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そうだ!アジサイを見て孤独のハイキングを!―神戸森林植物園から谷上駅への山田道踏破

英ジョンソン首相が辞任した。その行状はともかく、この人は首相としての仕事はした人ではなかったか。
それに引き換えて日本の首相と比べると、どうだろうかと思っていたら、日本の元首相が選挙遊説先で銃撃されて亡くなった。
“死者に鞭打たない”という日本の“美風”か“悪習”かは知らぬが、毀誉褒貶が“稀有の政治家だった”との一見称賛一色の嵐となっている。亡くなってしまえば、とにもかくにも“神様、仏様”!あまりにも情緒が極端では?!
中には、こうした感情を悪用するモノも居ることを忘れてはならない!

これまでの日本の首相達は何か業績を残して来ただろうか?良い業績が無いのは、仕事をしたと言えるのだろうか。
アホノミクスは成功したのか?アホノミクスの御蔭で、日本人の平均賃金は韓国人のそれを下回った?“携帯の値下げ”が華々しい業績なのか?それにもかかわらず、無反省にも首がすげ替われば今度は“新しい資本主義”と無意味?
それは空疎で虚しい!

明らかな公職選挙法違反でも逮捕されない?逮捕されない前に検察トップ人事に手を突っ込み成功した!いよいよ逮捕寸前に仮病をつかって公職を辞任して逃げた!
法の下の平等、法の下の自由!言論の自由!これが民主主義の基本だが、それがこの国で厳格に行われているのだろうか。モノ言う言論人が職を追われていないか??怪しい闇の世界がこの国を覆っていないか?

日本学術会議の人事に政治が介入した!このように醸成した言論の不自由で、日本の経済学者が真実を言えなくなった!代わりに米国の俊英経済学者が“日本での賃金が上がらない内の消費税増税は不可”と言ってくれたにもかかわらず、アホアホは増税した。これで日本の不景気は重大な死に至る慢性病となった。

原発事故で国には責任は無い!という最高裁判決が出た。原子力事業はすべからく国家戦略上の事業ではなかったのか。それにもかかわらず、政府には責任が無い?ドゥイゥコト?
本来、政府には国民の知恵を結集して、政策を考えて実行する権限と責任がある。それにもかかわらず、国家戦略上の事業に失敗した政府には責任が無い?これが近代的民主主義国家の司法の最高の決定?これが我が誇るべき国?

地震・津波による福島原発事故。この事故の真因は何か?あれこれ好き勝手に言っていたが、議論は感情的。結局何が問題だったのか、一向に明らかにされない。理性的議論のない不思議さ。それにもかかわらず、この国は“科学立国”だと、当然のように平気で宣う。原因を科学的に究明し、科学的対策を講じる、これが“科学立国”のあり方だろう。だがこの国の対応は、全てウヤムヤで、時間が経てば忘れ去る。激高する感情は冷める!
原因を科学的に究明していないからだろうか、“政府には責任が無い”等とシレッと司法の最高機関は宣うことができるのだ。

私はリスク評価が科学的にできていないから、あのような事故が起きたと考えている。福島事故が起きる前、私はたまたまある大学のリスク教育プログラムを受けていた。そこである原発推進派と思われる研究者から、“千年に1回起きるかどうか分からない災害の対策に莫大な投資をするのはおろかだ”と言っていたのを思い出す。恐らくこれが、当時の政府や電力会社、原発推進派の総意ではなかっただろうか。
だが、実際には“千年に1回起きるかどうか分からない災害”はほぼ千年目に精確に起きたのだった。その時既に千年経過していたにもかかわらず、リスク確率を“千年に1回”と決めつけていたのだ。これが“科学的態度・論理的思考”だと言えるだろうか。その時既に千年経過していたにもかかわらず、リスク確率を“千年に1回”と決めつけていたのでは、“その災害は永遠に起きない”と断定しているに等しいのだ。“千年に1回”のリスク確率は、千年経過すれば100%に近い確率で起きるリスクではなかったのか。この単純な論理すら分からないのなら、日本は“科学立国”の看板を降ろすべきではないのか。

非科学的思考が無責任体制を支えるのだ。
その無責任体制の中で、真面目に責任感の強い官僚は精神を病んでいく。場合によっては不幸にして自死を選んでしまった真面目官僚も居た。そして、一気に“忖度”が官僚機構に浸透した。
政治のトップは“私は何もそんなことはしていない!証拠があるのか?それが事実なら私は辞める。”と言い、責任が無いことを装う。こういう国家体制を彼の人は“見事に”作り上げた。彼の人はこれまで選良がやってはならないことを言い、又やって、この国に悪いレガシーを残したのだ。そういう点での“功績”は多大である。

今、世界は民主主義国家と専制主義国家がウクライナを舞台にせめぎ合っている。こんな日本は果たして民主主義国家なのだろうか。隠れ専制主義国家?下が上に忖度して生きる、卑屈な隠れ専制主義?

こんな現実の中で“暴力が打ち砕いたのは民主主義の根幹である”と多くの人々は、納得した表情で言うが、心底そう思っているのだろうか。何だか空疎な言葉に聞こえるのは私ばかりなのだろうか。日本には既に民主主義は空洞化しているのではないのか。それが彼の人の“功績”ではないのか。

折から、参議院選挙!
先週も言った!“決断と実行”がなされず“検討”というご都合主義の言葉で、問題先送りの果て、政策や国家戦略に矛盾を生じ、しかも無責任!それが電力供給に端的に現れた。電力は文明の基礎。それがひっ迫している。これでは将来不安は増すばかりだと、何度も言いたい。

今回の暗殺は個人的恨みが原因のようだ。だがその背景には、怪しい金を受け取っていた、というありそうなことの妄想からとも思える。怪しいことばかりしていた権力者の身から出たサビとも言えなくもない。説明責任を果たさず、身辺の透明化を怠ったせいではないのか。身辺の透明化は人々から誤解されないための政治家の必須の特性だ。
怪しいことを闇の彼方に置いたまま結果として、二つの与党の名称も人々を欺くまやかしとしているように見える。その不信が、人々の政治不信の第一歩なのだ。
権力者が不法を行い、その不法とは直接関係のない民衆の1人が不法で報いた。非常に概括的でマクロ的な言い方ではあるが、これが日本の現実となった。つまりこれで、日本は論理的に法治国家ではなくなったのだ。これが民主的国家であろうか?

この事件の真相も恐らく、この日本では徹底的に究明されることはないのだろう。これでまた情緒に流されることは、過去の歴史の愚かさを繰り返すことになるのは明らかだろう。もっと日本の近代史とその真相を知る必要がある。だが理性に基づいて、真実が議論される習慣が消されているこの国では絶望的ではあるまいか。
この国では理性でもって、正当に“怒る”そういうエネルギーも失われているのだ。理性でもって怒っても、マァマァと訳アリ顔で抑えにかかるアホなオトナも多過ぎるのだ。何でも無限定に“丸く治める”のは社会の発展を阻害することを知るべきだ。
明治維新では不当には反対するエネルギーが全ての社会階層にあったのではないか。無気力でエネルギーのない国に発展はない。

とは言え、日本最長の権力を握った生き証人が殺され、これでまた歴史の真相が失われたのも事実なのだ。

クワバラ、クワバラ・・・またしても本当だと思うことを言ってしまった。私の止められない悪い癖なのだ。ここで言ったコトはホントウかウソか、その判断は読者にお任せしたい!もっとお勉強シマショッ!
今やトニカク・・・・・・南無阿弥陀仏





さて先週、神戸市立森林植物園の近くで午前中に仕事が予定されていた。森林植物園ではアジサイが盛りだというのを知って、どうしても見たくなった。私は何故か、母親が嫌っていたアジサイが好きなのだ。青いのもあれば、微妙に紫の花もあり、白い花もある。青い花が好きだし、この色の変化も好きだ。
そこで、ネット・サーフィンしてみると、どうやら植物園絡みのハイキング・コースの山田道というのがあって、北へは地下鉄・谷上駅に通じていて、途中に弓削牧場がありカフェがあるということも分かった。そこで仕事終わりに植物園に立ち寄って、アジサイの群生を見て、ついでに午後はそのまま、山下りハイキングとすることにした。
実はその準備で、靴底はウォーキングとトレッキングの間のハイキング用の機能で、防水加工のある黒いシューズを買って待ち構えていた。先週、“足腰が弱って来たので、出歩こうにも出られないではないか。前週防水・防滑のウォーキングシューズを買った。靴店を片っ端から見て回ったが、何とか1つだけ見つけた。”と書いていたのはこういう事情だった。

ところが間が悪く前日になると、台風が瀬戸内海縦断するという予測が出たのだった。だが、当日朝になるとザーザー降りの雨ではなく、ほぼ曇り。そこで仕事にもかかわらず、そのハイキング用シューズを履いて出かけた。幸い黒いので目立たない。仕事が済む正午頃には日差しすら出て来た。そこでついに、谷上駅への下りのハイキングを決行することにした。

イヤ!その前に森林植物園の今が旬のアジサイを見てから。まずはメイン建物・森林展示館の玄関に行って見た。すると記念撮影ようのベンチと背後にアジサイがアレンジされていた。
公園の入り口からメイン通りを下って行った。




アジサイ園を抜けると、シアトルの森。そこから下へ下って長谷谷に出る。あまり貯水ができていないように見える。
この池は園内散水用に使用されるので、貴重なはずだ。八つ橋様の違い橋を設けて、風情を出している。ここで、カキツバタやハンゲショウが見られる。カキツバタは既にシーズン・オフか。

ハンゲショウ(半夏生、半化粧) :ドクダミ科ハンゲショウ属に分類される多年草の1種である。カタシログサ (片白草) ともよばれる。水辺や湿地に生え、高さ1メートルに達し、葉は互生する。夏に小さな花が集まった細長い総状花序をつけ、その周囲の葉が白く変色する。東アジアから東南アジアに分布し、日本では本州以南から報告されている。
利尿、解毒、解熱作用がある生薬とされ、三白草(さんぱくそう)とよばれる。また観賞用に栽培されることもある。

池の西端から反転北上して戻る。再びアジサイを鑑賞しつつメイン建物に戻る。



メイン建物の脇にカフェがあり、そこでランチとした。ひよこ豆のカレーを注文。ここは、これから行く弓削牧場の直営店とある。
あまりグズグズできない。さっさとランチを済ませ、植物園の北側ゾーンへ。ここは今はアナベル種のアジサイが正に見頃とのこと。駐車場を横目に、メタセコイアの並木を通って、アナベルの丘に至る。一面の白いアジサイが見事である。階段を登ると広場になっている。恐らく、将来的には生物多様性を考慮して、何かの植生を移植するのか施設を作るのか、園の発展のための余地を残しているのであろう。アナベルはこの丘の西側斜面にびっしりと植わっている。




これで、ほぼ森林植物園で見たいものは、見終わった。約3㎞強の山田道。久しぶりの山の道、道のりは遠く何となく不安が漂う。
グーグル・マップで確認した山田道のスタート地点は、森林植物園の入口の西側、兵庫県道16号明石神戸宝塚線沿いの北側に道標がある。最初は、明るい山道で気楽に歩める。だが、周囲が少し開けてくると、少々周辺の開発が荒れた雰囲気。産廃処分場なのか、土砂採石場なのかのど真ん中を歩くハメになる。やがて、大抵の地図にあるソーラー発電場が右手小川の向こうに見えてくる。




フト気付いた道標に左側矢印と“小倉台”とあり、その根元に“弓削牧場”と□で囲んでいる表示があった。左手は結構深い谷で、直ぐに急な登りになっている。何だか、気が進まないが予定では立ち寄ることにしていたので、左へ逸れて進む。登りきると、そこはニュータウン風の戸建てゾーン。また別の標識があり、それに沿って進むと弓削牧場の入口となる。
この辺りから、細かい霧状の水滴が小雨になってくる。六甲山麓とは言え、やっぱり山。特に、台風が来てる場合には天候が替わり易いのは常であった。
事前にグーグル・マップでこのあたりのコースを見ていると、わずかな距離のように感じていたが、行けども牧場牧舎には届かない。緩いとは言え、上り坂は辛い。駐車場を過ぎようやく、牛たちがいそうな畜舎が見える。雨と汗であっという間に全身ぐっしょり。やがて、カフェと思える建物に至り、中へ。アイスコーヒーとチーズケーキを注文。
受付の女性は窓際の席へ案内してくれ、私の姿を見かねてバスタオルを提供してくれた。疲れ果ててフト、座った場所から窓の外に見やると白いアジサイがあった。摩耶山でアジサイを見た記憶がある。六甲山麓はアジサイが地の花だったのだと、ここでようやく気付く。
ケーキも食べ終わりシャツも少し乾いて来たし、雨も傘を差す程ではなさそうな様子になったので、残りの山田道の踏破を目指す。



山田道から西に逸れた地点に戻り、歩を進める。やがて、密林の谷の中へ下る入口に至る。覚悟して突入開始。鬱蒼とした木立の中を細い一本道を進む。このような場所ではさすがに、孤独のハイキングはヤバい気がする。だが、ひるむ訳には行かない。前進あるのみだが、歩は慎重に滑って転ばないようにしなければならない。
小虫が身辺を飛び交って、五月蠅くズーッとついて来て、目にも入りそうだ。恐らく、汗と吐息の臭いと炭酸ガスに誘われてのことだろう。
時々倒木があり、これをかわして行くのも結構やり難いことだ。やがて、細い道を沢が横切る所が出てくる。数か所あった。一番困ったと思ったが、良く見ると金網籠に石を詰めて流れに並べてあり、容易に横断できた。これが最後の沢の横断。
山中に居るハズにもかかわらず、緊急自動車のサイレンが聞こえて来た。少しホッとするが密林は続く。ドンドン行くと沢が池に変わって、次第に視界が開け堰が出て来た。表示に丸山堰堤とあった。ここからは密林が開けたが、谷が深いので、足元要注意。高速道路の橋脚が見えて、あぁこれで無事帰れる。急坂で足を踏ん張ったが、左足先に痛みが走った。何事かと思うが、こんな急場では靴を脱ぐ訳にはいかない。やがて橋の手前の道標に出る。読み難い字になっているが、谷上駅0.15㎞との表示。150mならば駅舎が見えて当然だが、見えないので地図上の直線距離だろう。
橋の向こうは、一見舗装された道のようだが、実は駐車場で私有地との表示もある。山田道を構成する部分に私有地があるのは、もう少し調整・整備の必要がある。谷上駅を起点にしようとすると、山田道の入口は分かり難いのではないだろうか。
谷上から地下鉄で三宮へ。日常へ復帰!

左足の痛み、帰ってから左足を見ると親指の爪が全面変色して、中で出血しているようだ。足の爪を十分に切っていなかったことは原因かも知れないが、靴の中で足先には余裕があったので、どうしてこうなったのか分からない。折角買った靴だが、今後も履ける靴なのか、試してみる必要があるが、この指先が治ってからだ。
この靴で滑ることはなかったが、耐水性は試すことはなかった。とにかく左親指の先が治ってからの確認になる。

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