The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
テレビ・アニメ“もしドラ”を見て―組織にとっての“顧客”とは、何か?
先々週、NHKテレビで2週にわたって“もしドラ”のアニメが放映された。ベスト・セラーになった“もしドラ”をNHKがアニメにしたのだ。もともと私は、この原作本を読む気はなかった。当初それは劇画だと思っていたが、まずその内容を知ってみようと、アマゾンで検索してみた。そこで、ようやく小説だと判明したのだが、そこにあった書評で“文章は稚拙”とあった。その一言に、果たして内容も十分に練れているのか疑問に思ったのだった。作者についても、名前の“夏海”から若い女性が、経営学の内でドラッカーを取り上げた“お勉強”の成果を本にして、それがたまたまヒットしたものだと思っていた。なので、いい年をしたオッサンがこういう本を持ってはしゃいでいる様は絵にならないという意識だった。ところが、確かテレビのビジネス・ニュース番組だったと思うが、そこに登場した作者は、秋元康氏の下にあってひとかどのプロ・ライターであり、ドラッカー研究者とのこと、おまけにピッカリ頭部の容貌に、非常に驚いたものだった。
それでも時間を割いて読む価値があるとは考えず放置していたら、最近 私の所属するISO9001研究会で、コーディネータが“もしドラ”を取り上げる予定だと言い出して、他のメンバーも賛同していた。そこで、少しは何とかするべきなのかも知れないと思い始めていた上に、ドラッカーの研究者が、“もしドラ”の“解釈は間違っていない”という“お墨付き”を与えたという噂も耳にしていた。そこへ、このアニメ番組の放映と知って、少なくともそれは見るべきだと思ったのだ。
そういうことで、今も未だ原作は読んでいない。だから、今回は正確にはテレビ・アニメ“もしドラ”を通しての感想である。だが、原作者の岩崎氏も このシリーズ放映の最後には登場しているため、その内容は原作から大きく乖離してはいないものと思われる。
それから、大変申し訳ないが 私は難解と言われるドラッカーを未だ本格的には読んでいない。その“難解さ”に恐れをなしていて、“エセンシャル版マネジメント”をツンドクしている段階にある。この原稿を書くに当たって、その積んである本を所々つまみ読みはしたが、ドラッカーの本筋や全体像を理解した上での感想ではないことを了承されたい。
この小説は、都立高校―何故、一般的な県立高校ではないのか?―の野球部を舞台にした青春スポコン物では当然ない。スポコンつまり根性物には、やみ雲の精神論はあるが、冷静なマネジメントは馴染まないからだ。また若い男女が登場する割には恋愛模様もほとんど無く、そういう点でも一味違っている。後は、登場人物の中で主人公の親友で病弱な女の子が、思い半ばで亡くなるというお涙頂戴もあり、どこまでも純粋な“真摯さ”を基調とした青春ストーリ仕立てである。しかし、そこには、野球部員間の厳しい精神的葛藤は乏しく、結構皆ポジティブなのが目立ち、ある種平板な個性が気になるところである。また、監督はあまりにもクールであり、それで野球部員全員を指導し甲子園に行くレベルへと導けるのか、という疑念が湧いたり、監督と部員の関係性や部員間の先輩・後輩に対等に近いものがあることも気になった。
何よりも、重要な組織目標を女子マネージャーが設定するというのも、気になるところだが、それ無しではこの物語の前提を崩してしまうことになってしまう。要するに、この小説の構想には相当無理がある、と思うのだが、これがベスト・セラーになるということの世の中の不思議さをあらためて感じるのだ。そういう違和感にさいなまれながら、物語は進んで行った。
だが、私の中で最も引っかかったのは、野球部の“顧客”は何かでは、“野球部に関係する全ての人”と言った挙句に、最後に野球部員でもあるとの結論に至った。野球部員は“従業員であるとともに一番の顧客でもある”と言うのだ。これにはさすがに仰天した。自分達自身を一番の顧客である、とするのはいかがなものだろうか。
顧客とは、本来、組織に関わりを持とうとする第三者でなければならない、と私は思っている。第三者であるから、時に組織には厳しい姿勢を示す。顧客は、組織にとっての最大の批評家であり、その顧客との緊張関係が組織を育てると言って良い。つまり、組織には“顧客から学ぶ”姿勢が必要なのだ。また組織は競合相手からよりも、意義深いことの多くを顧客から学び、それによって競合相手を無力化することすらある。重要な“イノベーション”の多くは顧客の潜在的欲求に発している。だから、“お客様は神様でございます。”となる。
自己自身から“学ぶ”ことはほとんどない。そこに緊張関係は無く、組織自身も試練を受けないため進化はほとんど期待できない。ベクトルが自分自身に向かうような組織は絶対的に堕落すると、私は信じる。夜郎自大となって、滅んだ組織は枚挙に暇が無いことに注意するべきだ。フクシマの事故もそういった要因が大きいと思われる。顧客を如何に規定するかは、ドラッカーの示すように組織経営の要諦だが、“もし、ドラ”は、その最初に致命的誤りを犯している。
問題は“公立高校の野球部”という設定にもあるのではないか。これが、私立高校の野球部であれば、野球部が活躍して最も“喜ぶ”のは、学校経営者であるのは明白だ。そうであれば、野球部の顧客は学校経営者であるとするべきではないか。この場合、野球部員は、あくまでも活躍のための従業員であるべきだ。野球部が活躍し、学校の名声が上がれば、野球が好きで優秀な生徒が集まって来るし学校は繁栄する。そして、ますます野球部は強くなる。そうなれば、学校経営者は野球部に重点的に資源を配分する。こうして野球部にとっての発展の正循環となる。“もしドラ”では“皆を感動させる”ことが“組織の定義付け”としているが、これも抽象し過ぎた組織目的としたため訳の分からない結論となっているのではないか。
本番放映前の予告番組で ある著名な製パン会社の経営者が、登場していたが そこで、“わが社の本社の顧客は、各製造現場の工場である、と考えて、そのように運営している”旨の説明があった。これには私は大いに疑問を感じたのだが、この“もしドラ”の誤った解釈の影響ではないかと思っている。この経営者は“もしドラのおまけ”番組にも登場されたのかも知れないが、その時 そのような番組があるとは知らず、それを私は見てはいない。
本来、工場は本社にとっては、顧客では決してありえない。工場は、あくまでも本社の指導対象でしかない。確かに、本社スタッフはライン(生産現場)のサービス部門であるということはある。しかし、それは本社機能の一部であって、本質ではない。本社は組織にとっての真の顧客の声に耳を傾ける拠点であり、経営者はそれを真摯に受け止めて分析し、それをもとに工場を指導する強力なリーダー・シップを発揮することに基本機能がある。工場を顧客と見做して甘やかしてはいけない。また、顧客の声を工場経由で聞くようなことはあってはならない。工場にとって都合のよい情報しか本社・経営者には届かなくなるからだ。製品生産の工場は、組織の中核機能であり、顧客にとっては組織つまり会社そのものでもある。つまり、工場は会社の中では事実上 強大な力を持っているのであり、それだけに自己中心に落ち入りがちで顧客軽視の傾向もみられる。かつて“技術の○○”と称した会社が大抵 顧客軽視に落ち入り、場合によっては経営危機に陥ったのにはこうした背景がある。したがって、本社は工場を絶えず監視し、採算の悪い時は梃入れし、それでも改善しなければ場合によっては閉鎖するほどの強い指導力を持たなければならない。本社と工場の役割はPDCAで言えば、まず本社がPlanを示し、工場がDoを為し、結果を本社がCheckし、工場にActionを起こすことで、強くて夜郎自大に落ち入りがちな工場を牽制し引き戻し、正しい成長を遂げることができるようになるのだ。
そうだとすれば、あのパン屋さんの株はヤバイのかも知れない。
ついでながら、“おまけ番組”で、さわやか福祉財団の堀田勉氏もNPO主催者として、非営利組織の運営についてドラッカーに学んだことを解説していた。野球部は非営利組織であるから、“顧客”とは何かについて、一言あるかと期待した。ドラッカーの著作には“非営利組織の経営”があり、堀田氏はそれを導きにしているという。
そこでは非営利組織では、その存在目的は厳守せよ、その活動目標は具体的にせよ、と言っているという。そこで、堀田氏はボランティア参加者の目標数を具体的に設定した、とのこと。また 組織メンバー全員の自発性を尊重するべきで、そのための情報共有が重要なので、必ず全員参加の会議を開催していると説明していた。またメンバーの自発的マインドには“真摯さ”が重要であるとのこと。この“真摯さ”はintegrityの訳だという。確かに、integrityはドラッカー思想の核心をなすコンセプトであるとされている。
だが、私の聞きたいと思っていた、非営利組織にとっての“顧客”とは何かについての定義説明はなかった。原典の“非営利組織の経営”のそれらしい部分をつまみ読みしてみたが、残念ながら直接的には説明してはいなかったように思う。非営利組織は、個別には全く異なる性格を持っているため、一概に議論することの困難さがあるのかも知れない。例えば、日本のISO業界でのJABの顧客は誰なのか、難しい課題である。日本のISO業界は低落傾向にあるのだが。
だが、私は 自己を顧客またはその一部であると規定すれば、いずれその組織は自己中心的になり、堕落がはじまるのは間違いないと考えている。たまたま“もしドラ”では、組織目標が“甲子園出場”という客観性の強いものだったので、その堕落が顕在化することはなかったが、ベクトルが自分自身に向かうような組織は必ず脆弱化すると考えている。
この私の解釈は間違っているだろうか。この「顧客」定義については、所属するISO9001研究会でも議論してみたいと、考えている。いつ頃になるかは不明だが、その結果はこのブログで報告したい。
世間の注目を浴びやすい女子高生とドラッカーの一見してミスマッチを無理矢理つなげるという着目点は さすが秋元氏の弟子の原作だ。だが、これでドラッカー啓蒙書としたつもりであろうが、ドラッカーの誤った解釈を広めるものであるとすれば、害悪でしかない。
果たして、この“小説”を称賛したというドラッカー研究者とは一体誰であろうか。私には非常に興味の持てることだが、権威者の意向を忖度する傾向の強い日本でのドラッカーの正しい解釈への妨げにならないことを祈る。それは最後の“おまけ番組”で、原作者岩崎氏自身が感激したというドラッカーの次の言葉そのものが日本では通りにくいからだ。“何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりしない。このような資質を欠くものは、いかに愛想がよく、助けになり、人づきあいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。そのような者は、マネジャーとしても、紳士としても失格である。”
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それでも時間を割いて読む価値があるとは考えず放置していたら、最近 私の所属するISO9001研究会で、コーディネータが“もしドラ”を取り上げる予定だと言い出して、他のメンバーも賛同していた。そこで、少しは何とかするべきなのかも知れないと思い始めていた上に、ドラッカーの研究者が、“もしドラ”の“解釈は間違っていない”という“お墨付き”を与えたという噂も耳にしていた。そこへ、このアニメ番組の放映と知って、少なくともそれは見るべきだと思ったのだ。
そういうことで、今も未だ原作は読んでいない。だから、今回は正確にはテレビ・アニメ“もしドラ”を通しての感想である。だが、原作者の岩崎氏も このシリーズ放映の最後には登場しているため、その内容は原作から大きく乖離してはいないものと思われる。
それから、大変申し訳ないが 私は難解と言われるドラッカーを未だ本格的には読んでいない。その“難解さ”に恐れをなしていて、“エセンシャル版マネジメント”をツンドクしている段階にある。この原稿を書くに当たって、その積んである本を所々つまみ読みはしたが、ドラッカーの本筋や全体像を理解した上での感想ではないことを了承されたい。
この小説は、都立高校―何故、一般的な県立高校ではないのか?―の野球部を舞台にした青春スポコン物では当然ない。スポコンつまり根性物には、やみ雲の精神論はあるが、冷静なマネジメントは馴染まないからだ。また若い男女が登場する割には恋愛模様もほとんど無く、そういう点でも一味違っている。後は、登場人物の中で主人公の親友で病弱な女の子が、思い半ばで亡くなるというお涙頂戴もあり、どこまでも純粋な“真摯さ”を基調とした青春ストーリ仕立てである。しかし、そこには、野球部員間の厳しい精神的葛藤は乏しく、結構皆ポジティブなのが目立ち、ある種平板な個性が気になるところである。また、監督はあまりにもクールであり、それで野球部員全員を指導し甲子園に行くレベルへと導けるのか、という疑念が湧いたり、監督と部員の関係性や部員間の先輩・後輩に対等に近いものがあることも気になった。
何よりも、重要な組織目標を女子マネージャーが設定するというのも、気になるところだが、それ無しではこの物語の前提を崩してしまうことになってしまう。要するに、この小説の構想には相当無理がある、と思うのだが、これがベスト・セラーになるということの世の中の不思議さをあらためて感じるのだ。そういう違和感にさいなまれながら、物語は進んで行った。
だが、私の中で最も引っかかったのは、野球部の“顧客”は何かでは、“野球部に関係する全ての人”と言った挙句に、最後に野球部員でもあるとの結論に至った。野球部員は“従業員であるとともに一番の顧客でもある”と言うのだ。これにはさすがに仰天した。自分達自身を一番の顧客である、とするのはいかがなものだろうか。
顧客とは、本来、組織に関わりを持とうとする第三者でなければならない、と私は思っている。第三者であるから、時に組織には厳しい姿勢を示す。顧客は、組織にとっての最大の批評家であり、その顧客との緊張関係が組織を育てると言って良い。つまり、組織には“顧客から学ぶ”姿勢が必要なのだ。また組織は競合相手からよりも、意義深いことの多くを顧客から学び、それによって競合相手を無力化することすらある。重要な“イノベーション”の多くは顧客の潜在的欲求に発している。だから、“お客様は神様でございます。”となる。
自己自身から“学ぶ”ことはほとんどない。そこに緊張関係は無く、組織自身も試練を受けないため進化はほとんど期待できない。ベクトルが自分自身に向かうような組織は絶対的に堕落すると、私は信じる。夜郎自大となって、滅んだ組織は枚挙に暇が無いことに注意するべきだ。フクシマの事故もそういった要因が大きいと思われる。顧客を如何に規定するかは、ドラッカーの示すように組織経営の要諦だが、“もし、ドラ”は、その最初に致命的誤りを犯している。
問題は“公立高校の野球部”という設定にもあるのではないか。これが、私立高校の野球部であれば、野球部が活躍して最も“喜ぶ”のは、学校経営者であるのは明白だ。そうであれば、野球部の顧客は学校経営者であるとするべきではないか。この場合、野球部員は、あくまでも活躍のための従業員であるべきだ。野球部が活躍し、学校の名声が上がれば、野球が好きで優秀な生徒が集まって来るし学校は繁栄する。そして、ますます野球部は強くなる。そうなれば、学校経営者は野球部に重点的に資源を配分する。こうして野球部にとっての発展の正循環となる。“もしドラ”では“皆を感動させる”ことが“組織の定義付け”としているが、これも抽象し過ぎた組織目的としたため訳の分からない結論となっているのではないか。
本番放映前の予告番組で ある著名な製パン会社の経営者が、登場していたが そこで、“わが社の本社の顧客は、各製造現場の工場である、と考えて、そのように運営している”旨の説明があった。これには私は大いに疑問を感じたのだが、この“もしドラ”の誤った解釈の影響ではないかと思っている。この経営者は“もしドラのおまけ”番組にも登場されたのかも知れないが、その時 そのような番組があるとは知らず、それを私は見てはいない。
本来、工場は本社にとっては、顧客では決してありえない。工場は、あくまでも本社の指導対象でしかない。確かに、本社スタッフはライン(生産現場)のサービス部門であるということはある。しかし、それは本社機能の一部であって、本質ではない。本社は組織にとっての真の顧客の声に耳を傾ける拠点であり、経営者はそれを真摯に受け止めて分析し、それをもとに工場を指導する強力なリーダー・シップを発揮することに基本機能がある。工場を顧客と見做して甘やかしてはいけない。また、顧客の声を工場経由で聞くようなことはあってはならない。工場にとって都合のよい情報しか本社・経営者には届かなくなるからだ。製品生産の工場は、組織の中核機能であり、顧客にとっては組織つまり会社そのものでもある。つまり、工場は会社の中では事実上 強大な力を持っているのであり、それだけに自己中心に落ち入りがちで顧客軽視の傾向もみられる。かつて“技術の○○”と称した会社が大抵 顧客軽視に落ち入り、場合によっては経営危機に陥ったのにはこうした背景がある。したがって、本社は工場を絶えず監視し、採算の悪い時は梃入れし、それでも改善しなければ場合によっては閉鎖するほどの強い指導力を持たなければならない。本社と工場の役割はPDCAで言えば、まず本社がPlanを示し、工場がDoを為し、結果を本社がCheckし、工場にActionを起こすことで、強くて夜郎自大に落ち入りがちな工場を牽制し引き戻し、正しい成長を遂げることができるようになるのだ。
そうだとすれば、あのパン屋さんの株はヤバイのかも知れない。
ついでながら、“おまけ番組”で、さわやか福祉財団の堀田勉氏もNPO主催者として、非営利組織の運営についてドラッカーに学んだことを解説していた。野球部は非営利組織であるから、“顧客”とは何かについて、一言あるかと期待した。ドラッカーの著作には“非営利組織の経営”があり、堀田氏はそれを導きにしているという。
そこでは非営利組織では、その存在目的は厳守せよ、その活動目標は具体的にせよ、と言っているという。そこで、堀田氏はボランティア参加者の目標数を具体的に設定した、とのこと。また 組織メンバー全員の自発性を尊重するべきで、そのための情報共有が重要なので、必ず全員参加の会議を開催していると説明していた。またメンバーの自発的マインドには“真摯さ”が重要であるとのこと。この“真摯さ”はintegrityの訳だという。確かに、integrityはドラッカー思想の核心をなすコンセプトであるとされている。
だが、私の聞きたいと思っていた、非営利組織にとっての“顧客”とは何かについての定義説明はなかった。原典の“非営利組織の経営”のそれらしい部分をつまみ読みしてみたが、残念ながら直接的には説明してはいなかったように思う。非営利組織は、個別には全く異なる性格を持っているため、一概に議論することの困難さがあるのかも知れない。例えば、日本のISO業界でのJABの顧客は誰なのか、難しい課題である。日本のISO業界は低落傾向にあるのだが。
だが、私は 自己を顧客またはその一部であると規定すれば、いずれその組織は自己中心的になり、堕落がはじまるのは間違いないと考えている。たまたま“もしドラ”では、組織目標が“甲子園出場”という客観性の強いものだったので、その堕落が顕在化することはなかったが、ベクトルが自分自身に向かうような組織は必ず脆弱化すると考えている。
この私の解釈は間違っているだろうか。この「顧客」定義については、所属するISO9001研究会でも議論してみたいと、考えている。いつ頃になるかは不明だが、その結果はこのブログで報告したい。
世間の注目を浴びやすい女子高生とドラッカーの一見してミスマッチを無理矢理つなげるという着目点は さすが秋元氏の弟子の原作だ。だが、これでドラッカー啓蒙書としたつもりであろうが、ドラッカーの誤った解釈を広めるものであるとすれば、害悪でしかない。
果たして、この“小説”を称賛したというドラッカー研究者とは一体誰であろうか。私には非常に興味の持てることだが、権威者の意向を忖度する傾向の強い日本でのドラッカーの正しい解釈への妨げにならないことを祈る。それは最後の“おまけ番組”で、原作者岩崎氏自身が感激したというドラッカーの次の言葉そのものが日本では通りにくいからだ。“何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりしない。このような資質を欠くものは、いかに愛想がよく、助けになり、人づきあいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。そのような者は、マネジャーとしても、紳士としても失格である。”
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同様に、野球部の誰かがファインプレーをして、野球部の誰か(or全員)が感動したり喜んだりすれば、顧客は野球部員でもいいような気がします。