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2010年、行く歳よ・・・

さて、このブログも 記事の数では593件となっていて、まもなく600件。(本稿で594件)
この1年、実は私の生活は大きく変化したが、何か大きく成長し、変化できたかと言えば、それほどのこともなかった。その点で焦りがあるのは否めない。この年齢になって“成長”もあるまいが、まぁそんなところだ。意識が変化しないことが問題なのかも知れない。どのように意識変革するべきなのか、分からないというのが実情だ。
こういう事態にならないために 自分としては随分いろいろと準備活動をしてきたつもりだったが、結果としてそれら全ては水の泡となってしまった。見込み違いばかりであった。努力しても未だ足りなかったということなのだろうか。努力の結果、実現したことも幾つかはある(例えば、1000メートルを泳ぎきるとか)が、それらは“何か大きく成長し、変化する”ことへの決定的な要素となるようなものではない。(泳ぎに関しては 未だにまともなクロールができてはいないのだが。)

このブログも 一時はISOマネジメントから遠ざかって久しかったが、最近は回帰しつつある傾向にはある。ISOマネジメントの内、“品質”から遠ざかって“環境”にアプローチしていた、と言った方が正確であろう。それはこれまでの仕事が“環境”に強く絡んでいたからであり、その影響もあって大学で“環境リスク管理学”を履修していたからであった。これも今夏に“リスク評価論”の履修完了で全課程を修了することができた。
その結果の“卒論”を 明治大学でのリスク研究学会で発表することができ、これで一応のけじめを付けることができたつもりである。その内容は“品質ISOマネジメント・システム構築”に関わるプロセスについて規格適合性を目指してリスク・マネジメントの1手法(HAZOP)を応用したものだった。しかし、その学会では異質の内容のため、的確な質問や議論がなかったのは事実だ。結果的にゲリラ的な活動と見られるようなものに なってしまったことは少々残念なところではある。だが、品質管理学会などでは発表すらおぼつかないものではなかったかと考えている。そこではリスク・センスは乏しく、頭は硬いだろうと勝手に思っているからだ。いわば学際的テーマの難しいところだろう。

“環境”は 温暖化問題をはじめ、ありとあらゆることがテーマとなりうるし、基本的には地球科学をはじめ、理系科学が主体になるが、排出権取引などとなると経済学、法学、のテーマとなる。国家戦略が絡んでくると政治学の領域ともなりうる問題である。場合によっては環境倫理学など哲学領域に迷い込むこともありうる。これは、そこに人間が生きていれば、必ず“環境問題”は存在するという本質があるからだ。そういうこともあって、このブログへの投稿記事がISOマネジメントから遠ざかってしまった、という側面もある。
このように広い領域であるだけに、本当の“環境”専門家などというものが存在し難いのではないかと思われる。したがって“環境”にかかわる議論が本物にならず、マユツバの論議も多い。
このブログでも主張しているように、“CO2による地球温暖化”は、そういった論議の最大のものと考えている。東北大学の南極の氷を分析した結果が公表されているが、どうしてこのデータが有名にならないのか不思議である。このデータでは過去30万年間、地球は温暖化と寒冷化を繰り返し(データでは3サイクル提示)、それとともにCO2は増減し、気温も上下しているのである。これを見れば、近年の温暖化はその延長上にあり、これまでの傾向を見れば、間もなくピークに至り、徐々に減少に転ずるように見える。それに自動車の増加などによる人為的CO2が幾分加わっているというに過ぎないのではないかと 容易に想像できる。そういう自然現象に人為的影響がどれほど影響を与えるのかは、簡単には結論できないはずであり、自然界でのCO2の増減は何が原因なのか突き詰める必要がある。どうして、こういった動きにならず、いきなりCO2を人為的に低減する必要があるとするべきなのか、私はよく分からない。
その上、IPCCは 温暖化による雲量の増加は寒冷化に寄与するとは認めているが、そういう議論は不確定要素が多いので無視するとしている。これが“科学的見解”であろうか。変な 論理である。

そういった“環境”から、少し引いた立ち位置に身を置く状態に戻った、というのが私の個人的事情であるが、そのため再び 意識が“品質”の戻ってきたと言えなくも無いのかも知れない。いや、マネジメントと言う限りにおいて、“環境”よりも“品質”の方が、よりマネジメントそのものの本質に肉迫できるからかも知れない。それは 先述のように、“環境”は間口が広すぎて、“マネジメント”以外の付属物が多く、多数の知識、情報を必要とするからではないかと考えている。

しかし、“環境”そのものは “温暖化”が本質問題ではなくて、他に人類社会にとって喫緊の課題があり、それが“常識”となるべきなのだが、その割には世間の動きはノンキな印象である。それは、食糧、水、エネルギー不足の問題であり、10年、20年後の単位で深刻なものとなるのは あらゆる科学的研究領域で明らかになっていることである。その原因は地球上の人口の急激な増加と定員オーバーにあり、それが本質だ。この問題は人類の本能に関わる問題なので中々解決困難なことであるが、そうした本質に関わる論評もかつて聞いたことがないのが不思議である。
その点において、日本の政治的立場を固めるのが国益を守るに必要なことなのだが、残念ながら日本の政界は 政局つまり政治家の勢力争いばかりで、本質的危機へ備えるという意識に乏しい。明治維新前後の頃の命を懸けたまじめな政治活動が、現代日本に再現しないことにも不思議な感想を持っている。
極東の国際情勢も 人類史上では周回遅れのような勢力争いが厳しさを増して冷戦構造再現という奇妙な展開となっている。これも不思議な現象であるが、正に周回遅れアジア的?国家が 強大に勢力を誇示し始めたためだ。だが、こうした異様な状況も、異様なだけに一時的であり、バブルとなって崩壊するだろうと思っている。それが どの程度の混乱となるかは予想は困難だが、意外に影響は小さいのかも知れない。

それやこれやで、今年も 暮れようとしている。来年は どうなることやら。私自身は、下手をすると孤独に野垂れ死ぬということもあり得るかもしれない。そうならないように、どうするべきか対処しなければならない。発想の転換が必要なのだが、その突破口が見つからない。それが見つからないまま、あまり劇的でなかったつまらないまま人生を終えることになるかも知れない。 だが“無事これ名馬”とは本当であろうか。この人生が“無事”であったと言うならば“満足するべき”ということなのだろうか。

では 良い お歳を お迎え下さい。

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