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渡辺淳一・著“鈍感力”を読んで

個人的な話だが、先週も審査で加古川に出かけたが、朝、人身事故で朝のJRがストップ。しまった、全く警戒していなかった。目的地は厄神なので代替私鉄路線は考えられない。
とにかくJR駅に出向き、実情を把握するしかない。“電車とお客様が接触した”とのことで、上下線とも停止した。しかし、この時のJRの対応はいつもより迅速だった。というのは、8時過ぎには上り線を動かし始めた。三宮に出ると、普通電車の到着を待つように新快速が止まっていた。そして西明石までは遅れを取り戻すように快速を飛ばした。西明石からは複線のため、前に普通電車(西明石間までは快速)があるので、それに合わせて走らざるを得ない。しかし、お蔭で何とか予定通りの電車に間に合う。最短で行ける新快速より一つ早い列車を予定したお蔭だった。
とは言え、遠距離でJRを使うときは1時間早めを原則としなければ、顧客に迷惑をかけてしまう。

(実際は厄神行きに間違えて乗り損なった。ローカル線のドアボタンを少々押しても開かず、乗客の姿もなかったのでこの電車ではないと勘違い。簡易E-mailを操作している内に電車も静かに出てしまった。)

審査の合間に、ここもハザードマップには水害に警戒を要する記載があるので先日の豪雨はどうだったかを伺ったが、加古川自身は少し河川敷が冠水した程度だったが、より上流に危うい箇所があったのではないかとのこと。支流が少し氾濫し、工場近くまで浸水したようで、危ういところだったという。しかし確かに武庫川上流も千刈浄水場付近の監視カメラの視界が、ネットで観察できるが噂で聞いたような氾濫はなかったので、兵庫南部は中国地方での豪雨ほどではなかったと思われた。
その数日前に審査で行った別の会社でも、伊川は付近の支流からやはり逆流が生じ、浸水しかけたと言っておられた。また土砂崩れも付近で認められたということ。これらはおおよそ兵庫県の作成したハザードマップに記載されており、マップは非常に正確だと確認できた。災害予防には大いに参考にするべきだ。
とにかく、災害の多かった神戸では、それほどの被害がなかったのは幸いだった。行政の地道な日頃の対策と尽力という予防処置が奏功したのだろう。
その帰りはすっかり日常に戻り、土山の旧友と明石で久しぶりに海鮮を賞味した。

さてニュースは夏枯れ、その間、オウム事件犯の死刑執行がなされた。世評ではいろいろな論評がなされているが、未だに死刑が存置されている日本社会は、世界の潮流からずいぶん遅れた後進性が認められるように思う。
その一方、冤罪が多いようにも思う。それを防ぐための措置も一向に改善する気配はない。取り調べの可視化が言われて久しいが、大きな改善も認められない。とにかく、日本の司法当局者の取り調べは秋霜烈日。中には暴力団まがいの脅迫もあるようだ。それ、違法です。しかし、密室でのことなので当局者は何とでも誤魔化せる。そのままで良い訳がないではないか、しかし改善は進まない。どういうこと?世論が強く巻き起こらないからだ。
死刑囚達の最後の言葉も、それに関する客観記録は一切なく、刑務官の漏らした言葉が報道されているだけだ。やはり、死刑は残虐な刑罰ではないのか。それ、憲法に違反します。拷問まがいの取り調べも、実はそれ、違法です。
しかし、日本の社会は国家権力にそれを許容しているのだ。何故なのだろうか。
これで、日本に同じような事件は起きないのだろうか。こうした事件を参考に同様な悲惨な事件を起こさないことが、重要だが、その点で日本は何を学んだのだろうか。何事も予防処置が大切なのは言うまでもない。

日本で社会問題を見るときにしばしば感じることなのだが、死刑廃止を訴える側の議論が感情的である場合が多く、正反対の意見を持つ人々との議論が噛み合わないのではないか、と思われることだ。
これは例の憲法改正や地球温暖化防止などで見られる傾向だ。合理的科学的な根拠に基づいて論理的な意見構成ができず、感情的に言い募る傾向がみられるのだ。特に論理的に話すことについて、屁理屈ばかり、だとか、理論と現実は違うのだ、とか訳のわからない言葉を投げつける人々も多いのではないか。
その結果、合理的科学的な事実を知ろうともせず、論理の積み上げを試みるような知的作業を忌避する傾向にあるのではないかと思われる。これが、現代日本の反知性主義の根源にあるような気がしてならない。日本人はもう少しお勉強して、感情的にならず、理性的に議論できる姿勢を持つべきだと思うのだ。オバカ日本が国際的井の中の蛙になっていることはないだろうか。決して“お笑い”で済まされる話ではない。

政治家でありながら自らの政治的信条に反していても、寄らば大樹の戦わない政治家が多すぎる印象もある。これにて一件落着。ますます強権国家への道を突き進むことになるのだろう。一方では人々をその“存在の生産性”で選別しようとする思考を擁護する動きもあるようだ。日本の政治的指向の国際的後進性もどんどん進行するであろう。

ところで、週末の一見オチャラケながら、その時々の核心をえぐる解説をしてくれる番組を見ていて、非常に驚いたことが指摘されていた。それは米国トランプの政策を中国側から見ると、習近平政権にかなり重大なダメージを与え始めている、という指摘だった。
どういうことか、というと例えばこの4月に“米政府は、ZTEが米国からイランに違法に通信機器を輸出していたとし、米企業が同社と取引をすることを7年間禁止すると発表” して、結果として倒産の危機に瀕したという。私はこのニュースが伝えられた時、この事件の意味が分からなかった。その後、6月に入り米政府は立て続けに知的財産権侵害問題を巡り対中制裁の発動を決めた。この件は中国側も報復措置を取ったが、経済規模の違いや本質的に貿易量の不均衡のため、その後の展開では中国側の敗北に終わると見られている。
だが、これは独裁へ向けて神格化へ突き進む習近平氏にとっては大きな失策として、習氏の数多くなった政敵の標的となる、という指摘なのだ。米中貿易戦争もさることながら、ZTEの全面敗北は中国では一私企業の問題ではなく、習氏の指導力問題に直結する可能性もある重要問題らしい。当面、8月に開催される北戴河会議で習氏が共産党長老達からどのように批判されるのか注目されるという。しかしこの一方で、習主席は衆目を別の外交問題に集中させる可能性もあり、当面 尖閣諸島で日本との軍事衝突を画策することもあるのではないかとの警戒感を指摘していたのだ。
トランプ氏はおろかにも、保護主義を掲げて世界を引っ掻き回しているだけという、論評が一般化している中で、現実には北朝鮮政策や、中国政策では極めて的確な対応を見せている現実を知らされたような気分になって驚愕したのだ。
大河ドラマ“西郷どん”で一橋慶喜が“俺にはもう、誰が見方で、誰が敵なのかさっぱり分からん!!”と叫んでいたのを思い出したのだ。世の中が流動的な時、何が本質かを見抜くのは非常に難しいことなのだ、と思い知った次第だ。


さて、今回は何かの時の読書。渡辺淳一・著“鈍感力”を読んだ。私が読んだのは文庫本だが、まえがきに“本書は平成19年(2007年)2月に刊行して以来、百万部を突破。本のタイトルである「鈍感力」という言葉は、この年の流行語大賞にノミネートされた。”とあるように、当時は世の中の注目を集めた言葉だった。ネットを見て思い出したが、“当時既に元首相の小泉純一郎は2007年2月20日、国会内で当時の幹事長中川秀直、内閣官房長官塩崎恭久らと会い、「目先のことに鈍感になれ。『鈍感力』が大事だ。支持率は上がったり下がったりするもの。いちいち気にするな」と発言し、それが流行語となった。”ということだった。そういった話題提供もあり、この本はベストセラーとなっている。私は渡辺愛読者にもかかわらず、それを横目にケチで“文庫本が出てから・・・”とばかりにやり過ごしていた。そしたら、その後渡辺氏は2014年(平成26年)4月に亡くなってしまい、私には若干の喪失感が残ってしまった。

それから早くも4年経過。今頃、思い出したように読み始めた訳だ。
このエッセイ集、作家で医者の複眼での世評と言える。その点で非常に面白い。“鈍感であることが生きる点で有利なのだ”という、“著者一流の逆転の発想”が世間の耳目を集めることとなったのだ。

果たしてその内容は・・・。目次は次の通り。エッセイ集とは言え、著者の思いつくまま気儘に書いたのではなく、起承転結が明確で適切な項目の順序になっていることが、読んでみれば分かるのだ。

其の壱 ある才能の喪失
其の弐 叱られ続けた名医
其の参 血をさらさらと流すために
其の四 五感の鈍さ
其の五 眠れる大人
其の六 図にのる才能
其の七 鈍い腸をもった男
其の八 愛の女神を射とめるために
其の九 結婚生活を維持するために
其の十 ガンに強くなるために
其の十一 女性の強さ 其の一
其の十二 女性の強さ 其の二
其の十三 嫉妬や皮肉に感謝
其の十四 恋愛力とは?
其の十五 会社で生き抜くために
其の十六 環境適応能力
其の十七 母性愛 この偉大なる鈍感力

作家の目、医者の目での評論には逐一納得性が高い。そして、特に恋愛から女性への視線には複眼思考が重要な決め手になっている。そして最後に“母性愛”をテーマとして実に上手く巧みにまとめ上げている。

この本で言う鈍感力とは、改めて著者は次のように説明している。“長い人生の途中、苦しいことや辛いこと、さらには失敗することなどいろいろある。そういう気が落ち込むときにもそのまま崩れず、また立ち上がって前へ向かって明るくすすんでいく。そういうしたたかな力を鈍感力といっているのである。”

人間、敏感であることも勿論大切だが、一面では鈍感であることも重要であり、それが年を経て巧みに使い分けることができれば、人生の達人となるのであろうが、どういう局面で使い分けるのかは非常に難しい識別であろう。そういう分岐点とは知らずに通り過ぎて失敗するのが、大抵ではなかろうか。そうならないためには、広い視野で常に冷静に事態を客観視する訓練が必要なのだろう。人生は絶えざる修行の連続なのだ。それに備える努力も継続的に行うべきなのだろう。
残念ながら、この本にはその本質を見極める秘訣は書かれていない。その秘訣が分からなければ“鈍感力”は持ちえないのだが。渡辺氏の小説をどんなに読んでも、女性にもてる秘訣が書かれていないのと同じなのだろうか。

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