The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
第5回防災専門リレー講座“南海トラフの巨大地震津波への備え”に参加して
リスク・マネジメントに興味を持つからには、“防災”に意を払うべきだと言いつつ、今回も“阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター”主催の“地震津波災害への備え”に関する講演会に関する報告である。思わず同じような内容の2回連続の重複報告となり申し訳なく思っている。
このセミナーは先週、兵庫国際交流会館にて開催された。プログラムは 次の通り。
講演1:大震災の教訓を踏まえた南海トラフ沖地震への備え
講演者:室崎 益輝 氏 (関西学院大学総合政策学部 教授)
講演2:大震災の教訓から得られた今後の災害対策
講演者:越山 健治 氏 (関西大学社会安全学部 准教授)
どうやら、講演者お二人は90年代に神戸大学で師弟関係にあったとのことで、いわば室崎学派の講演会といった趣であった。
冒頭で 室崎氏は“阪神淡路大震災と東日本大震災の教訓を、南海トラフ地震等の次の巨大震災に生かす”ことを旨として、“悲観的に想定し、楽観的に準備する”と提唱する。少々意味不明な印象を受けるが、その心は“最悪のケースを想定し、その最悪のケースに命を守れる対策を準備し、それにより安全を確信し、希望を持ち安心を手に入れる”ことだと言う。つまり“正しくリスクを理解し、正しくリスクに備えること”が要諦である、ということ。ここで言うリスクは ハザード(危険源)と同義であろうか。しかしながら、その考え方は まさにリスク・マネジメントの根幹をなすものと見た。
室崎氏は さらに続けて“自然災害での被害の態様は、加害側の破壊力と受害側の防御力との相対的な関係により、規定される”と難しい説明だが、しごく当たり前のこと。しかし、実態を見ると近年、“自然災害は凶暴化しているが、社会は脆弱化しており、被害は増大している”と指摘している。つまり、自然は周期循環で凶暴化の過程に入りつつあるが、人間による地球環境の破壊・疲弊によっても被害が増大する傾向にあり、一方 それを受け止める(日本の)社会の側も人口の減少と社会の腐敗によって被害を増幅させる傾向にあるとの指摘であった。
しかし、災害は人口の増大も要因となってインフルエンザ、BSE、口蹄疫などの生物感染も含め多様化し、地球自然災害も 異常気象の常態化、巨大地震も活発化により活動期に入ったと見られ 激甚化して来ると見られる。特に、“南海トラフ沖の地震は100年から150年の周期で発生”していて今その活動期間の約50年の只中にあり、巨大地震は“近いうちに確実に起きる”とのこと。
これまで日本では 震災発生の都度問題となった災害モードに重点を置いて対策がなされて来たが、その災害モードは歴史と共に変化し、震災のたびに新たな災害モードへの対策が課題となって来た。たとえば関東大震災では、火災が問題であったが、神戸の震災では耐震が課題となり、東北では津波対策が大きな課題となっている。
さて、危機管理としてのリスク・マネジメントとクライシス・マネジメントが大切だが、そこでは“正しくヤマをかける(主たる災害モードを特定し対策を想定する)努力をするとともに、ヤマが外れた場合にも備えておく(想定外への危機管理)”べきである。ところが想定外が起きるのは、科学的限界では“災害事象が低頻度”であり“防災科学の未成熟”ことが原因であり、社会的には社会的に視野狭窄つまり “危険源に目を瞑る”ことや“(そのようなことは起きないと)心理的に思い込む”ことにある。この度の原発事故では この不都合への注視を怠ったことも問題を大きくしてしまっている。
次の減災哲学の発想も重要だとする。つまり“小さな災害には防災、大きな災害には減災”で対応する。30mの巨大津波に巨大堤防で対策しようとしてゼロ・リスクの立場をとるのは間違いである。つまり、巨大堤防建設によって景観を失い、近傍住民の生活の質を落とし、しかも 住民の海への観察力を失わせることは、災害への対応力を失う原因になる。しかも、巨大堤防は 竣工した瞬間から劣化が始まるので、災害が実際に起きるまで維持管理しなければならないが、その費用は巨大である分 莫大なものとなる。それは効率的対策とは言えない。
したがって、災害の“頻度と強度の違いによって、被害軽減の構えを変える”べきであると言う。100年に1回のそれほど大きくない災害にはハード重点で対策を考え“命も財産も機能も守る”が、あくまでもそれを絶対視しないことが大切。たとえば、津波対策の堤防ができたからと言って、それに頼ってそれまで住んでいなかった堤防の近くに住居を構えるようなことはしない。或いは、堤防があるから避難しないというようなことはしない、等の心構えが重要であると言う。そして、千年に1回というようなより強度の高い災害には、よりソフトに重点を置いた方法で 最低限“命だけは守る”ための万全の危険回避による 被害軽減を図っておく。要は“逃げるが勝”に価値をおくべきとしている。
そして、室崎氏特有の“対策の足し算で被害の引き算をはかる”という表現が登場する。ここで“冗長性のあるシステムを作る”すなわち多角的な対策を検討することにつなげて行く。まず“時間の足し算”つまり、“災害時の応急対応だけでなく、事前の予防策、事後の復旧・復興対応”、次に“空間の足し算”これは“幹線道路の拡幅による減災や路地裏の私有地まで含めた身近な公共空間整備”のことであり、“手段の足し算”は“建築や施設の整備ばかりでなく、土地利用規制やコミュニティ強化、防災教育などのヒューマンな防災意識の涵養”、さらに“人の足し算”は“行政の公助ばかりに頼るのではなく、自立した個人の自助、個人相互の共助、互助の促進”することが重要となる、と言う。
一般的に災害には“最悪を想定する”ことが重要であり、根拠無き“安全神話を克服”して対応すること。そして現状の“ウィーク・ポイントを知る”ことは難問を解くきっかけになる。“難問が解ければ、その他の多くの優しい問題も解ける”はずであり、その結果“命を守る自信を育む”ことができ、それが安心につながるはずだと言う。
しかし、南海トラフ沖地震は そうした一般論を超えた“超巨大&広域&想定外”の災害なので、“クライシス・マネジメントの「質の飛躍的な向上」が欠かせない”。そこでの“緊急事態対処”には何より“拙速要諦”で臨むのを鉄則としなければならない。また、防災は“逃げる&保険”が究極の基本であることを わきまえて対策を実施していくべきだ。このように“逃げるが勝”の文化を促進するべきだが、ここで人間の行動特性にも注目しておく必要はある。例えば“人間は、恐怖感に襲われると、小学4年生並の判断力になるという不適応行動が生まれる”ので、適切な情報提供のシステム強化や避難環境の適切化整備が必要とされる、ということだった。
次に登壇した越山氏は、室崎氏の弟子という関係であるため講演内容に“かぶる”部分が多いと 前説で述べられたが、むしろその方が聞く側は混乱しないのではないかと思いつつ聞いた。ここでは特に印象に残った言葉を紹介する。
南海トラフ沖地震は、いつ起こるかは分からないが概ね20~30年後であると想定される。もし、明日起こるようであれば、それは規模は想定より小さいものとなり むしろその方がありがたい。後になればなる程、規模は巨大化して行く。
また、西日本は地震が少ないというのは、思い込みであり、西日本の大都市にはいずれにも活断層は走っているので要注意である。
その“都市はさらに都市化する傾向がある”。すると、“自分でできることはほとんどなくなる。”さらに“都市を支えるいろいろな構造物は劣化してくる。”そして、都市化した人々の“自然を見る目、地域を見る目が衰えてくる”傾向になり、それは人々の災害に対処する力の衰えを意味する。
そこで“新たな減災文化を創る”必要があるが、それには“新しいコミュニティ感の創造”のための活動が意味を持つ。それには“他人を助けることで防災思考が進み、動けばそれがもっと進む”ので、“災害支援”を積極的に行う文化を育めば防災に“必要なものが見える”ようになると言う。つまり“「助ける」しくみが「助かる」しくみに”なるのだと言うことだ。
また、災害というものは起きなければ、その時間の経過分巨大化して行く傾向にあるが、ハードの対策は建設すれば時間と共に劣化して行くものなので、むしろ それを維持するのではなく、年々少しずつ強化するような仕組にした方が良いのではないか。たとえば“作った堤防は年々かさ上げする仕組を考えてはどうか”との面白い提案があった。
また、津波というハザードそのものへの対策ではなくて、それによって起きること つまり“何が起きるのか”というリスク・モードへの対策を詰めておくことの方が 重要であり、効果的な対策となる、という指摘は大いに有意義であると思った。

このセミナーは先週、兵庫国際交流会館にて開催された。プログラムは 次の通り。
講演1:大震災の教訓を踏まえた南海トラフ沖地震への備え
講演者:室崎 益輝 氏 (関西学院大学総合政策学部 教授)
講演2:大震災の教訓から得られた今後の災害対策
講演者:越山 健治 氏 (関西大学社会安全学部 准教授)
どうやら、講演者お二人は90年代に神戸大学で師弟関係にあったとのことで、いわば室崎学派の講演会といった趣であった。
冒頭で 室崎氏は“阪神淡路大震災と東日本大震災の教訓を、南海トラフ地震等の次の巨大震災に生かす”ことを旨として、“悲観的に想定し、楽観的に準備する”と提唱する。少々意味不明な印象を受けるが、その心は“最悪のケースを想定し、その最悪のケースに命を守れる対策を準備し、それにより安全を確信し、希望を持ち安心を手に入れる”ことだと言う。つまり“正しくリスクを理解し、正しくリスクに備えること”が要諦である、ということ。ここで言うリスクは ハザード(危険源)と同義であろうか。しかしながら、その考え方は まさにリスク・マネジメントの根幹をなすものと見た。
室崎氏は さらに続けて“自然災害での被害の態様は、加害側の破壊力と受害側の防御力との相対的な関係により、規定される”と難しい説明だが、しごく当たり前のこと。しかし、実態を見ると近年、“自然災害は凶暴化しているが、社会は脆弱化しており、被害は増大している”と指摘している。つまり、自然は周期循環で凶暴化の過程に入りつつあるが、人間による地球環境の破壊・疲弊によっても被害が増大する傾向にあり、一方 それを受け止める(日本の)社会の側も人口の減少と社会の腐敗によって被害を増幅させる傾向にあるとの指摘であった。
しかし、災害は人口の増大も要因となってインフルエンザ、BSE、口蹄疫などの生物感染も含め多様化し、地球自然災害も 異常気象の常態化、巨大地震も活発化により活動期に入ったと見られ 激甚化して来ると見られる。特に、“南海トラフ沖の地震は100年から150年の周期で発生”していて今その活動期間の約50年の只中にあり、巨大地震は“近いうちに確実に起きる”とのこと。
これまで日本では 震災発生の都度問題となった災害モードに重点を置いて対策がなされて来たが、その災害モードは歴史と共に変化し、震災のたびに新たな災害モードへの対策が課題となって来た。たとえば関東大震災では、火災が問題であったが、神戸の震災では耐震が課題となり、東北では津波対策が大きな課題となっている。
さて、危機管理としてのリスク・マネジメントとクライシス・マネジメントが大切だが、そこでは“正しくヤマをかける(主たる災害モードを特定し対策を想定する)努力をするとともに、ヤマが外れた場合にも備えておく(想定外への危機管理)”べきである。ところが想定外が起きるのは、科学的限界では“災害事象が低頻度”であり“防災科学の未成熟”ことが原因であり、社会的には社会的に視野狭窄つまり “危険源に目を瞑る”ことや“(そのようなことは起きないと)心理的に思い込む”ことにある。この度の原発事故では この不都合への注視を怠ったことも問題を大きくしてしまっている。
次の減災哲学の発想も重要だとする。つまり“小さな災害には防災、大きな災害には減災”で対応する。30mの巨大津波に巨大堤防で対策しようとしてゼロ・リスクの立場をとるのは間違いである。つまり、巨大堤防建設によって景観を失い、近傍住民の生活の質を落とし、しかも 住民の海への観察力を失わせることは、災害への対応力を失う原因になる。しかも、巨大堤防は 竣工した瞬間から劣化が始まるので、災害が実際に起きるまで維持管理しなければならないが、その費用は巨大である分 莫大なものとなる。それは効率的対策とは言えない。
したがって、災害の“頻度と強度の違いによって、被害軽減の構えを変える”べきであると言う。100年に1回のそれほど大きくない災害にはハード重点で対策を考え“命も財産も機能も守る”が、あくまでもそれを絶対視しないことが大切。たとえば、津波対策の堤防ができたからと言って、それに頼ってそれまで住んでいなかった堤防の近くに住居を構えるようなことはしない。或いは、堤防があるから避難しないというようなことはしない、等の心構えが重要であると言う。そして、千年に1回というようなより強度の高い災害には、よりソフトに重点を置いた方法で 最低限“命だけは守る”ための万全の危険回避による 被害軽減を図っておく。要は“逃げるが勝”に価値をおくべきとしている。
そして、室崎氏特有の“対策の足し算で被害の引き算をはかる”という表現が登場する。ここで“冗長性のあるシステムを作る”すなわち多角的な対策を検討することにつなげて行く。まず“時間の足し算”つまり、“災害時の応急対応だけでなく、事前の予防策、事後の復旧・復興対応”、次に“空間の足し算”これは“幹線道路の拡幅による減災や路地裏の私有地まで含めた身近な公共空間整備”のことであり、“手段の足し算”は“建築や施設の整備ばかりでなく、土地利用規制やコミュニティ強化、防災教育などのヒューマンな防災意識の涵養”、さらに“人の足し算”は“行政の公助ばかりに頼るのではなく、自立した個人の自助、個人相互の共助、互助の促進”することが重要となる、と言う。
一般的に災害には“最悪を想定する”ことが重要であり、根拠無き“安全神話を克服”して対応すること。そして現状の“ウィーク・ポイントを知る”ことは難問を解くきっかけになる。“難問が解ければ、その他の多くの優しい問題も解ける”はずであり、その結果“命を守る自信を育む”ことができ、それが安心につながるはずだと言う。
しかし、南海トラフ沖地震は そうした一般論を超えた“超巨大&広域&想定外”の災害なので、“クライシス・マネジメントの「質の飛躍的な向上」が欠かせない”。そこでの“緊急事態対処”には何より“拙速要諦”で臨むのを鉄則としなければならない。また、防災は“逃げる&保険”が究極の基本であることを わきまえて対策を実施していくべきだ。このように“逃げるが勝”の文化を促進するべきだが、ここで人間の行動特性にも注目しておく必要はある。例えば“人間は、恐怖感に襲われると、小学4年生並の判断力になるという不適応行動が生まれる”ので、適切な情報提供のシステム強化や避難環境の適切化整備が必要とされる、ということだった。
次に登壇した越山氏は、室崎氏の弟子という関係であるため講演内容に“かぶる”部分が多いと 前説で述べられたが、むしろその方が聞く側は混乱しないのではないかと思いつつ聞いた。ここでは特に印象に残った言葉を紹介する。
南海トラフ沖地震は、いつ起こるかは分からないが概ね20~30年後であると想定される。もし、明日起こるようであれば、それは規模は想定より小さいものとなり むしろその方がありがたい。後になればなる程、規模は巨大化して行く。
また、西日本は地震が少ないというのは、思い込みであり、西日本の大都市にはいずれにも活断層は走っているので要注意である。
その“都市はさらに都市化する傾向がある”。すると、“自分でできることはほとんどなくなる。”さらに“都市を支えるいろいろな構造物は劣化してくる。”そして、都市化した人々の“自然を見る目、地域を見る目が衰えてくる”傾向になり、それは人々の災害に対処する力の衰えを意味する。
そこで“新たな減災文化を創る”必要があるが、それには“新しいコミュニティ感の創造”のための活動が意味を持つ。それには“他人を助けることで防災思考が進み、動けばそれがもっと進む”ので、“災害支援”を積極的に行う文化を育めば防災に“必要なものが見える”ようになると言う。つまり“「助ける」しくみが「助かる」しくみに”なるのだと言うことだ。
また、災害というものは起きなければ、その時間の経過分巨大化して行く傾向にあるが、ハードの対策は建設すれば時間と共に劣化して行くものなので、むしろ それを維持するのではなく、年々少しずつ強化するような仕組にした方が良いのではないか。たとえば“作った堤防は年々かさ上げする仕組を考えてはどうか”との面白い提案があった。
また、津波というハザードそのものへの対策ではなくて、それによって起きること つまり“何が起きるのか”というリスク・モードへの対策を詰めておくことの方が 重要であり、効果的な対策となる、という指摘は大いに有意義であると思った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

« 神戸の講演会“... | 京都プチ観光―... » |
コメント |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |