goo

秋の吉備路半日日帰り旅行

岸田政権支持率急速に転落の上に、創価学会の池田大作氏が亡くなった。これで、自民支持勢力の弱体化が大きく懸念されている。正に弱り目に祟り目だ。御蔭で選挙はさらに遠のいたと、野党はホッとしている様子。

北朝鮮が衛星の打ち上げに成功した?まぁ衛星とはいっても、物体が飛んでいるだけのようである。偵察機能はないようだ。
日本の対応策はいかが?いつまでもJアラート発出して“頑丈な建物や地下への避難”などを呼びかけてオロオロするばかりでよいのか。
日本ではただただ“頑丈な建物や地下へ避難”だけで済ませている。それでいいのか、どうして避難シェルターの設置や建設を始めないのか。韓国や台湾には防空壕や避難シェルターがあると聞いているが、日本にはその建設する気配すらない。日本政府は“国民の安全を守る”意思は全くないのか?
ガザやウクライナでの建物破壊の状況を見れば、単なる“頑丈な建物や地下への避難”がどれほど有効なのか想像がつくではないか。いい加減な政治家と政府を持った国民の悲劇なのだろうか。



さて、前回言っていたように先々週木曜は以前に居た会社の同期のメンバーのジジイ6人と吉備路の日帰り観光をしたので、今回はその詳細を紹介したい。その会社の大きな工場が水島にあり、新入社員が多数配属されるので、岡山に縁があるのだ。私自身は阪神間の工場に配属され、その後の出張でも数度しかなかったので、岡山は懐かしさよりエトランゼ―感が大きい。ところで、この旅の案内は都合よく地元玉島出身者が引き受けてくれた。
この周遊のスタートは岡山駅の在来線コンコース内の“おみやげ街道”前12時、となっており、そこが集合地点であった。私は神戸市内から新快速で姫路まで向かい、姫路から新幹線自由席で岡山駅に出た。これがコスト・時間ミニマムのコース。切符は吉備津駅までの乗車券なので、岡山では途中下車はできる。なので下車して岡山駅周辺、と言っても結局は駅ビル・さんすて岡山(東西連絡通路沿い)内で昼食を摂った。帰りが飲み会で終わることもありあわただしくなりそうなので、廣榮堂で土産の“きび団子とむらすずめの詰合せ”も買っておいた。



コース概要は下図によるが、先ず岡山駅からJR桃太郎線(吉備線)で吉備津駅まで行き、吉備津神社拝観、そこから後はジャンボタクシーで廻ることになった。行き先は、秀吉の高松城攻めの遺構、鬼ノ城跡、日没後の倉敷美観地区での飲み会、倉敷駅より帰神。当然、岡山駅で新幹線に乗り換え新神戸までとなった。



JR吉備津駅でおりて、線路沿いに東に歩いて行くと、吉備津神社の一の鳥居に至る。そこから真っすぐ南下すると吉備津神社の入り口階段になる。
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、Wikipediaによれば次のようである。

岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧・社格は官幣中社で、2023年(令和5年)現在は神社本庁の別表神社。
岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。
本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割*1により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。

*1:本来、備前、備中、備後、美作は一つの吉備の国であった。この吉備国は、古代日本の地方国家とされ、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがる有力な地域の一つであり、大和、筑紫、出雲などと並ぶ古代日本の四大王国(四大王権)の一角であった。恐らく、大和朝廷によって分割統治されたのであろう。

足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財に指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。
当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。

本殿の右脇から回廊が伸びており、御釜殿につながっている。これらについてWikipediaによれば次のようである。

回廊:戦国時代、天正年間(1573年 - 1591年)の造営とされる。総延長398m。(日本一の直線神社回廊)岡山県指定文化財に指定されている。
御釜殿:江戸時代、慶長11年(1606年)の鉱山師・安原知種による再建。単層入母屋造の平入で、本瓦葺。南北に伸びた長方形で、北二間に釜を置く。金曜日を除く毎日、特殊神事の「鳴釜神事」が行われる。国の重要文化財に指定されている。



この吉備津神社にまつわる“桃太郎伝説”については、概ねWikipediaによれば次のようで抜粋を掲載する。

ゆかりの地とされる場所は全国にあるが、その中でも特に岡山県が最有力地とされており、全国で唯一、岡山だけが『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で日本遺産として文化庁からゆかりの地*2として正式に認定されている。

*2:1930(昭和5)年、岡山市の彫塑・鋳金家の難波金之助が『桃太郎の史実』という書籍を発表。吉備津彦命の温羅退治が、桃太郎の昔話のモデルだという説を展開した。(桃太郎は吉備津彦である/鬼は温羅である/鬼が島は鬼ノ城山で古代は吉備穴海の島であった/黍団子は吉備団子である)
さらに、1962(昭和37)年の第17回国民体育大会岡山大会で、当時の岡山県知事・三木行治は、岡山の郷土色をアピールするために、桃太郎伝説を活用。(それ以外にも昭和59年駅前通りを「桃太郎大通り」/平成28年JR吉備線を「桃太郎線」/平成30年岡山空港を「桃太郎空港」と命名)また「桃太郎」を大会のシンボルや秋季大会のマスゲームのテーマに採用したことで、同じく桃太郎伝説を伝える香川県、愛知県等を引き離して全国に「桃太郎といえば岡山」と思われるようになった。

岡山県は、桃太郎作中の「きび団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」を関連付けるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名となり、現在は桃太郎の像なども存在する。岡山を発祥地とする主張の三大根拠とされるのが、吉備団子、桃、そして,吉備津彦命の温羅*3退治伝説であるとされている。

*3:温羅(うら/おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼。
温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣され退治されたという。
伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この鬼退治伝説は桃太郎伝説の原型に当たるとの説もある。
伝承によると、吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかった。このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した。
討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を1本ずつ射たが温羅はその都度石を投げて撃ち落とした。そこで命が2本同時に射たところ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は鯉に身を変えて逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変化してついに捕らえたところ温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上した。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになった。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。

「黍団子」が「吉備団子」に通じることから、桃太郎は「吉備国」(現在の岡山県)とゆかりがあるとの論旨が生まれた。しかし古い系統本の物語説話では「とう団子」等であることが指摘されており、本来そのような関連性はないとされる。ちなみに商品として広く知られる吉備団子は、きび団子にちなんで江戸末期に売り出された物である。
岡山県ゆかりの由来説として、岡山市の吉備津神社の縁起物など(古くは16世紀末の文献)に記録される伝説であるが、温羅の居城は備中国鬼ノ城とされているので桃太郎討伐の鬼に見立てられている。これは学界ではなく在野の説で、地元岡山市の難波金之助なる塑像家が昭和初期に提唱したのを嚆矢とする。
吉備津神社縁起物によると、吉備津彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)という部下がいた。犬飼、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したともされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣=雉」となるとする説がある。
岡山県の血吸川(笹ヶ瀬川の支流)も桃太郎の桃が流れた川、あるいは桃太郎との戦いで傷を負った鬼の血が流れた川だと、温羅伝説に伝わる。

この吉備津神社の拝観を終えて、ここからジャンボタクシーに乗り込んで、秀吉の備中高松城攻めの遺構観光に赴く。先ずは蛙ヶ鼻へ。
山のふもとに少し張り出した土手があり、そこが“蛙ヶ鼻”と呼ばれている所だった。そこから高松城があると思しき所を眺めるが、かなり広いエリアであると分かる。これに堰を設けて水攻めにするという発想はなかなか起きないだろう。案内者の説明によれば、元々秀吉は北側の山から備中高松城を眺めて、山の間に川のある低地であると見て、水攻めを発想したのだろうと、言っていた。この堰は明治期に鉄道を通すための土手作りの土砂として利用するために崩されたという。



次に備中高松城跡に向かう。それは全くの平野の中央にあった。平野というより蓮池があったりして、低湿地帯である。備中穴海の影響がまだ多少あったのだろう。こんなそれほど大きくもなく、小高い丘もない全くの平城に、黒田官兵衛を従えた秀吉が何故手こずったのか?不思議だ。城を守った清水宗治がよほどの智将であったのだろうか。



備中高松城跡を後にして、温羅伝説の本拠地・鬼ノ城を目指す。麓からかなり見上げると、少し山肌が見える部分がある。そこが駐車場やビジターセンターのある所だという。
実際に行ってみると、ビジターセンターには様々な遺構の写真や模型があった。温羅伝説にあるように、温羅は百済王室の血筋の者と考えられている。しかもこの城の築城技術は明らかに百済の技術だという。
しかも製鉄の技術を持っており、それで作られた農機具で農民から慕われたと想像されている。この山で品位の高い鉄鉱石が採れ、今回は見なかったが山城内部に製鉄所の遺跡があるという。下流の血吸川が赤いのは製鉄時に出た酸化鉄によるものと考えられている。その後、原料の品位低下・枯渇と共に製鉄業は廃れたがこの地の阿曽では鋳物業が発展し、昭和の初めまで続いたという。
改めてこの山城から、見てきたところを振り返ってみると、蛙ヶ鼻と思われる山影は明確に分かったが、吉備津神社は隠れていて見えない。温羅と吉備津彦の矢合戦・投石合戦はやっぱりお伽話か。
それが何故か大和朝廷と争って、吉備津彦命に征服され、桃太郎伝説になった、そう考えられている。しかし、こうした巨大な山城に関する古文献・記録が全くないということに、大きな謎があるという。
備中穴海のあった古代にはこの山の麓は街道筋となっており、この山城は絶好の要衝となる。白村江の戦いで敗れた大和・百済連合軍としては、唐の反攻に備えて西国各地に城を築いており、この山城もその一つとも考えられる。だが、それは大和政権と覇を争った温羅とは矛盾する話になる。
また百済には「逃げ城」という慣習があって、村民の安全のために後背地の山にシェルターを築き、そこに食料や武器を備蓄したという。この鬼ノ城も温羅一族の「逃げ城」ではなかったかという話もあるようだ。
ビジターセンターを出て、実際に見に行ったのは西門。まずは展望デッキで西門全貌を見、瀬戸内海を一望した。



いよいよ山を下りて、倉敷美観地区を目指す。結構時間があって、一日の疲労感が出てきた。
倉敷に着くと確か5時を回っていた。従い、既に大原美術館は入館不可。街をうろうろするだけ。頃合いを見計らって、酒房八重へ。飲み会だけに参加する2名が新たに加わって、会が開催。もうあとはゴチャゴチャ!
何とか、JR倉敷駅から帰神、無事帰着。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大野原神社の... 23年11月に鑑... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。