The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
ひろさちや・著“空海入門”を読んで
今週、首相は訪米し共同声明を発表した。
この共同声明では“日米両国を、「グローバル・パートナー」と位置づけ、複雑化する国際社会の課題に、あらゆる領域でともに対応していく姿勢を打ち出し、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を堅持し、強化していくなど”としている。
そして防衛・安保、先端技術・経済安保、宇宙、外交・開発での連携、人的結びつき、の各分野での連携について発表した。大きな気懸りは“日本とアメリカの関係は真のグローバルなパートナーシップへと変化”したとして、“アメリカ軍と自衛隊の連携をより円滑にするため、それぞれの部隊の指揮・統制を向上させる”つまり自衛隊と米軍の一体的運用である。
これについては大きな懸念がある。例えば米軍が最も気にする南シナ海での哨戒活動を日本の自衛隊が担わされるのではあるまいか、ということだ。海自の潜水艦は世界で最も捉え難いとされている。しかも潜水艦の艦長は中央の司令を独自に解釈できる裁量権を有しているらしいので、その活動には結構高い自由度を持たせることが可能だ。そういう隙に米軍の意志が入り込むことが可能だということも有り得る。つまり海自の潜水艦が米軍の意向で南シナ海の中国の動向を探査することも可能なのだ。それを日本政府が関知していなかった、ということも有り得るのではないかという懸念だ。或いは、このようなことが、グローバルな連携ということで地球の裏側で密かに行われることがあるまいか、ということなのだ。
この訪米で岸田政権の支持率は向上するのだろうか。訪米の好影響は考え難く、やはり焦点は衆院3補欠選挙となるようだ。自民が公認候補を擁立するのは島根1区のみでここで負けるとなると党内支持率も期待できず混乱は助長されるのみとなる。来月には党内人事を刷新する予定で、茂木氏の動向が気懸りとなるようだ。
大阪・関西万博の開催は1年後だという。
会場を取り囲む木造の巨大リングはほぼ80%が完成している一方、海外パビリオンは独自に建設予定のおよそ50カ国のうち、着工済みは14カ国にとどまり、およそ15カ国はいまだ施工業者が決まっておらず、建設の遅れが課題となっているという。1年後果たしてどこまでできるのか心配されるところだ。
これまで、空海に関する本は、面白半分で読んだ島田裕巳著“空海と最澄はどっちが偉いのか?―日本仏教史7つの謎を解く”をはじめいろいろ読んできた。列挙すると次の通り。
・梅原猛“空海の思想について”(講談社学術文庫)
・松永有慶“密教”(岩波新書)
・梅原猛“最澄と空海―日本人の心のふるさと”(小学館文庫)
・並木伸一郎・著“眠れないほどおもしろい「密教」の謎” (王様文庫)
・ひろさちや・著“空海と密教”(黄金文庫)
・ひろさちや・著“はじめての仏教―その成立と発展” (中公文庫)
・頼富 本宏・著“空海と密教―「情報」と「癒し」の扉をひらく”(PHP新書)
これら以外にも、空海と深く関連する“最澄”も読んでみてはいるが、“空海”、特にその“密教”についての理解はさっぱりのままなのだ。
ここらで、決定版を読んでみようと、或いは読み落としも含めてもう一度“ひろさちや”氏の著作で確認するべくこの本を読んでみた。いつものようにこの本の基本情報を次に掲げる。
【出版社内容情報】
空海の密教こそは、混迷する現代を力強く生きるための教えである―。空海の生涯をたどり、その思想の核心を平易に説き明かす本書は、閉塞状況を打破し、「あるがままの現実を大肯定する」生き方を手に入れるための、格好の手引きである。
【目次】
まえがき
第1章 大学を去った空海
第2章 彷徨する空海
第3章 海を渡る空海
第4章 超然たる空海
第5章 帰って来た空海
第6章 傍若無人の空海
第7章 山に眠った空海
おわりに―空海と1984年
文庫版へのあとがき
【著者等紹介】ひろさちや
1936(昭和11)年、大阪府生れ。東京大学文学部印度哲学科卒業、同大学院博士課程修了。気象大学校教授として長年にわたり哲学を講じる。旺盛な執筆・講演活動で仏教哲学の啓蒙家として知られる。『ひろさちやの般若心経88講』『仏教とキリスト教』『仏教と儒教』『キリスト教とイスラム教』『宗教練習問題』『愛の研究』『「狂い」のすすめ』『無責任のすすめ』『「無関心」のすすめ』など著書多数。
この本の内容に非常に近いのは同じ著者の“空海と密教”(黄金文庫)である。目次・章立てもよく似通っている。
例えば唐の師である恵果とその弟子・空海の会話、これは“ひろさちや”氏による想像、創作であるが恐らくそのようであたろうと想像せざるをえないほど見事な再構築・想像であると言わざるを得ないのだが、これは両書に同じように登場している。
だが、私にはこの本の“第6章 鎌倉仏教の高僧たちは、なぜ最澄の門下からうまれたか”に書かれていることが、著者の独創であり、私の日本仏教への理解を決定的にした。これは“空海と密教”(黄金文庫)には無い部分なのだ。
どう書いているのか!著者は先ず、鎌倉仏教の高僧たち― 一宗一派の開祖たちは、いずれも天台宗即ち比叡山に上って天台教学を勉強し、そして山を下りて独自の道を拓いた、という。
浄土宗の・・・法然、浄土真宗の・・・親鸞、曹洞宗の・・・道元、日蓮宗の・・・日蓮
だが、それは結局は空海の密教理念を実現させていることになるのだ、という。何故か!
“密教では、「身・口・意の三密」という。゛身゛は身体、゛口゛は言語、゛意゛は心である。仏陀の身体・言語・心はわれら凡夫の考え及ばぬ高い境地なので、これを゛密゛と呼ぶのである。”“われわれ凡夫は、身体的行動、言語行動、そして心のなかで、仏陀のまねをすればよい。・・・仏陀の不思議な力がわれわれに加持されるのだ”。“大事なことは、身口意のすべてにわたって、仏陀になりっきることである。密教は全体性を尊ぶ。全体が仏陀になっていなければならない。”しかし、それは非常に困難な業である。“空海の密教はその至難のわざを要求している。”
“ところが、鎌倉時代の高僧たちは、身・口・意の三密をバラバラにしてしまった。バラバラの一密にして、各自がめいめいの一密に専心した。”その様子は次のようとなった。
“身密・・・・を強調したのは、道元である。彼は「只管打座」といって、ひたすら座禅せよ!といった。
口密・・・・の強調は、法然と日蓮である。法然は「南無阿弥陀仏」の念仏を、日蓮は「南無妙法蓮華経」のお題目をとなえよ!と言っている。
意密・・・・を述べたのは、親鸞である。親鸞の師である法然は、口に出す念仏に重きをおいたが、親鸞その人は「信心」だけでよいとした。こころの強調である。”
これは“ひろさちや”氏による見事な整理だといってよい。座禅も、念仏も「南無妙法蓮華経」も『歎異抄』も現代に活きている。空海の否、弘法大師の“三密”はこういうかたちで現代に活きているのだ。何だか、日本仏教の本質が解き明かされたような気がした。だから本書は“ひろさちや”氏による“空海入門”決定版であると言えるのではないだろうか。
最澄も目指した在家仏教が大切だという大乗仏教を推すのなら、念仏やお題目、「信心」の重視は大切であろう。そのお手軽さが重要なのだ。お手軽であっても、その背後には重い“覚悟”があってしかるべきであるのは言うまでもない。ここでいう“覚悟”は“徹底した理解”のことである。その理解がどこまで徹底できているかが問題なのだ。“他力”はどこまで“阿弥陀様にお任せする”という意識があるのかによっているのだ。今後はそうした方面について“お勉強”して行くべきことなのだろう。
ただ残念なのは、鎌倉仏教の開祖は身密の道元、口密の法然と日蓮、意密の親鸞の順で現れたのではなくて、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮の順で出現しているのが歴史的事実なのだ。どうしてこういった順になったのか、歴史の不思議さを感じざるを得ない。
この共同声明では“日米両国を、「グローバル・パートナー」と位置づけ、複雑化する国際社会の課題に、あらゆる領域でともに対応していく姿勢を打ち出し、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を堅持し、強化していくなど”としている。
そして防衛・安保、先端技術・経済安保、宇宙、外交・開発での連携、人的結びつき、の各分野での連携について発表した。大きな気懸りは“日本とアメリカの関係は真のグローバルなパートナーシップへと変化”したとして、“アメリカ軍と自衛隊の連携をより円滑にするため、それぞれの部隊の指揮・統制を向上させる”つまり自衛隊と米軍の一体的運用である。
これについては大きな懸念がある。例えば米軍が最も気にする南シナ海での哨戒活動を日本の自衛隊が担わされるのではあるまいか、ということだ。海自の潜水艦は世界で最も捉え難いとされている。しかも潜水艦の艦長は中央の司令を独自に解釈できる裁量権を有しているらしいので、その活動には結構高い自由度を持たせることが可能だ。そういう隙に米軍の意志が入り込むことが可能だということも有り得る。つまり海自の潜水艦が米軍の意向で南シナ海の中国の動向を探査することも可能なのだ。それを日本政府が関知していなかった、ということも有り得るのではないかという懸念だ。或いは、このようなことが、グローバルな連携ということで地球の裏側で密かに行われることがあるまいか、ということなのだ。
この訪米で岸田政権の支持率は向上するのだろうか。訪米の好影響は考え難く、やはり焦点は衆院3補欠選挙となるようだ。自民が公認候補を擁立するのは島根1区のみでここで負けるとなると党内支持率も期待できず混乱は助長されるのみとなる。来月には党内人事を刷新する予定で、茂木氏の動向が気懸りとなるようだ。
大阪・関西万博の開催は1年後だという。
会場を取り囲む木造の巨大リングはほぼ80%が完成している一方、海外パビリオンは独自に建設予定のおよそ50カ国のうち、着工済みは14カ国にとどまり、およそ15カ国はいまだ施工業者が決まっておらず、建設の遅れが課題となっているという。1年後果たしてどこまでできるのか心配されるところだ。
これまで、空海に関する本は、面白半分で読んだ島田裕巳著“空海と最澄はどっちが偉いのか?―日本仏教史7つの謎を解く”をはじめいろいろ読んできた。列挙すると次の通り。
・梅原猛“空海の思想について”(講談社学術文庫)
・松永有慶“密教”(岩波新書)
・梅原猛“最澄と空海―日本人の心のふるさと”(小学館文庫)
・並木伸一郎・著“眠れないほどおもしろい「密教」の謎” (王様文庫)
・ひろさちや・著“空海と密教”(黄金文庫)
・ひろさちや・著“はじめての仏教―その成立と発展” (中公文庫)
・頼富 本宏・著“空海と密教―「情報」と「癒し」の扉をひらく”(PHP新書)
これら以外にも、空海と深く関連する“最澄”も読んでみてはいるが、“空海”、特にその“密教”についての理解はさっぱりのままなのだ。
ここらで、決定版を読んでみようと、或いは読み落としも含めてもう一度“ひろさちや”氏の著作で確認するべくこの本を読んでみた。いつものようにこの本の基本情報を次に掲げる。
【出版社内容情報】
空海の密教こそは、混迷する現代を力強く生きるための教えである―。空海の生涯をたどり、その思想の核心を平易に説き明かす本書は、閉塞状況を打破し、「あるがままの現実を大肯定する」生き方を手に入れるための、格好の手引きである。
【目次】
まえがき
第1章 大学を去った空海
第2章 彷徨する空海
第3章 海を渡る空海
第4章 超然たる空海
第5章 帰って来た空海
第6章 傍若無人の空海
第7章 山に眠った空海
おわりに―空海と1984年
文庫版へのあとがき
【著者等紹介】ひろさちや
1936(昭和11)年、大阪府生れ。東京大学文学部印度哲学科卒業、同大学院博士課程修了。気象大学校教授として長年にわたり哲学を講じる。旺盛な執筆・講演活動で仏教哲学の啓蒙家として知られる。『ひろさちやの般若心経88講』『仏教とキリスト教』『仏教と儒教』『キリスト教とイスラム教』『宗教練習問題』『愛の研究』『「狂い」のすすめ』『無責任のすすめ』『「無関心」のすすめ』など著書多数。
この本の内容に非常に近いのは同じ著者の“空海と密教”(黄金文庫)である。目次・章立てもよく似通っている。
例えば唐の師である恵果とその弟子・空海の会話、これは“ひろさちや”氏による想像、創作であるが恐らくそのようであたろうと想像せざるをえないほど見事な再構築・想像であると言わざるを得ないのだが、これは両書に同じように登場している。
だが、私にはこの本の“第6章 鎌倉仏教の高僧たちは、なぜ最澄の門下からうまれたか”に書かれていることが、著者の独創であり、私の日本仏教への理解を決定的にした。これは“空海と密教”(黄金文庫)には無い部分なのだ。
どう書いているのか!著者は先ず、鎌倉仏教の高僧たち― 一宗一派の開祖たちは、いずれも天台宗即ち比叡山に上って天台教学を勉強し、そして山を下りて独自の道を拓いた、という。
浄土宗の・・・法然、浄土真宗の・・・親鸞、曹洞宗の・・・道元、日蓮宗の・・・日蓮
だが、それは結局は空海の密教理念を実現させていることになるのだ、という。何故か!
“密教では、「身・口・意の三密」という。゛身゛は身体、゛口゛は言語、゛意゛は心である。仏陀の身体・言語・心はわれら凡夫の考え及ばぬ高い境地なので、これを゛密゛と呼ぶのである。”“われわれ凡夫は、身体的行動、言語行動、そして心のなかで、仏陀のまねをすればよい。・・・仏陀の不思議な力がわれわれに加持されるのだ”。“大事なことは、身口意のすべてにわたって、仏陀になりっきることである。密教は全体性を尊ぶ。全体が仏陀になっていなければならない。”しかし、それは非常に困難な業である。“空海の密教はその至難のわざを要求している。”
“ところが、鎌倉時代の高僧たちは、身・口・意の三密をバラバラにしてしまった。バラバラの一密にして、各自がめいめいの一密に専心した。”その様子は次のようとなった。
“身密・・・・を強調したのは、道元である。彼は「只管打座」といって、ひたすら座禅せよ!といった。
口密・・・・の強調は、法然と日蓮である。法然は「南無阿弥陀仏」の念仏を、日蓮は「南無妙法蓮華経」のお題目をとなえよ!と言っている。
意密・・・・を述べたのは、親鸞である。親鸞の師である法然は、口に出す念仏に重きをおいたが、親鸞その人は「信心」だけでよいとした。こころの強調である。”
これは“ひろさちや”氏による見事な整理だといってよい。座禅も、念仏も「南無妙法蓮華経」も『歎異抄』も現代に活きている。空海の否、弘法大師の“三密”はこういうかたちで現代に活きているのだ。何だか、日本仏教の本質が解き明かされたような気がした。だから本書は“ひろさちや”氏による“空海入門”決定版であると言えるのではないだろうか。
最澄も目指した在家仏教が大切だという大乗仏教を推すのなら、念仏やお題目、「信心」の重視は大切であろう。そのお手軽さが重要なのだ。お手軽であっても、その背後には重い“覚悟”があってしかるべきであるのは言うまでもない。ここでいう“覚悟”は“徹底した理解”のことである。その理解がどこまで徹底できているかが問題なのだ。“他力”はどこまで“阿弥陀様にお任せする”という意識があるのかによっているのだ。今後はそうした方面について“お勉強”して行くべきことなのだろう。
ただ残念なのは、鎌倉仏教の開祖は身密の道元、口密の法然と日蓮、意密の親鸞の順で現れたのではなくて、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮の順で出現しているのが歴史的事実なのだ。どうしてこういった順になったのか、歴史の不思議さを感じざるを得ない。
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