The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
修学院離宮、曼殊院と芭蕉庵と東山北部の山麓の名所の観覧―その1.修学院離宮
ビッグ・モーターの保険金不正請求事件について社内特別調査委員会を設置し、調査委の報告書を公表した。結果は社会をゆるがす内容だった。経営陣も実態を全く把握していなかったようなのだ。いわば内部統制が全く機能していなかったのだ。そんな会社が未だあった、というのは驚愕なのだ。
知っていれば、その時点で修正するべき問題であり、知っていても多少大目に見ていたのであれば、コトが大きくなる前に密かに修正して対処してしまうのが、普通であろうが、そうはしなかったのである。事態を軽く見ていたのであろうか。
社内の内部通報制度も途中までは機能したようだが、トップの社長の“仲良くやってくれ!”の一言で終わったようだ。本来、その時点で異常に気付くものだろう。その後、社員が“仲良くもみ消した”、“記録も改竄した”では機能不全もエエトコ。パワハラついでに、道路に面している店の展示中古車が良く見えるようにだろうか街路樹も除草剤で枯らしたとか。
保険会社の出向社員もパワハラに屈して、自社にも損害を与えている。この会社、正しくパワハラの権化。だが、実際には保険会社も損はしない。事件当時者の等級はその後上げられて、保険料は高くできるからだ。
どおりで、街の識者も“あんなの損保業界ではあたりまえ。チョット質の悪い業者だったので騒ぎになったが、等級が上がれば保険会社には損はない!”との弁。まぁ、自動車関連産業が縮小していく中での業界の儲けの仕掛け構造だったのだろう。
そもそも“修理事業に目標設定可能”であれば、不正を働かねば達成できないのは当然。それを承知で“修理に目標設定”するということは、経営陣も承知の上だろう。それを“知らぬ、存ぜぬ”で白を切る。オーナー企業だから社長辞任しても、傀儡社長を置いてコントロールできる。嵐が過ぎて平穏に戻れば、何食わぬ顔で経営に堂々と復帰、祝杯、大宴会。
だが実は、これでビッグ・モーターの首脳陣は安閑としていられなくなったのではないか。評判を落として、客は離れる、若い優秀な社員の獲得も困難になる、おまけにどうやら潰れかけの修理会社等を急速に多数吸収したので、中には不振の会社も多数含まれ組織の肥大化で統制が上手くとれるのか。社内統制不能なのはこの事件であからさまになった訳で・・・・ESG否、SDGs時代にはなじまない会社だということははっきりした。まぁ行く先が見ものですな!
ついでに損保業界全体ののヤミもそこはかとなく漂って来ている。業界ぐるみの不正なのか、カルテルどころか不法を行政も見過ごしていたのか?国交省、金融庁、消費者庁と政府挙げての実態究明となる。最早、“不正があったか、無かったか”ではあるまい・・・・。
私も知らなかったが、大手メディアがほとんど伝えることがない問題、木原誠二官房副長官夫人の元夫不審死事件があったという。この件について、木原誠二官房副長官は「私が捜査に圧力を加えたとの指摘は事実無根だ」と松野博一官房長官に報告した。松野氏が同日の記者会見で明らかにした。
統一教会絡みが済んだら、今度はこんな事件に関わっていたのか。そして、警察に圧力の疑惑?政権に加わると、色々“お得”ですなぁ!
このように日本の報道も政権に不都合なことは報道しない。米大統領の不正疑惑は騒ぐけど、日本の政権の不正疑惑はホッカムリ!これで中立公正とは言い難く、ほとんど歪んでしまっている・・・・。日本の報道は信じられない。しらされないまま、選挙で重要な決定をしていることはあるまいか。それがこのようなダーティな政府を生んでいるのではないだろうか。
マスコミが知っていて報道しなかった大きな問題はそればかりではない。ジャニーズ問題があるではないか。これはマスコミの日本を貶める犯罪でもある。弱いマスコミは国際的な恥辱でもある。日本でジャーナリストを自称する人たちは、ESGやSDGsを唱える資格があるのだろうか。襟を正すべきではないか。でもあまり期待できそうにないが・・・・。
日本のSDGsには大きなウソが入っている。だから嫌なのだ。
前回指摘したが、中国の経済に復活の見通しが立たない。そこへ、直近の外相、人民銀総裁の馘首・交替となった。習近平体制の綻びか、締め付けの強化かは不明のようだ。だが、どうやらこれからますます重要な対米外交が機能不全に陥る可能性は十分にあるようだ。御両人とも米国に繋がり薄く、対米政策担当には全く不向きだそうだからだ。中国の対米政策がオンチであれば、これぞ世界的な危機を招く可能性があるので警戒が必要だ。特に、台湾海峡危機に大いに懸念される。
どうやら中国には不良債権処理の仕組みが十分に出来上がっていないようだ。だから、普通の経済体制であれば倒産して、不良債権が処理されるべきところを、倒産せずゾンビのように生きながらえているのだという。或いはバブル崩壊を恐れて、ムリヤリ生きながらえさせているのかも知れない。それが日本経済のバブルを研究した結果なら、その結論は完全に誤っている。
こうなれば不況は長引き中国経済は万年不況となり、地盤沈下していくのは明らかだろう。今後の中国経済は世界一どころか、持続する経済力=国力劣化に十分期待できるのではあるまいか。それにもかかわらず中国投資に入れあげる企業があれば、それはアホの極み。兎に角早々に手を引くのが賢明なことである。
さて、先週は審査報告書を持って京都の本部事務局を訪れた。ついでに、修学院離宮、曼殊院と芭蕉庵と東山北部の山麓の名所を観覧したので報告したい。特に、修学院離宮は5日前程度でネットで申し込んで、参観許可を得ていた。(先々週体調不良と申し上げたが、病み上がりでもう少し先に延ばしたかったのだが、参観許可を得ていたので、少し無理をした次第だったが、結果的にはほとんど問題なかった。)その後は、近所で昼食を済ませ、曼殊院、金福寺の芭蕉庵へ向かう計画だった。その歩いた総旅程は図に示すとおりだ。しかし今回は、修学院離宮観覧の報告にとどめたい。
烏丸四条から京都市バスで修学院離宮道に向かい、15分程度でほぼ1時間前に離宮門前に到った。幸いなことに20分前には“休み所”には入れてくれた。予定の時間が来れば、一人の職員がガイドをしてくれるのだ。
修学院離宮は、Wikipediaによれば、“1653年(承応2年)~1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で(江戸幕府により)造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点を示すものとなっている。宮内庁京都事務所が管理している。” 特に、この離宮は早朝に御所を発てば、昼前後には到着し周遊して帰路に就けば、日帰り可能という説明だった。今気付いたが、そうであればここでは観月宿泊はないのであろうか。とにかく、観覧ルートを下図に示す。
またWikipediaは次のように説明している。“上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。”
ここでいう、上・下御茶屋は現在の上・下離宮であり、中御茶屋は中離宮のことである。このように修学院離宮は上中下の3か所の離宮より成り立っており、その間にある農地は民間の所管にあるということだった。これは、造営意図された後水尾上皇がその農地の風情を気に入られ、そのまま組み入れることになったとの説明だった。説明職員には確認しなかったが、恐らく、所有権は制限され風致地区とされ、農地以外の地目転用も禁止されているものと思われる。実際、のどかな風景が広がっていた。
(図の観覧ルート・マップで“休み所”に“臨時”と冠したのは、本当は表総門近くにあるのだが、目下改築中であり、臨時なのだという説明だった。どうやら出入り業者ようの施設のようだった。ならば出入り業者が気の毒!?ちなみに休憩所ではなく“休み所”とは宮中用語であろうか。皇族の場合は“お休み所”となる?)
休み所を出て、すぐに下離宮の御幸門である。後水尾上皇は板戸の花菱の透かしがお好きでお気に入りだった由。門のうちにもう一つの門があり、そこを入るといよいよお庭だ。お池と緩やかに曲がりながら登って行く小径が目に入る。小径に沿って様々な形の灯篭がある。異形の袖形燈籠は足元を照らすのには最適とのこと。この小径に沿って登って行くと、右わきにせせらぎが見える。水の豊富な山麓の離宮である。
小径を登りきると寿月観である。東山の山の端から現れる満月の鑑賞にはぴったりの南東向きの質素な木造家屋。朝廷の力が衰えていた時期の建物だが、日本的風情はたっぷりだ。確か、軒の扁額は後水尾上皇の御真筆と聞いたように思う。
裏門から道路に出ると、そこには全面に水田が広がり、その中を真っ直ぐ山の方向に延びる松並木道がある。それが上離宮への道で、従来は細いあぜ道だったのを明治になって馬車が通れる幅に広げたとのこと。それと共に同じような松並木道が右手に延びている。それが中離宮へ向かう道だった。これも農地の中だ。こちらには畑地もある。
中離宮の表門は竹を割って板にしている。中に入ると意外に広い広場があった。幅広の階段道路で中門に至る。まず楽只軒だが、Wikipediaによれば“瓦葺、杮庇の建物。軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。”とある。
さらに先のWikipediaによれば中離宮の“客殿は、1677年(延宝5年)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。”また、“棚は5枚の欅板を高さを違えて設置し、霞のたなびく様に似ることから「霞棚」と称される。棚の下方の地袋には友禅染の張り場の風景を描く。その上には細長い三角棚がある。地袋小襖の引手は羽子板形、三角棚の小襖の引手はぶりぶり(玩具の一種)形である。床壁の腰貼りは群青と金箔の菱形を交互に並べた幾何学文で、襖の腰貼りも同様である。床、棚、襖を通して金泥で雲を描き、その上に和歌・漢詩と水墨画の色紙を貼り交ぜている。”また客殿の縁座敷奥の杉戸に描かれた祇園祭の鉾は狩野敦信によるとパンフレットにあった。
客殿前の庭にもせせらぎがあった。さらに奥に進むと隣接する林丘寺の石垣があった。そこから楽只軒側に回り込むと、そこの欄干が網干様式だとかで、漁師が網を干しているかのような形式で変わった山形のものだった。
中離宮を出て、松並木を行くと既に右手の山の中腹に木造家屋の屋根が見える。上離宮の隣雲亭のようだ。また麓からそこへ向かう松並木も見える。
最近息切れが酷いので、暑さと共に最後まで行けるか心配だったが、杞憂だった。気が付けば目的地だった。眼下には浴竜池が広がっていた。その西側は直線的な西浜となっていて、これは池を作るために水を堰き止める堤だという。4段の石垣で構成されているが、目立たぬように緑の巨大生垣としていて、景観を損ねないようになっている、とのこと。この生垣の手入れには、反りが逆の薙刀のような伐採道具を用いるとのことだった。
これもWikipediaによれば、隣雲亭は“海抜150メートル、浴龍池との標高差10メートルのところに建つ。・・・池を眺望するための簡素な建物で、床(とこ)、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられる程度である。建具は間仕切り、外回りとも明障子とする。”とある。また、足元の“三和土(たたき)には赤と黒の小石が埋め込まれ「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれている。”これは“賀茂川の黒石と鞍馬山の赤石”の組み合わせだとのガイド説明だった。
少々の休憩の後、右手の下り道を降りる。やがてせせらぎが見えて来て、目と耳で涼を感じて欲しいとの説明だった。よーく見ると奥には小さな滝があった。これが目の前の浴龍池の水源だとのこと。
水を堰き止めた池なので、中島や万松塢は本来小高い丘だったところ。この小高い丘が島になって、それが龍が潜んでいるように見立てて浴龍池と名付けたとのことだった。
やがて、千歳橋が見えて来た。
これもWikipediaによれば、“中島と万松塢の間に架かる。特色ある外観をもった屋形橋であるが、当初から離宮にあったものではない。切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けたもので、宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立つ。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものである。”とあるが、ガイド説明では東の宝形造はお上の御輿を模したものなので頂部にわざわざ鳳凰を立てている、ということだった。
やがて、窮邃亭に至る。本来はここで隣雲亭同様、暫く御休憩となるところだ。これもWikipediaによれば、“後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。南側上がり口の軒下の「窮邃」の額は後水尾院の筆である。”
これを降りると、違う方向からの千歳橋が見えて来て、内部が良く分かる場所となる。やがて、土橋に至り、秋は紅葉が美しいという池の奥にやって来た。その奥に、獲物を狙うアオサギが居た。池の水深はあさく40~50センチ程度で、これだと水映えも良く且つ波立ちも僅かになるとの説明だった。だからアオサギにとって獲物が狙いやすいのだとも。
池の北西部に舟遊び用の御船の格納場所や船着き場があった。その浜の控えの場所には茶店があったが、今は撤去されている由。
西浜を行くと、池の景色がその度に変化して確かに面白い。正に名園である。やがて池の排水溝があり、さっきのせせらぎの注ぎ口もあった。
上離宮の出入り口に鉄作の門扉と塀があった。これは動物の侵入を防ぐためのもので、高圧線も敷いているとのことだった。シカやサルが問題の由。特に、サルは比叡山では歴史的に可愛がられてはいるが・・・との説明だった。
これで、池を一周し、観覧はほぼ終了。要したのは1時間半足らずであった。休み所に戻って、これぞ小休止。30分ほど呆然と休憩。
その後、近くの“小林家”で昼食。暑さで食欲無く、思わず“冷やし中華”と叫んでしまった。すると“時間ありますか?20分ほど頂きますが?”と返ってきたが、首を縦に振って押し通した。そして午後からの活動に備えた。
知っていれば、その時点で修正するべき問題であり、知っていても多少大目に見ていたのであれば、コトが大きくなる前に密かに修正して対処してしまうのが、普通であろうが、そうはしなかったのである。事態を軽く見ていたのであろうか。
社内の内部通報制度も途中までは機能したようだが、トップの社長の“仲良くやってくれ!”の一言で終わったようだ。本来、その時点で異常に気付くものだろう。その後、社員が“仲良くもみ消した”、“記録も改竄した”では機能不全もエエトコ。パワハラついでに、道路に面している店の展示中古車が良く見えるようにだろうか街路樹も除草剤で枯らしたとか。
保険会社の出向社員もパワハラに屈して、自社にも損害を与えている。この会社、正しくパワハラの権化。だが、実際には保険会社も損はしない。事件当時者の等級はその後上げられて、保険料は高くできるからだ。
どおりで、街の識者も“あんなの損保業界ではあたりまえ。チョット質の悪い業者だったので騒ぎになったが、等級が上がれば保険会社には損はない!”との弁。まぁ、自動車関連産業が縮小していく中での業界の儲けの仕掛け構造だったのだろう。
そもそも“修理事業に目標設定可能”であれば、不正を働かねば達成できないのは当然。それを承知で“修理に目標設定”するということは、経営陣も承知の上だろう。それを“知らぬ、存ぜぬ”で白を切る。オーナー企業だから社長辞任しても、傀儡社長を置いてコントロールできる。嵐が過ぎて平穏に戻れば、何食わぬ顔で経営に堂々と復帰、祝杯、大宴会。
だが実は、これでビッグ・モーターの首脳陣は安閑としていられなくなったのではないか。評判を落として、客は離れる、若い優秀な社員の獲得も困難になる、おまけにどうやら潰れかけの修理会社等を急速に多数吸収したので、中には不振の会社も多数含まれ組織の肥大化で統制が上手くとれるのか。社内統制不能なのはこの事件であからさまになった訳で・・・・ESG否、SDGs時代にはなじまない会社だということははっきりした。まぁ行く先が見ものですな!
ついでに損保業界全体ののヤミもそこはかとなく漂って来ている。業界ぐるみの不正なのか、カルテルどころか不法を行政も見過ごしていたのか?国交省、金融庁、消費者庁と政府挙げての実態究明となる。最早、“不正があったか、無かったか”ではあるまい・・・・。
私も知らなかったが、大手メディアがほとんど伝えることがない問題、木原誠二官房副長官夫人の元夫不審死事件があったという。この件について、木原誠二官房副長官は「私が捜査に圧力を加えたとの指摘は事実無根だ」と松野博一官房長官に報告した。松野氏が同日の記者会見で明らかにした。
統一教会絡みが済んだら、今度はこんな事件に関わっていたのか。そして、警察に圧力の疑惑?政権に加わると、色々“お得”ですなぁ!
このように日本の報道も政権に不都合なことは報道しない。米大統領の不正疑惑は騒ぐけど、日本の政権の不正疑惑はホッカムリ!これで中立公正とは言い難く、ほとんど歪んでしまっている・・・・。日本の報道は信じられない。しらされないまま、選挙で重要な決定をしていることはあるまいか。それがこのようなダーティな政府を生んでいるのではないだろうか。
マスコミが知っていて報道しなかった大きな問題はそればかりではない。ジャニーズ問題があるではないか。これはマスコミの日本を貶める犯罪でもある。弱いマスコミは国際的な恥辱でもある。日本でジャーナリストを自称する人たちは、ESGやSDGsを唱える資格があるのだろうか。襟を正すべきではないか。でもあまり期待できそうにないが・・・・。
日本のSDGsには大きなウソが入っている。だから嫌なのだ。
前回指摘したが、中国の経済に復活の見通しが立たない。そこへ、直近の外相、人民銀総裁の馘首・交替となった。習近平体制の綻びか、締め付けの強化かは不明のようだ。だが、どうやらこれからますます重要な対米外交が機能不全に陥る可能性は十分にあるようだ。御両人とも米国に繋がり薄く、対米政策担当には全く不向きだそうだからだ。中国の対米政策がオンチであれば、これぞ世界的な危機を招く可能性があるので警戒が必要だ。特に、台湾海峡危機に大いに懸念される。
どうやら中国には不良債権処理の仕組みが十分に出来上がっていないようだ。だから、普通の経済体制であれば倒産して、不良債権が処理されるべきところを、倒産せずゾンビのように生きながらえているのだという。或いはバブル崩壊を恐れて、ムリヤリ生きながらえさせているのかも知れない。それが日本経済のバブルを研究した結果なら、その結論は完全に誤っている。
こうなれば不況は長引き中国経済は万年不況となり、地盤沈下していくのは明らかだろう。今後の中国経済は世界一どころか、持続する経済力=国力劣化に十分期待できるのではあるまいか。それにもかかわらず中国投資に入れあげる企業があれば、それはアホの極み。兎に角早々に手を引くのが賢明なことである。
さて、先週は審査報告書を持って京都の本部事務局を訪れた。ついでに、修学院離宮、曼殊院と芭蕉庵と東山北部の山麓の名所を観覧したので報告したい。特に、修学院離宮は5日前程度でネットで申し込んで、参観許可を得ていた。(先々週体調不良と申し上げたが、病み上がりでもう少し先に延ばしたかったのだが、参観許可を得ていたので、少し無理をした次第だったが、結果的にはほとんど問題なかった。)その後は、近所で昼食を済ませ、曼殊院、金福寺の芭蕉庵へ向かう計画だった。その歩いた総旅程は図に示すとおりだ。しかし今回は、修学院離宮観覧の報告にとどめたい。
烏丸四条から京都市バスで修学院離宮道に向かい、15分程度でほぼ1時間前に離宮門前に到った。幸いなことに20分前には“休み所”には入れてくれた。予定の時間が来れば、一人の職員がガイドをしてくれるのだ。
修学院離宮は、Wikipediaによれば、“1653年(承応2年)~1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で(江戸幕府により)造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点を示すものとなっている。宮内庁京都事務所が管理している。” 特に、この離宮は早朝に御所を発てば、昼前後には到着し周遊して帰路に就けば、日帰り可能という説明だった。今気付いたが、そうであればここでは観月宿泊はないのであろうか。とにかく、観覧ルートを下図に示す。
またWikipediaは次のように説明している。“上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。”
ここでいう、上・下御茶屋は現在の上・下離宮であり、中御茶屋は中離宮のことである。このように修学院離宮は上中下の3か所の離宮より成り立っており、その間にある農地は民間の所管にあるということだった。これは、造営意図された後水尾上皇がその農地の風情を気に入られ、そのまま組み入れることになったとの説明だった。説明職員には確認しなかったが、恐らく、所有権は制限され風致地区とされ、農地以外の地目転用も禁止されているものと思われる。実際、のどかな風景が広がっていた。
(図の観覧ルート・マップで“休み所”に“臨時”と冠したのは、本当は表総門近くにあるのだが、目下改築中であり、臨時なのだという説明だった。どうやら出入り業者ようの施設のようだった。ならば出入り業者が気の毒!?ちなみに休憩所ではなく“休み所”とは宮中用語であろうか。皇族の場合は“お休み所”となる?)
休み所を出て、すぐに下離宮の御幸門である。後水尾上皇は板戸の花菱の透かしがお好きでお気に入りだった由。門のうちにもう一つの門があり、そこを入るといよいよお庭だ。お池と緩やかに曲がりながら登って行く小径が目に入る。小径に沿って様々な形の灯篭がある。異形の袖形燈籠は足元を照らすのには最適とのこと。この小径に沿って登って行くと、右わきにせせらぎが見える。水の豊富な山麓の離宮である。
小径を登りきると寿月観である。東山の山の端から現れる満月の鑑賞にはぴったりの南東向きの質素な木造家屋。朝廷の力が衰えていた時期の建物だが、日本的風情はたっぷりだ。確か、軒の扁額は後水尾上皇の御真筆と聞いたように思う。
裏門から道路に出ると、そこには全面に水田が広がり、その中を真っ直ぐ山の方向に延びる松並木道がある。それが上離宮への道で、従来は細いあぜ道だったのを明治になって馬車が通れる幅に広げたとのこと。それと共に同じような松並木道が右手に延びている。それが中離宮へ向かう道だった。これも農地の中だ。こちらには畑地もある。
中離宮の表門は竹を割って板にしている。中に入ると意外に広い広場があった。幅広の階段道路で中門に至る。まず楽只軒だが、Wikipediaによれば“瓦葺、杮庇の建物。軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。”とある。
さらに先のWikipediaによれば中離宮の“客殿は、1677年(延宝5年)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。”また、“棚は5枚の欅板を高さを違えて設置し、霞のたなびく様に似ることから「霞棚」と称される。棚の下方の地袋には友禅染の張り場の風景を描く。その上には細長い三角棚がある。地袋小襖の引手は羽子板形、三角棚の小襖の引手はぶりぶり(玩具の一種)形である。床壁の腰貼りは群青と金箔の菱形を交互に並べた幾何学文で、襖の腰貼りも同様である。床、棚、襖を通して金泥で雲を描き、その上に和歌・漢詩と水墨画の色紙を貼り交ぜている。”また客殿の縁座敷奥の杉戸に描かれた祇園祭の鉾は狩野敦信によるとパンフレットにあった。
客殿前の庭にもせせらぎがあった。さらに奥に進むと隣接する林丘寺の石垣があった。そこから楽只軒側に回り込むと、そこの欄干が網干様式だとかで、漁師が網を干しているかのような形式で変わった山形のものだった。
中離宮を出て、松並木を行くと既に右手の山の中腹に木造家屋の屋根が見える。上離宮の隣雲亭のようだ。また麓からそこへ向かう松並木も見える。
最近息切れが酷いので、暑さと共に最後まで行けるか心配だったが、杞憂だった。気が付けば目的地だった。眼下には浴竜池が広がっていた。その西側は直線的な西浜となっていて、これは池を作るために水を堰き止める堤だという。4段の石垣で構成されているが、目立たぬように緑の巨大生垣としていて、景観を損ねないようになっている、とのこと。この生垣の手入れには、反りが逆の薙刀のような伐採道具を用いるとのことだった。
これもWikipediaによれば、隣雲亭は“海抜150メートル、浴龍池との標高差10メートルのところに建つ。・・・池を眺望するための簡素な建物で、床(とこ)、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられる程度である。建具は間仕切り、外回りとも明障子とする。”とある。また、足元の“三和土(たたき)には赤と黒の小石が埋め込まれ「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれている。”これは“賀茂川の黒石と鞍馬山の赤石”の組み合わせだとのガイド説明だった。
少々の休憩の後、右手の下り道を降りる。やがてせせらぎが見えて来て、目と耳で涼を感じて欲しいとの説明だった。よーく見ると奥には小さな滝があった。これが目の前の浴龍池の水源だとのこと。
水を堰き止めた池なので、中島や万松塢は本来小高い丘だったところ。この小高い丘が島になって、それが龍が潜んでいるように見立てて浴龍池と名付けたとのことだった。
やがて、千歳橋が見えて来た。
これもWikipediaによれば、“中島と万松塢の間に架かる。特色ある外観をもった屋形橋であるが、当初から離宮にあったものではない。切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けたもので、宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立つ。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものである。”とあるが、ガイド説明では東の宝形造はお上の御輿を模したものなので頂部にわざわざ鳳凰を立てている、ということだった。
やがて、窮邃亭に至る。本来はここで隣雲亭同様、暫く御休憩となるところだ。これもWikipediaによれば、“後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。南側上がり口の軒下の「窮邃」の額は後水尾院の筆である。”
これを降りると、違う方向からの千歳橋が見えて来て、内部が良く分かる場所となる。やがて、土橋に至り、秋は紅葉が美しいという池の奥にやって来た。その奥に、獲物を狙うアオサギが居た。池の水深はあさく40~50センチ程度で、これだと水映えも良く且つ波立ちも僅かになるとの説明だった。だからアオサギにとって獲物が狙いやすいのだとも。
池の北西部に舟遊び用の御船の格納場所や船着き場があった。その浜の控えの場所には茶店があったが、今は撤去されている由。
西浜を行くと、池の景色がその度に変化して確かに面白い。正に名園である。やがて池の排水溝があり、さっきのせせらぎの注ぎ口もあった。
上離宮の出入り口に鉄作の門扉と塀があった。これは動物の侵入を防ぐためのもので、高圧線も敷いているとのことだった。シカやサルが問題の由。特に、サルは比叡山では歴史的に可愛がられてはいるが・・・との説明だった。
これで、池を一周し、観覧はほぼ終了。要したのは1時間半足らずであった。休み所に戻って、これぞ小休止。30分ほど呆然と休憩。
その後、近くの“小林家”で昼食。暑さで食欲無く、思わず“冷やし中華”と叫んでしまった。すると“時間ありますか?20分ほど頂きますが?”と返ってきたが、首を縦に振って押し通した。そして午後からの活動に備えた。
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