The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
宮城谷昌光・著“花の歳月”を読んで
ゴールデン・ウィークも終わって、これから暑さに向かう時候、しばし気候的には1年中で最も快適の時期となった。
一度、ブログを休刊したいと思ってしまうとそうした弛緩した気分を引き締めるには、結構しんどいものがある。
前回、外憂内患と称したが、内外情勢はゴールデン・ウィーク前に予想された状況が引き続いている昨今のような気がする。しかし、良く見るとその中には、次の激変を予感させる動きがある。
それにしても、トランプ氏のディールに世界が振り回されている印象だ。さすがの金正恩もそれに振り回されているように見えるが、当面その剛腕さにトランプ氏に負けざるを得ないと言ったところだろうか。その内に既に貧乏になっているが気前の良い日本に請求書が回ってくるような気がしてならない。それに関しては何だか妙に気前が良くてマヌケな現首相が簡単に応じそうな気がする。その代償は拉致被害者の帰還だと、うそぶくのであろう。金で拉致被害者を取り戻すのは、ディールとしては少々違う話ではないかと思われるが、呑気な日本の世論はそれで妙に納まってしまうのかもしれない。
モリカケのカケ問題のカナメの元首相秘書官等の国会参考人招致があった。この元秘書官の委員会での対応は見事であった。その点で、日本の官僚の優秀さにおいてトップを行くという財務官僚を凌ぐものだったと言わざるを得ない。意外に財務官僚は下品で世間知らずの印象が際立った印象が残った。
柳瀬氏はジャーナリストや元政治家からも誠実でシャープな人だという評があり、こういう優秀な人物を今の政権は潰すつもりか、とまで言われていたが、実際はそんなヤワな人物ではなく、大タヌキだという評価に変わった。参考人質問会の中ではその答弁に全く論理破綻は無く、しかも質問相手が元首相秘書官の先輩であっても、委員会の中では自ら進んでよどみなく答えていたのは驚嘆するばかりであった。もう一人別の参考人の声が上ずっていたのと全く異なる風景があった。しかし、その問答を新聞等で精査すると矛盾が結構ある答弁であったことが分かった。
つまり、この参考人招致で加計問題が灰色から限りなく“真っ黒け”であることが、明らかになったのだ。こんな明らかな真っ黒け案件に国会が2年近く引きずられて無駄な時間を空費し、機会を逸しているのは大きな国益の損失ではないのか。既存の司法体制では、政権を忖度する検察が機能せず、政権の不祥事は国会で追及せざるをえないのが現状だが、このような追及不十分のままでは政治家の不正は止まず、国会自体も機能しないという二重の機能不全に日本が悩まされる重大問題がある。
米国や韓国と同じように国会が指名する特別検察官制度を創設して、既存の検察官の上位の捜査権限や連携権限を与え、政権や政治家の不祥事の疑いが生じた段階で捜査する検察官を臨時に起用する仕組を作らなければならないように思う。捜査や取り調べには、国会質問と違ったノウハウや専門性が必要で、そのようなチームで捜査していれば、モリカケ問題は結構早く決着が付いていた問題ではないかと思うのだ。首相はとっくの昔に辞任せざるを得ない状態に追い込まれて居たに違いなのだ。少し前、ある高級官僚に“地位にしがみつき恋々とする”と言って非難したが、ご自分こそ、その地位にしがみつき恋々とする下品な人なのだ。その地位にしがみつくのは、知られている以外にも甘い汁が吸えるものがあるからに相違ないのだ。
日本の政治制度は、安倍氏のような下品な人物が首相に就くことを想定していなかったのだろう。しかし法規制はすべからく性悪説で作っておかなければ、このような混乱で国政の停滞を招いてしまうことを、心するべきだ。
さて、実はこのゴールデン・ウィークGW前に宮城谷昌光・著“花の歳月”を読んだので、報告したい。GW前、何だか小説を読みたくなり、というより“お話”が読んでみたいという欲求が湧き起った。そこで先ず、誰の作品にするか決める必要があった。私は特定の作家の作品から選んで読むようにしているが、中でも城山三郎氏は現代の話だが少し時代が前のものであり、吉村昭氏は深刻な内容が多い。この際、“お話”としては宮城谷昌光氏の古代中国の話にしよう、と探してみたが、残念ながら文庫本にして数冊のものが多い。それでは“お話”が読んでみたいという欲求を満たすのには、速効性が乏しい。文庫本1冊に1小説が収められている本、となると乏しいのだが、書店で見つけたのがこの“花の歳月”だった。活字が大きく、行間も広い。人によっては“損した”と感じるかもしれないが、速効性のある精神安定剤として服用するべく読んだのだった。
読み終わって、すがすがしい何とも言えない爽快感があった。振り返ってみると宮城谷氏の小説は大抵読後にさわやかさが必ずあるのだが、この小説は飛びっきりだった。効き目抜群と言える。
その内容は、古代中国の河北・観津に住んでいた貧しい名家竇(とう)*家出身の姉弟の猗房(いぼう)と広国にふりかかる運命の転変を描く。姉の猗房が朝廷の指示に応じた郷の長老に推されて漢王室に入ることになった。その後宮に在った呂太后が君臨する過酷な環境下でも、結局は文帝の妃となる。一方、姉が王室に入る日に賊に誘拐された弟・広国も、苦難の末、猗房の下にたどり着き地方長官に就くが、苦難時代に世話になった女性と一緒になるというハッピーエンドだ。老子の思想に従い、こだわりを持たず慎ましく、多くを望まず少しのことで満足する生き方をしていれば、おのずと良いことがあるということを示したもので、清らかな感動作である。
*“竇”という漢字について(穴+士+買):(1) 穴,くぼみ. (2)姓.
意味①かべにあなをあけて出入りする所。くぐり戸。②穀物を蓄えて出し入れするあな。あなぐら(穴倉)。
解字:「穴(あな)+音符・賣イク・トク(ぬき出す、出し入れする)」の会意兼形声文字。櫝トク(出し入れする引き出し)と同系のことば。
このような説話が史記のどのような部分で語られているのか、宮城谷氏の発掘による名文で示されて清々しさがあった。この小説で少し触れられる老子の思想は詳しくは知らないが、ありのままに満足し ひたすら清々しく生きるという精神に興味あり、一度は関連する書物を読んでみたいと思う。だがしかし、無為に現状に満足することは少々危険かもしれないとも思うのだ。
それにしても漢字は奥が深く難しい。主人公姉弟は名家“竇家”出身とあるが、この際、漢和辞典を引いてみた結果が前掲の通りで、つくづく深みに感動する。
この点については宮城谷氏は十分精通しているようだ。Wikipediaに高名な漢文学者・ 東洋学者である白川静と宮城谷氏が対談した時、“「あなたは勉強家だ」と白川を驚嘆させ、「文章も清新でよろしい」と評価されている。”との逸話が載せられているくらいだ。
だが、その宮城谷氏自身の漢字に対する意見が、この小説の講談社文庫の末尾196頁以降の“漢字のこと語源のこと―あとがきにかえて―”に出ている。
“たとえば「みる」を漢字に直す場合、すくなくとも十三通りある。
「見る」「相る」「看る」「視る」「察る」「覧る」「「瞰る」「瞥る」「瞻る」「覲る」「観る」「矚る」「鑑る」
それらを全部つかったというおぼえはないが、三分の二ほどはなるべく原義にそってつかった。とくにおもしろいのは、「看る」である。これは目の上に手をかざしてみるわけであるから、中国の古代の人もおなじような恰好をしったのだとわかって、人間の動作の変わりのなさを教えてくれている。
漢字は、中国の古代の人々を鑑(み)させてくれる、小さなふしぎな窓なのである。”
ここで、“「みる」対応する漢字が13ある”というのも驚きで続々と知らない漢字を提示されたが、漢籍に素養のある宮城谷氏ですら、“漢字”は難しいと語っている。ワープロ・ソフトに無条件に従っている私のような浅学菲才な者が、うかつな漢字の使い方をしてモノ笑いのタネになる危険性があるという覚悟が必要だ。しかし、無知=無恥にまさるものはないのでそれにかまわず押して行かざるを得ないのが実情だ。今後とも過ちがあっても何とか御許し頂きたい。
一度、ブログを休刊したいと思ってしまうとそうした弛緩した気分を引き締めるには、結構しんどいものがある。
前回、外憂内患と称したが、内外情勢はゴールデン・ウィーク前に予想された状況が引き続いている昨今のような気がする。しかし、良く見るとその中には、次の激変を予感させる動きがある。
それにしても、トランプ氏のディールに世界が振り回されている印象だ。さすがの金正恩もそれに振り回されているように見えるが、当面その剛腕さにトランプ氏に負けざるを得ないと言ったところだろうか。その内に既に貧乏になっているが気前の良い日本に請求書が回ってくるような気がしてならない。それに関しては何だか妙に気前が良くてマヌケな現首相が簡単に応じそうな気がする。その代償は拉致被害者の帰還だと、うそぶくのであろう。金で拉致被害者を取り戻すのは、ディールとしては少々違う話ではないかと思われるが、呑気な日本の世論はそれで妙に納まってしまうのかもしれない。
モリカケのカケ問題のカナメの元首相秘書官等の国会参考人招致があった。この元秘書官の委員会での対応は見事であった。その点で、日本の官僚の優秀さにおいてトップを行くという財務官僚を凌ぐものだったと言わざるを得ない。意外に財務官僚は下品で世間知らずの印象が際立った印象が残った。
柳瀬氏はジャーナリストや元政治家からも誠実でシャープな人だという評があり、こういう優秀な人物を今の政権は潰すつもりか、とまで言われていたが、実際はそんなヤワな人物ではなく、大タヌキだという評価に変わった。参考人質問会の中ではその答弁に全く論理破綻は無く、しかも質問相手が元首相秘書官の先輩であっても、委員会の中では自ら進んでよどみなく答えていたのは驚嘆するばかりであった。もう一人別の参考人の声が上ずっていたのと全く異なる風景があった。しかし、その問答を新聞等で精査すると矛盾が結構ある答弁であったことが分かった。
つまり、この参考人招致で加計問題が灰色から限りなく“真っ黒け”であることが、明らかになったのだ。こんな明らかな真っ黒け案件に国会が2年近く引きずられて無駄な時間を空費し、機会を逸しているのは大きな国益の損失ではないのか。既存の司法体制では、政権を忖度する検察が機能せず、政権の不祥事は国会で追及せざるをえないのが現状だが、このような追及不十分のままでは政治家の不正は止まず、国会自体も機能しないという二重の機能不全に日本が悩まされる重大問題がある。
米国や韓国と同じように国会が指名する特別検察官制度を創設して、既存の検察官の上位の捜査権限や連携権限を与え、政権や政治家の不祥事の疑いが生じた段階で捜査する検察官を臨時に起用する仕組を作らなければならないように思う。捜査や取り調べには、国会質問と違ったノウハウや専門性が必要で、そのようなチームで捜査していれば、モリカケ問題は結構早く決着が付いていた問題ではないかと思うのだ。首相はとっくの昔に辞任せざるを得ない状態に追い込まれて居たに違いなのだ。少し前、ある高級官僚に“地位にしがみつき恋々とする”と言って非難したが、ご自分こそ、その地位にしがみつき恋々とする下品な人なのだ。その地位にしがみつくのは、知られている以外にも甘い汁が吸えるものがあるからに相違ないのだ。
日本の政治制度は、安倍氏のような下品な人物が首相に就くことを想定していなかったのだろう。しかし法規制はすべからく性悪説で作っておかなければ、このような混乱で国政の停滞を招いてしまうことを、心するべきだ。
さて、実はこのゴールデン・ウィークGW前に宮城谷昌光・著“花の歳月”を読んだので、報告したい。GW前、何だか小説を読みたくなり、というより“お話”が読んでみたいという欲求が湧き起った。そこで先ず、誰の作品にするか決める必要があった。私は特定の作家の作品から選んで読むようにしているが、中でも城山三郎氏は現代の話だが少し時代が前のものであり、吉村昭氏は深刻な内容が多い。この際、“お話”としては宮城谷昌光氏の古代中国の話にしよう、と探してみたが、残念ながら文庫本にして数冊のものが多い。それでは“お話”が読んでみたいという欲求を満たすのには、速効性が乏しい。文庫本1冊に1小説が収められている本、となると乏しいのだが、書店で見つけたのがこの“花の歳月”だった。活字が大きく、行間も広い。人によっては“損した”と感じるかもしれないが、速効性のある精神安定剤として服用するべく読んだのだった。
読み終わって、すがすがしい何とも言えない爽快感があった。振り返ってみると宮城谷氏の小説は大抵読後にさわやかさが必ずあるのだが、この小説は飛びっきりだった。効き目抜群と言える。
その内容は、古代中国の河北・観津に住んでいた貧しい名家竇(とう)*家出身の姉弟の猗房(いぼう)と広国にふりかかる運命の転変を描く。姉の猗房が朝廷の指示に応じた郷の長老に推されて漢王室に入ることになった。その後宮に在った呂太后が君臨する過酷な環境下でも、結局は文帝の妃となる。一方、姉が王室に入る日に賊に誘拐された弟・広国も、苦難の末、猗房の下にたどり着き地方長官に就くが、苦難時代に世話になった女性と一緒になるというハッピーエンドだ。老子の思想に従い、こだわりを持たず慎ましく、多くを望まず少しのことで満足する生き方をしていれば、おのずと良いことがあるということを示したもので、清らかな感動作である。
*“竇”という漢字について(穴+士+買):(1) 穴,くぼみ. (2)姓.
意味①かべにあなをあけて出入りする所。くぐり戸。②穀物を蓄えて出し入れするあな。あなぐら(穴倉)。
解字:「穴(あな)+音符・賣イク・トク(ぬき出す、出し入れする)」の会意兼形声文字。櫝トク(出し入れする引き出し)と同系のことば。
このような説話が史記のどのような部分で語られているのか、宮城谷氏の発掘による名文で示されて清々しさがあった。この小説で少し触れられる老子の思想は詳しくは知らないが、ありのままに満足し ひたすら清々しく生きるという精神に興味あり、一度は関連する書物を読んでみたいと思う。だがしかし、無為に現状に満足することは少々危険かもしれないとも思うのだ。
それにしても漢字は奥が深く難しい。主人公姉弟は名家“竇家”出身とあるが、この際、漢和辞典を引いてみた結果が前掲の通りで、つくづく深みに感動する。
この点については宮城谷氏は十分精通しているようだ。Wikipediaに高名な漢文学者・ 東洋学者である白川静と宮城谷氏が対談した時、“「あなたは勉強家だ」と白川を驚嘆させ、「文章も清新でよろしい」と評価されている。”との逸話が載せられているくらいだ。
だが、その宮城谷氏自身の漢字に対する意見が、この小説の講談社文庫の末尾196頁以降の“漢字のこと語源のこと―あとがきにかえて―”に出ている。
“たとえば「みる」を漢字に直す場合、すくなくとも十三通りある。
「見る」「相る」「看る」「視る」「察る」「覧る」「「瞰る」「瞥る」「瞻る」「覲る」「観る」「矚る」「鑑る」
それらを全部つかったというおぼえはないが、三分の二ほどはなるべく原義にそってつかった。とくにおもしろいのは、「看る」である。これは目の上に手をかざしてみるわけであるから、中国の古代の人もおなじような恰好をしったのだとわかって、人間の動作の変わりのなさを教えてくれている。
漢字は、中国の古代の人々を鑑(み)させてくれる、小さなふしぎな窓なのである。”
ここで、“「みる」対応する漢字が13ある”というのも驚きで続々と知らない漢字を提示されたが、漢籍に素養のある宮城谷氏ですら、“漢字”は難しいと語っている。ワープロ・ソフトに無条件に従っている私のような浅学菲才な者が、うかつな漢字の使い方をしてモノ笑いのタネになる危険性があるという覚悟が必要だ。しかし、無知=無恥にまさるものはないのでそれにかまわず押して行かざるを得ないのが実情だ。今後とも過ちがあっても何とか御許し頂きたい。
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