生し、兵站に懸念が出てそれを断念したという。大河“どうする家康”ではそれをあまりにもあっさりスルーしたと批判が出ていたが、この本ではそれはあまり取り上げられていない。“「小牧・長久手の戦い」の当時、もう少し総力をあげて戦えば、秀吉は家康に勝つことができた”と述べるにとどめている。確かに兵站は攻める側には問題が多く敵地で伸びた兵站線を守るのに余計に兵力を要するが、守る側には地元での調達なので問題は少ない。勿論、家康側も岡崎城を強化し、兵制を変革し石川和正出奔の穴埋めを行って準備していたという。その“どうする家康”では“「つくづく運のええ男、家康、ちゅうは」、ムロツヨシ演じる羽柴秀吉は、こうつぶやいた。”となった。
秀吉はその後、家康を軟化させるのに妹を嫁がせる、母親を人質に差し出す等、あらゆる手段を使った。そうこうするうちに、家康にすっかり油断してしまったかのように見える。
日本史の重要な転換点に天災が関与することがしばしばなのだ。だからこそ、歴史のifを考えるのもそう無意味なことではあるまい。弘安の役の台風と言い、天正地震と言いい、そうなのだ。ところが、これまでの日本史教育ではあまり、登場しないエピソードだ。だが災害の歴史は重要だということで、最近は掘り起こし作業は進んでいるようなのだ。
著者は、秀吉には「諦め」があったのではないかと想像している。秀頼が嫡子なのだが、実子ではないので「天下は家康に取られても仕方ない。家さえ続いてくれれば」との思いがあったのではないかと想像している。武家では古来“その執着は生物的な「血の繫がり」にはなくあくまで「家」にある”からで、“家さえ繁栄してくれれば、子は養子でも関係ない”という考え方があったからだ、という。現に平清盛は実父は白河法皇であるとの噂が当時からあった ようだ。
秀吉の妻おねは、もう少し踏み込んだ思いだったのではないかと私は思っている。だから子供の頃から可愛がった加藤清正や福島正則には“家康について行け”と言っていたようだ。恐らく実子ではない子が、豊臣家を名乗るのを良しとせず、滅んだ方が良いと思っていたのではあるまいか。
そして、“せめて朝鮮出兵のときに家康も出陣させて、消耗させるべきだったと思いますが、それすらやっていない。”と述べている。著者はこの朝鮮出兵も“秀吉の失敗 その2”の難題だとしている。
それは恐らく“東シナ海の貿易の権益を握ろうとしていたのではないか”として、東北大学名誉教授・平川新の説を一番納得できるものだと言っている。
秀吉はその後も同族を謀殺したりしている。これを“秀頼にとって邪魔だというだけで、虫を一匹、ひねり潰すくらいのことでしかなかった”。だが、それで“民心が豊臣政権から離れてしまった。”秀吉は“「天下人」として失敗だらけの人となってしまった”と述べている。
“この頃の秀吉がなにを考えていて、なにをやりたかったのか分からない”とも言っている。それに対し家康は、“死ぬまで家康であり続けた”と評している。
かくして、関ヶ原合戦の後、元和偃武となり大阪の陣の総決算を過ぎて、さらに平和な安穏期となり、家康も秀忠に跡を継がせ、安泰の時代がはじまった。
昔大阪にはパリーグ在阪球団が3つもあった。阪神に対阪急であれば、御堂筋を挟んで100m以内の距離で御堂筋東西決戦があり得た。或いは、阪神対南海であれば、これも御堂筋の北端と南端の決戦となったはずだったが、結局実現することなく、パリーグ在阪私鉄球団が無くなってしまったのである。
南海も阪急も黄金期はあったが、阪神は20年毎の優勝で、そういうことは起きなかったのだ。だから、関西ダービーは日本にプロ野球が発足して以来初めてのことになる。クライマックス・シリーズで番狂わせにならずに、“それ”が実現することを祈りたい。
日銀が金利政策を維持。お蔭でますます円安となるか。それで輸入物価高騰によるインフレに期待なのか。軟弱なあの御用組合レンゴウで賃上げはかのうなのか。賃上げできなければ不況に陥るだけ。どうするニッポン!
ウクライナのゼレンスキー大統領が国連改革を訴えた。正論だが、力の論理が押し通る国際社会で認められる話ではない。いかんともしがたい矛盾をどうするのか。
そもそも“拒否権”は何故必要とされるのか。それは、戦前の日本の外交姿勢から必要とされ、戦後国連の制度としてビルトインされたのだ。戦前、日本は国際連盟の常任理事国だった。だが満州事変を機に国際的に孤立し立脚点を失ったため、国連脱退というところまで追い込まれ、それが世界大戦の契機となった。その反省からある国を脱退まで追い込まないために“拒否権”を認めようとなったのだ。
だが、やっぱり“拒否権”が国連を機能不全に追い込んでいるのも事実だ。国連もそろそろ80年も前のunited nations(連合国)から脱却して、リニューアルすべき時なのだろうが・・・・・・。
さて、今回は本郷和人・著“「失敗」の日本史”の読後感想としたい。誰が失敗したのか、それはどういう影響を後世に与えたのかなど、あまり詮索せず当事者の身になって考えるというよりも思って、見るのも面白いではないか。というのと、本郷先生は何を日本史上の失敗と見ているのかを見てみるのも面白い、てな訳で取り上げて読んでみた訳だ。
いちものように本書の概要を紀伊国屋書店のウェッブ・サイトの紹介で示す。ここでの“出版社内容情報”はそのまま出版社のウェッブ・サイトに掲載されているものだ。
[出版社内容情報]
出版業界で続く「日本史」ブーム。書籍も数多く刊行され、今や書店の一角を占めるまでに。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if”を展開。失敗の中にこそ、豊かな”学び”はある!
[内容説明]
あの東京大学史料編纂所・本郷和人先生が、歴史を変えた「失敗」をピックアップ!元寇の原因は鎌倉幕府側にあった?生涯のライバル、謙信・信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ?光秀重用は信長の失敗だったと断言できる?日本史を彩る英雄たちがやらかした数々のしくじりを検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if”まで展開。「失敗」の中にこそ、豊かな学びはある!
[目次]
第1章 鎌倉時代の失敗
第2章 南北朝時代の失敗
第3章 室町時代の失敗
第4章 戦国時代の失敗
第5章 安土桃山時代の失敗
第6章 関ヶ原の失敗
[著者等紹介]本郷和人[ホンゴウカズト]
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。著書多数
“はじめに”で、“戦後の歴史学は唯物史観の影響を受けていた。そのため「歴史にもしもはない」というのが常識であり、歴史学はそうしたことを考える必要はないのだ”、つまり“(時代ごとの)生産構造は人間一人の判断や努力では簡単に変えられないものであるから、生産構造を基礎とする上部の変遷は「もしも」では本質的には変化しない”という考え方が主流だったが、歴史の大枠ではそうでも“上部構造内部での置換”あるいは小さな変化はありうるのではないか、と著者は書いている。そういう著者の考え方に私も賛同する。だから、失敗の歴史を考えるのは意味がない訳じゃない、と思う。
また著者は言う。“子供たちの歴史嫌いが言われて久しい。”だが、“そこに物語があれば、絶対に事情は変わるはず、確信する。”そうだ!そう思う!
当然のことだが日本史上様々な失敗があるのだが、歴史上重要で大きな失敗は、私は元寇と、豊臣政権の簒奪の芽を摘まなかったことではあるまいか、と思っている。
元寇は鎌倉幕府の崩壊を招いてその後の不安定な室町政権への移行があり、それは応仁の乱、戦国時代の破壊と創造を招来したのであり、豊臣氏が政権の簒奪の芽を摘まなかったことで、徳川政権を誕生させ、江戸期である種の日本文化の爛熟を招来することができた、という意味で大きかったのではないかと思うのだ。そして現代人と言えども、江戸期そのもの或いはそのアンチ・テーゼ的で対照的な明治期の影響を受けて来ているのではあるまいか、と思えるのだ。
だからここでは、この2点に限って取り上げたいと思う。
先ず、モンゴルの来襲の話から。“なぜモンゴルは日本に来襲したのか”からはじまるのだが、直情径行の日本人は“モンゴルは侵略マシーン。だから日本に攻めてくるのは彼らの本能からして当たり前。それで話は終わり。”と考えて、思考停止してしまう。そして、一方そんなモンゴルと対峙した“北条時宗は疑問の余地もなく、モンゴルから日本を救った英雄”とされていて、そもそもの来襲の要因について“まじめに考えられることがなかった。”と著者は指摘している。
ところが、モンゴルは事前に日本のことを調査していた。来襲前にフビライ・ハンは趙良弼(ちょうりょうひつ)という人物を日本に1年近くも滞在させ日本の様子をよく見て、報告させていた。その報告内容は、日本は狭く、作物も育たず、豊かではない。人間も野蛮でわざわざ征服しても何の得もないから、攻めるのは止めるべきだ、というものだった。では、何故日本を攻めたのか、となる。
モンゴルは中国大陸を制覇した。そして中華思想の正統な後継者と考えた。だからフビライ・ハンにとっては、“周辺の国々はモンゴルのつまりは元の徳を慕って挨拶にやってくるべき”だと思った。そこでフビライは日本にも使節を派遣してとても低姿勢というか丁寧な表現で国書を渡した。先ず、受け取ったのは朝廷だった。遣隋使派遣の古代より“日出処の天子より”と称して少々夜郎自大の伝統があったのだが、とにかく返書さえ出せば取り繕うことは可能で朝廷も準備をしていた。ところがそれに待ったをかけたのが、幕府・北条時宗だったという。そして、国書を取り上げ、しかも返書を出さなかった。その非礼に対しフビライが軍隊を差し向けたというのが、現代歴史学者の大方の見方だという。
先ず最初の、文永の役は威力偵察だったのに違いないと著者は言う。だから少し戦闘して直ぐに去った。台風で去ったのではない。2度目の弘安の役は本格侵攻となった。フビライはこの本格侵攻の前に、杜世忠をはじめとする5人の使者を派遣しているが、時宗はその使者全員の首を刎ねてしまうという蛮行にでた。それで今度は10万の軍団を差し向けたことになるが、台風が吹き軍勢は難破し、侵攻は日本には無事に終わった。
時宗は、中国事情を“お勉強する”のに、モンゴルから逃げてきた中国人禅僧を起用。ところがモンゴルから逃れた人物がそれを良く言うはずもなく、時宗はそれをそのまま受け取るという愚かなことをやった。
しかも、時宗は対モンゴル戦の防衛準備を全くしていない、と著者は指摘する。何よりも九州やせめて広島あたりまで進出して、陣頭指揮すべきを怠っていたという。
準備したと言っても、北九州沿岸に高々2~3メートル高さの石塁を築いた程度だったのではないか。あの長大な万里の長城を築き、また一方でそれを乗り越えて侵攻した勢力にとって、それがどの程度の効果があったのか、無きに等しいものではなかったか。あの台風が来なければ、九州や中国地方の一部は占領され、その後それを取り返すのにどれほどのエネルギーを消耗することになったかを考えれば、冷や汗ものではなかったか。
とにかく運よく終わって、“撃退できた”。“勝った”が防衛戦だったので、分配するべき敵の土地つまり“ほうび”がない。ところがケチの北条氏は、自分たちの領地を割いて“ほうび”にするわけでもなく、逆に領地をふやして勢力を得て押さえつけようとした。これで武士の反感を買って、鎌倉の滅ぶ原因となった、という。
とにかく、愚かにもやらなくて済んだ戦争をやらかして、準備すらいい加減にもかかわらず辛くも勝てたのだが、結局、その愚かさが祟って鎌倉幕府は滅んだということになる。こう考えると、時宗はホントウに英雄だったのだろうか、となる。
それに、宋の禅僧の話をそのまま真に受けるのも、トンマなことではないか。宋という大国を打ち亡ぼす勢力とは、どういう恐ろしい勢力かへの想像力もないのが、不思議な程だ。彼らは、当時日本が想像もできなかった火薬を使った“てつはう”は固より、大砲の原型となる新兵器も本来備えていたと聞く。時宗は決して賢い指導者ではなく、英雄でもなかったのではないか。
次が“秀吉の失敗”。それは“生前に家康を放置したことにある”と著者は言う。まぁこれは誰から見ても、そうであろう。
そして、秀吉はその本性から“身をもって、もっとも「戦国のリアル」をよく知っていたはず”だと指摘している。主君の信長亡き後の織田家からまんまと天下を奪った。そして信長に近い才能を持った織田信孝を死へ追いやった。その上、信長の娘や姪を側室にしていて、殿のお嬢様を守る気などさらさらない様子なのだ。
そんな秀吉の晩年、信長の天下の時に同僚だった大名の扱いが難しい。特に、大大名で秀吉より格上だった徳川や毛利、上杉への対応が問題だったが、徳川以外の代替わりした後継者を見れば器ではないと見れる。だが、そこで生き残っていた家康は警戒するべきで、見渡しても家康に対抗できる大名など居ない。著者は言う。“朝鮮出兵するぐらいなら、総力をあげて家康を潰しておくべきだった。僕はそこが不思議でならない。”
しかも秀吉存命中は、用済みの大大名は減封や取潰しをしている。蒲生氏や丹羽氏がその好例だという。しかも丹羽家からは有力な家臣も奪っているが、家康からは石川和正を奪っただけ。家康には三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国から関八州に国替えを実行したが、これは140石から250石への事実上の大幅加増。家康は逆にそれを喜んだ風もあったのではないか。信長の次男信雄は秀吉の国替え要求に、本領を奪うとして抵抗したが改易されたという。
そこで、父祖伝来の本領を奪われることに家康が抵抗したのなら、攻め倒すことも可能だったかもしれない。織田秀吉は僻地へ追いやったつもりだったが、逆にそれがアダになった。“家康が律義者の仮面をかぶり続け”て、役者が一枚上手だったのか。
だが、家康にはもっと危機があったという話もある。小牧長久手の戦いで局地戦で敗れた秀吉が、捲土重来、奮起して家康討伐に動いたが天正地震が発生し、兵站に懸念が出てそれを断念したという。大河“どうする家康”ではそれをあまりにもあっさりスルーしたと批判が出ていたが、この本ではそれはあまり取り上げられていない。“「小牧・長久手の戦い」の当時、もう少し総力をあげて戦えば、秀吉は家康に勝つことができた”と述べるにとどめている。確かに兵站は攻める側には問題が多く敵地で伸びた兵站線を守るのに余計に兵力を要するが、守る側には地元での調達なので問題は少ない。勿論、家康側も岡崎城を強化し、兵制を変革し石川和正出奔の穴埋めを行って準備していたという。その“どうする家康”では“「つくづく運のええ男、家康、ちゅうは」、ムロツヨシ演じる羽柴秀吉は、こうつぶやいた。”となった。
秀吉はその後、家康を軟化させるのに妹を嫁がせる、母親を人質に差し出す等、あらゆる手段を使った。そうこうするうちに、家康にすっかり油断してしまったかのように見える。
日本史の重要な転換点に天災が関与することがしばしばなのだ。だからこそ、歴史のifを考えるのもそう無意味なことではあるまい。弘安の役の台風と言い、天正地震と言いい、そうなのだ。ところが、これまでの日本史教育ではあまり、登場しないエピソードだ。だが災害の歴史は重要だということで、最近は掘り起こし作業は進んでいるようなのだ。
著者は、秀吉には「諦め」があったのではないかと想像している。秀頼が嫡子なのだが、実子ではないので「天下は家康に取られても仕方ない。家さえ続いてくれれば」との思いがあったのではないかと想像している。武家では古来“その執着は生物的な「血の繫がり」にはなくあくまで「家」にある”からで、“家さえ繁栄してくれれば、子は養子でも関係ない”という考え方があったからだ、という。現に平清盛は実父は白河法皇であるとの噂が当時からあった ようだ。
秀吉の妻おねは、もう少し踏み込んだ思いだったのではないかと私は思っている。だから子供の頃から可愛がった加藤清正や福島正則には“家康について行け”と言っていたようだ。恐らく実子ではない子が、豊臣家を名乗るのを良しとせず、滅んだ方が良いと思っていたのではあるまいか。
そして、“せめて朝鮮出兵のときに家康も出陣させて、消耗させるべきだったと思いますが、それすらやっていない。”と述べている。著者はこの朝鮮出兵も“秀吉の失敗 その2”の難題だとしている。
それは恐らく“東シナ海の貿易の権益を握ろうとしていたのではないか”として、東北大学名誉教授・平川新の説を一番納得できるものだと言っている。
秀吉はその後も同族を謀殺したりしている。これを“秀頼にとって邪魔だというだけで、虫を一匹、ひねり潰すくらいのことでしかなかった”。だが、それで“民心が豊臣政権から離れてしまった。”秀吉は“「天下人」として失敗だらけの人となってしまった”と述べている。
“この頃の秀吉がなにを考えていて、なにをやりたかったのか分からない”とも言っている。それに対し家康は、“死ぬまで家康であり続けた”と評している。
かくして、関ヶ原合戦の後、元和偃武となり大阪の陣の総決算を過ぎて、さらに平和な安穏期となり、家康も秀忠に跡を継がせ、安泰の時代がはじまった。
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