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領土・領海をめぐる日本人の感覚

この夏、敗戦記念日のあたりで、韓国、中国からしかけられて領土・領海問題を意識させられる事件が頻発した。こうした問題に対し、日本人の感覚が相当甘いところがあるような気がしている。というのは、韓国や中国の主張には かなり感情的で自己中心の主観的な要素が多く、客観的な証拠さえ積上げれば彼らを論破するのは容易だと思い込んでいるフシがあるからだ。
或いは、“本来、誰のものでもない土地や海を、誰のものかと目くじら立てて、戦争するのはバカらしい。”という議論を もっともだとしてしまうのは、現代社会というものを正確に認識していない人々の発想である。勿論、国家主義的発想も少々古ぼけてきてはいるが、まだまだ国家の機能が一般市民社会に及ぼす影響力の大きさを考える時、それは 自身の利益を損なうことに通じる考え方であると思うべきだ。社会を考える時、そうした文明発達論的時間軸の考え方が入っていないと、とんでもなく不利で誤った議論を もっともらしい顔ですることになるのだ。それが社会科学者としての発言ならば、無責任であり 見立て違いもはなはだしいのではないか。

尖閣諸島の領有は、単なる中国特有の言いがかりに過ぎず、彼らの領土的野心に基づいているだけとの思い込みがあるのではないか。例えば あの尖閣・魚釣島に上陸した連中を、強制送還後に香港へ取材に行った日本のテレビ・クルーがあった。その中心的人物にもインタビューしていたが、“あなたの主張や行為は正しいと思うのか”という愚にもつかない質問。相手は当然“正しい”と答えて胸を張ったが、その直後画面は変わってしまっていた。普通この後、さらに“何故、そう考えるのか”と聞くものである。いや、最初から何故と聞くべきであり、その主張を報道することが使命であるにもかかわらず、それをしないのは何故であろうか。

私の知る限りにおいては、尖閣問題の発端は次のようなことだと聞いている。魚釣島周辺は、良好な漁場であったため戦前は台湾からも漁に来ていたという。当時台湾は日本領であり、彼らは日本国民であったので それは当然問題にならず、沖縄の漁民とも特にトラブルなく互いに漁をしていたという。ところが、戦後台湾は、国民党政府の統治下になり、尖閣は米国の施政権下に入ってしまった。そこで、魚釣島に来れなくなった台湾漁民が 戦前有った漁業権の継承を主張し始め、沖縄が日本の施政権下に入ってからも主張し続けていることが原因だとのことである。台湾が それを主張するなら、中国もそれに便乗しようとしているのが、この騒動だとされる。従い、問題は漁業権の帰属問題であり、諸島の領有権の主張は言い過ぎとされる。

しかし、中国側の主張はこれに留まっているのであろうか。その点を 確かめて見るべきであるが、先のバカバカしいインタビューにもあるように、日本側にその論拠を確かめようという意思は乏しい。信頼できる評論家によれば、中国側も相当に理論武装していて、容易に論破できないとの指摘もあるし、台湾の馬英九総統は、この問題を法学的に論じてハーバード大で博士号を取得したと仄聞している。

私には そういった法理論でこの問題を論じる材料を持ち合わせていないが、例えば、次のような論を提起された場合 どのように それを論破するべきであろうか。
例えば、話は近代史以前に遡ると、沖縄は本来琉球王国であって 江戸時代に島津藩がこの琉球を“不当にも”軍事的に制覇し、その結果がそのまま明治期に引き継がれ、琉球王国は沖縄として日本に帰属することとなった。(琉球処分)しかし、この島津の琉球侵攻前から、琉球王国は中国(当時は清国)に冊封使を派遣しており、清国の属領としての礼を取っていた。島津侵攻以後も琉球側の意志でこれを続けたが、それが琉球人の本来意思であり、“不当な”島津侵攻による日本への二重帰属は、本来の意思ではない。いわば、島津侵攻は、清国領簒奪と同じである。そして尖閣は、当然琉球王国の一部であったし、しかも琉球列島から東シナ海へ異様に突出して位置しており、これを中国領の一部回復として、中国が主張するのは不当なこととは言えない。
こういう立論に対し、如何に反論をなし得るのであろうか。近代法の概念の成立以前、つまり国民国家成立以前の状態から論を起こすのは、不当なこととは言えまい。しかも、中国はこの程度の主張は当然して来るであろうし、場合によっては、もっと詳細に歴史的事実を調査し、立論材料として、様々に補強してくることは十分に予想される。

これは、一つの可能な議論を想定したまでであって、勿論 中国への反論はいくらでもある。しかし、こういう日本側の主張に不利な立論を想定し、どのように反論するかは、いわばMBA的訓練であると言える。日本では こうしたMBA的教育・訓練法を“まるでバカでアホ”な方法論として、遠ざける傾向にあるが、こういったディベートの訓練をしていなければ、国際社会を納得させる議論を展開できない。中国の主張に感情的に逆上し、根拠無き思い込みで“日本領である”と主張するだけでは、国際社会の納得は得られない。客観的事実に基づき論理的に反論し、国際社会を納得させられなければ、外交的敗北を招く結果となる。そういう冷静な用意が、今の日本にあるのだろうか。

竹島についても同様である。竹島についての帰属論は、韓国も論拠が曖昧で非常に情緒的主観的のようだ。しかし、第三国の目で、今の事態を見た場合、如何に日本の主張が方理論上正しいものであっても、国際政治の実利上の問題としては、日本の主張は通り難いものと言えるのではないか。
それは、竹島を日韓いずれの帰属とするのが国際社会上摩擦が少ないかの目で見た場合、韓国領とする方が問題が少ないと言えるのである。つまり、韓国が武力で“不法占拠”し実効支配していた間、日本は強力に韓国を非難することもなく、放置して来た。韓国国家元首の李大統領が実効支配の実を示すためにその地を踏んで、ようやく日本側が声を揚げた程度である。それは、日本にとって竹島は大した利害の対象でなかったことを示すものであり、日本政府自身が それを放棄しても損害は 毛ほども無いことを示している。ところが、この竹島を日本領とした場合、現状そこに居住する韓国の“住民”(ムリヤリ住んでいるにしても)にとっては人生を左右するほどの大損害を韓国側が蒙ることになるのは客観的に明らかである。しかも、韓国人の日本への悪感情は頂点に達する。それは東アジアの安定にとって悪い影響を与える。であるならば、現状実態を、国際社会が追認することが、摩擦や損害を最小限に留める最良の方法である。
こういう日本政府の不作為に基づく政治的実利論の展開に対し、どのように反論し得るのか。十分に 考慮する必要があるのではないか。

南千島に至っては、もう日本の主張は暴論と言えるのが実態であろう。何故ならば、無条件降伏後、日本軍が組織的抵抗が不可能なところへ侵攻したソ連軍の不当さがあったとしても、日本政府はサンフランシスコ講和条約において、“千島は放棄する”と国際社会に宣誓・署名したからである。(条約第二章第二条(c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。)南千島は、千島に属さないとか、ソ連は条約締結時に欠席していたからソ連には 条約は無効なのだ、という日本の主張は 一見ヤクザな言いがかりだ。それは、憲法前文の“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼” する姿勢とは異なる立場のように見える。法文を素直に読むことを第一とするならば、解釈改憲と同様、何でも都合よく解釈して対処しようという姿勢とダブって見える。
ソ連が崩壊し、ロシアになった90年代 ロシア極東地域、特に旧樺太(サハリン)や千島の住民社会は瀕死の状態であり、日本の本格的援助を心から望んでいた。その時、日本ではムネオ・ハウス騒ぎに終始し、検察はその中心人物たる鈴木氏を政治的に逮捕してしまった。いわば、“返還”にとって千載一遇の好環境を見過ごして、国内の政争に熱心であり、国際社会での冷厳な勢力関係を見誤ったのだ。超国家主義的立場に立てば 当時、日本は中国と組んで極東ロシアを分離独立させることも可能だったのではないか。そうなれば、南千島はもとより樺太さえ奪還できたはずだ。そういうグランド・デザインを描いて実行するような国際視野で剛腕の大物政治家はおらず、そのような声すら上がらなかったのが日本の実態である。そういう 政治的に有利な状況を日本は わざわざ潰して幕引きしてしまったのだ。“まるでバカでアホ”なのは日本ではないのか。
ソ連を引き継いだロシアが、“国際的に認められた正統の領土”として大統領が その地を踏むのは当然の行為であろう。繰り返し言うが、彼らは、不法に実効支配しているのではなく、日本が宣誓・署名した国際条約の条文に従って合法的に、統治しているのである。国際法の下では日本政府の立場は それを政治的に何とか撤回して欲しいという要求であり、その後日本側では講和条約の線からは押し戻したと信じている。だが、大局的にはロシアの国益は、南千島を日本にできるだけ高く売りつけることであり、現実に売れなくても日本が喰い付き続けさえすれば、シベリア開発も絡めて、様々な利益をせしめることは可能だ。日本は目の前に千島というニンジンをぶら下げられて、走らされているようなものなのだ。

ここでは、考えられうる日本の領土問題に対するアンチーテーゼを並べてみた。そういう議論を想定し、それらの全てに対し、客観的事実に基づき論理的に反論し、しかも現状の政治的実態から見て、どうすることが国際社会に資することになるのかと言った議論が完璧にできない限り、日本の主張は 出るところへ出ても容易には通らない。つまり、国際司法裁判所に持ち込めば必ず勝てるハズなどとの 根拠なき妄想は捨てる必要があると思うのだ。まして、そのような根拠なき妄想に従って、感情的になり実力行使に至るのは下の下の愚策としか言いようがない。
米国が、これら日本の領土問題で容易に日本側に立たない理由は 客観的にそういうところにあると言って良い。それを 感情的に“米国は頼りにならない”と言って、切って捨てるだけで良いのだろうか。それより日本側に有利な客観的議論を積上げて、国際社会や米国政府を説得する努力を長年継続するべきである。しかし、日本は時々思い出したように強く主張するが、その割には継続的で粘り強い冷静な立論や行動もなく、感情的にいきり立っているだけに見えるのではないだろうか。米国が そのような日本のために同調すると大ヤケドすると考えるのは当然であろう。
竹島について言えば、それが不法占拠されているとしても、過去50年間の日本政府の不作為の事実は消せない。“時効”という概念は日本側には不利い働く。そして、そのような政府の不作為を放置したのも日本国民なのだ。もちろん、それを問い続けた日本人達は居たかも知れない。しかし、それは一般日本国民の強い共感が得られるほどの問題とはならず、それが日本の総意と国際的に見なされても仕方あるまい。
要するに、領土問題には日本人は本質的に淡泊なのではないか。しかも、日本政府には領土問題解決に関する戦略性が乏しく、錯誤や不作為が散見される。国会に常設の国境問題を論じる委員会がある訳でもなく、時々の関係国のパフォーマンスに応じてのみ騒ぐだけだ。それを、さらに情緒的感情的に論じるのは問題が多いような気がする。論理思考が苦手で、国家主義的戦略性に欠け、“空気”で戦争を引き起こしてしまうような国民性には、手に余る危険なテーマではないだろうか。
しかし、中国の言いがかりはどう考えても詭弁であり、それが“正義”で民意だというのは理解しがたい。従って、日本政府には現状の実態的国境は、国際法にのっとってしっかり守る姿勢は厳しく貫いてもらいたい。場合によっては自衛隊の出動も辞さない覚悟と姿勢が必要だと思う。

いずれにしても、日本は経済的に強い立場になければ世界から相手にされなくなり、弱みに付け込まれるのが現実である。早期に政治的改革を行い、経済的に強い日本の再建が望まれるが、残念ながら一向にその気配がなく、低迷したままである。

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