The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
軍事的脅威への対応―普天間問題に関する対応
国家の安全保障を考える上で、今ある軍事的脅威を客観的に 正確に把握しておくことが重要なのである。
普天間基地移転に関連して、嘉手納基地が攻撃された時の代替基地が必要だ、という議論がもれ伝わってきているが、これこそ、際限ない軍備拡張のための 古くから使われてきた決め台詞であることに注意したい。
つまり、“代替が必要”という台詞を一旦許してしまうと、“代替の代替が必要”となり、そのまた“代替の代替の代替が要る”という際限ない拡張スパイラルに陥るのだ。そうなると沖縄中が基地にならなければ 満足できなくなる。
戦前の日本の際限ない軍事的拡張の背景には こういう考え方が横溢していたのは事実だ。つまり、明治初期には朝鮮半島が清の勢力圏にあることが日本にとっての、最大の脅威であると言い、ついに日清戦争を戦った。朝鮮半島が日本の勢力下に入れば 今度は中国と朝鮮国境付近の“安全”が 心配となり、日露戦争となり、それに勝利して一定の支配権を確保すると さらに東北地域・満州が日本の生命線となり満州事変へと進み、掠め取った権益を守るために中国奥地への戦線の拡大となって泥沼の日中戦争となった。
際限のない 不安感が 際限のない軍事的拡張へと、容易に転化して行ったのは歴史的事実なのだ。今の日本人は この単純な事実を完璧に忘却しているようだ。これは、つい 最近まで誰もが認識していた歴史的事実だが、今や相当な年配者ですら 安全保障上の不安感を口にする健忘症に陥っている。これを称して社会の右傾化などと言われているが、右傾化などではない、歴史的健忘症なのだ。これで 日本は進歩していると言えるのか。
日本の自衛隊が 運営上の不安が若干あるものの、世界的に見て既に相当な“戦力”となっているのは事実である。それでもなお不安があるというのは “核”を持たなければ不安だというところまでつながる。いずれ、“核”を持ったとしても 不安で仕方ない、となるのは間違いないのだ。一体、どこまで行けば安心するのか。
そういう心理が 世界中に過剰な核兵器が存在する原因であり、核拡散につながっているのだ。
一方、日本が核武装するとなれば、外交上の相当な不利益を被る問題を生じることを理解していない日本人が多すぎるように思うのだ。核武装すれば どうなるか。実際上の問題としては、先ずは、外交上の国際的孤立を招き、輸入に頼っている核燃料の全てが供給停止となり、原子力発電ができなくなる。そうなると直ちに エネルギー供給の国家的行き詰まりに直面することになる。そういう覚悟ができているのか。
では、今の日本人は一体どうすれば 安全保障上の安心感を手に入れることができるのか。
核攻撃が心配なのか。実は ミサイルによる核攻撃は どんなに高度な軍事技術を持ってしても防ぐことは不可能なのだ。ならば、各家庭、或いは公共施設に核攻撃に耐えるシェルターの建設と、その運用が現実的対策になるが、そのような声は一向に聞いたことがない。単に 米国の報復攻撃に ぼんやり期待しているだけなのだ。自分は被害を被っても後で米国がやっつけてくれる、そんなことで 安心なのか。
いや、それが核攻撃への抑止力なのだ、という。抑止力というのは、核攻撃しようと考える側が それを止めようと考える心理状況を生み出す力のことだが、そういう実体の無い 確実性の低い心理的なものに救いを求めているのが日本人一般の心理なのだ。
そういう意味で、核攻撃には、核シェルターの建設が実際的で確かな対応と思うが 一般の日本人は そうは思っていないのは滑稽だ。
核攻撃より、外国勢力による通常兵器による攻撃での上陸制圧が心配なのか。
これには、幸いにして日本は海洋に囲まれており、日本への上陸制圧を考えるとすれば、膨大な戦力が必要になると言われている。日本を攻める場合、補給も膨大となるが、そのような兵力・戦力を維持しつつ侵攻し、進駐し、軍政を維持できる国は周辺国のどこにもない、というのが これまた現実なのである。さらに日本の海上戦力は 周辺国の戦力をはるかに上回っているというのが 世界的常識である。
ならば 一般の日本人が日本の安全保障上の不安を口にするのは、一体 何を心配しているのか、実は 良く分からない。実態の無い “不安”ではないのか。
実態のない不安に怯え、その結果、米国の影響力に全面的に頼るのか。或いは 沖縄の人々にだけ生活上の不安、いや現実的な危険を負担してもらっていてよいのか。日本の国民の一部だけに強烈な負担を強いることが、日本の国防の本質なのか。普天間の代替のため自然破壊して、辺野古基地を拡充することに意味があるのか。
一般の日本人の意識は、極めて 無責任な意識ではないか。
なるほど、現実的には 現状の自衛隊の戦力は 国力にふさわしい規模であるような気がするし、法的拘束や規制でがんじがらめ状態とは言え、周辺国との多少の紛争には十分には耐えられそうであるというのは心強い限りであるし、それがあるから、周囲の変な国への抑止力にはなっていると見れる。中国のオンボロ原潜が 日本領海に迷い込んだ時、それを徹底的に哨戒した海上自衛隊の装備と運用力は 抑止力そのものであったと言える。
日本の防空も 冷戦時代以来、ソ連の脅威に対し十分なスクランブルで対応した。今や ロシアには アジアへの関心は薄く、北朝鮮はもとより、中国にすら 日本を圧倒する空軍力は未だないと見てよいはずだ。
その自力の抑止力を さらに補強しているというのが 日米同盟であり、安保条約であると考えるのが 常識的理解であろう。
そういう現状で 米軍のグワムへの移転後退時に 市街地内の危険な普天間基地の代替基地が必要だというのは 非常に理解し難い話だ。まして これが 日米友好の大きな障害になるという見解は 全く理解できない。日米同盟における チョットした相互理解のミス・マッチではないのか。小さな問題ではないのか。
自民党時代に合意したことを、民主党政権が 見直すということは あって良いことだ。政権が変わると 外交政策が変化するというのは しばしば国際的にも見られる現象だ。現に京都議定書の策定時に、米国の副大統領ゴアが日本に誓約させた上で、これを批准しなかった、ということがあるではないか。
グワムへの撤退ならば、普天間閉鎖でよいのではないか。代替がどうしても 必要だというのなら、嘉手納代替でよいではないか。撤退が前提なのだから、沖縄の負担が増えるとは考えにくい。嘉手納統合案は 元々米側の案にもあったと言うではないか。嘉手納では米空軍と海兵隊の共同運用が上手くできない、というのはどういうことなのだろうか。
沖縄防空の第一義的任務を持つ航空自衛隊は 民間の那覇空港に 共存駐屯してスクランブル対応しているが、運用上の問題は聞いたことがない。(実は あるのかも知れないが、何とかやっているのだろう。ならば航空自衛隊が嘉手納を使わせてもらう方が 日本の防空には有効なのかも知れない。) とにかく、米軍は 航空管制が不器用で、下手なので自信が無いのだろうか。
どうしても 代替が必要だと 言うのなら 硫黄島もあるではないか。それこそ、嘉手納攻撃に対する代替とできるのではないか。むしろ嘉手納付近より遠くの方が 良いではないか。無人島はダメなのか。攻撃をうけるような戦時に何を 贅沢なことを想定しているのか。
冷静に 周辺国との戦力比較を行い、自分たちのポジショニングを認識し、その中で なすべきことを理解するという 理性的な対応をしなければ、軍事的問題を 合理的に解決はできない。感覚的な不安感だけで判断していると、とんでもない一方的な軍備拡張に力を与えることとなるだろう。
リスク対応には 必ずトレードオフの問題があり、それを 冷静に見極めて、バランスを取る事が重要なのだ。特に、軍事問題は 相手のあることであり、相手との相対的位置関係を正確に理解しなければ 的確な解は得られない。
国防問題は まさしくリスク問題なのだ。そういう視点が 日本人に欠けているのは 極めて危険なことのように思うのだが、いかがだろうか。ここで述べた、私の事実認識に 誤りがあるのだろうか・・・。
普天間基地移転に関連して、嘉手納基地が攻撃された時の代替基地が必要だ、という議論がもれ伝わってきているが、これこそ、際限ない軍備拡張のための 古くから使われてきた決め台詞であることに注意したい。
つまり、“代替が必要”という台詞を一旦許してしまうと、“代替の代替が必要”となり、そのまた“代替の代替の代替が要る”という際限ない拡張スパイラルに陥るのだ。そうなると沖縄中が基地にならなければ 満足できなくなる。
戦前の日本の際限ない軍事的拡張の背景には こういう考え方が横溢していたのは事実だ。つまり、明治初期には朝鮮半島が清の勢力圏にあることが日本にとっての、最大の脅威であると言い、ついに日清戦争を戦った。朝鮮半島が日本の勢力下に入れば 今度は中国と朝鮮国境付近の“安全”が 心配となり、日露戦争となり、それに勝利して一定の支配権を確保すると さらに東北地域・満州が日本の生命線となり満州事変へと進み、掠め取った権益を守るために中国奥地への戦線の拡大となって泥沼の日中戦争となった。
際限のない 不安感が 際限のない軍事的拡張へと、容易に転化して行ったのは歴史的事実なのだ。今の日本人は この単純な事実を完璧に忘却しているようだ。これは、つい 最近まで誰もが認識していた歴史的事実だが、今や相当な年配者ですら 安全保障上の不安感を口にする健忘症に陥っている。これを称して社会の右傾化などと言われているが、右傾化などではない、歴史的健忘症なのだ。これで 日本は進歩していると言えるのか。
日本の自衛隊が 運営上の不安が若干あるものの、世界的に見て既に相当な“戦力”となっているのは事実である。それでもなお不安があるというのは “核”を持たなければ不安だというところまでつながる。いずれ、“核”を持ったとしても 不安で仕方ない、となるのは間違いないのだ。一体、どこまで行けば安心するのか。
そういう心理が 世界中に過剰な核兵器が存在する原因であり、核拡散につながっているのだ。
一方、日本が核武装するとなれば、外交上の相当な不利益を被る問題を生じることを理解していない日本人が多すぎるように思うのだ。核武装すれば どうなるか。実際上の問題としては、先ずは、外交上の国際的孤立を招き、輸入に頼っている核燃料の全てが供給停止となり、原子力発電ができなくなる。そうなると直ちに エネルギー供給の国家的行き詰まりに直面することになる。そういう覚悟ができているのか。
では、今の日本人は一体どうすれば 安全保障上の安心感を手に入れることができるのか。
核攻撃が心配なのか。実は ミサイルによる核攻撃は どんなに高度な軍事技術を持ってしても防ぐことは不可能なのだ。ならば、各家庭、或いは公共施設に核攻撃に耐えるシェルターの建設と、その運用が現実的対策になるが、そのような声は一向に聞いたことがない。単に 米国の報復攻撃に ぼんやり期待しているだけなのだ。自分は被害を被っても後で米国がやっつけてくれる、そんなことで 安心なのか。
いや、それが核攻撃への抑止力なのだ、という。抑止力というのは、核攻撃しようと考える側が それを止めようと考える心理状況を生み出す力のことだが、そういう実体の無い 確実性の低い心理的なものに救いを求めているのが日本人一般の心理なのだ。
そういう意味で、核攻撃には、核シェルターの建設が実際的で確かな対応と思うが 一般の日本人は そうは思っていないのは滑稽だ。
核攻撃より、外国勢力による通常兵器による攻撃での上陸制圧が心配なのか。
これには、幸いにして日本は海洋に囲まれており、日本への上陸制圧を考えるとすれば、膨大な戦力が必要になると言われている。日本を攻める場合、補給も膨大となるが、そのような兵力・戦力を維持しつつ侵攻し、進駐し、軍政を維持できる国は周辺国のどこにもない、というのが これまた現実なのである。さらに日本の海上戦力は 周辺国の戦力をはるかに上回っているというのが 世界的常識である。
ならば 一般の日本人が日本の安全保障上の不安を口にするのは、一体 何を心配しているのか、実は 良く分からない。実態の無い “不安”ではないのか。
実態のない不安に怯え、その結果、米国の影響力に全面的に頼るのか。或いは 沖縄の人々にだけ生活上の不安、いや現実的な危険を負担してもらっていてよいのか。日本の国民の一部だけに強烈な負担を強いることが、日本の国防の本質なのか。普天間の代替のため自然破壊して、辺野古基地を拡充することに意味があるのか。
一般の日本人の意識は、極めて 無責任な意識ではないか。
なるほど、現実的には 現状の自衛隊の戦力は 国力にふさわしい規模であるような気がするし、法的拘束や規制でがんじがらめ状態とは言え、周辺国との多少の紛争には十分には耐えられそうであるというのは心強い限りであるし、それがあるから、周囲の変な国への抑止力にはなっていると見れる。中国のオンボロ原潜が 日本領海に迷い込んだ時、それを徹底的に哨戒した海上自衛隊の装備と運用力は 抑止力そのものであったと言える。
日本の防空も 冷戦時代以来、ソ連の脅威に対し十分なスクランブルで対応した。今や ロシアには アジアへの関心は薄く、北朝鮮はもとより、中国にすら 日本を圧倒する空軍力は未だないと見てよいはずだ。
その自力の抑止力を さらに補強しているというのが 日米同盟であり、安保条約であると考えるのが 常識的理解であろう。
そういう現状で 米軍のグワムへの移転後退時に 市街地内の危険な普天間基地の代替基地が必要だというのは 非常に理解し難い話だ。まして これが 日米友好の大きな障害になるという見解は 全く理解できない。日米同盟における チョットした相互理解のミス・マッチではないのか。小さな問題ではないのか。
自民党時代に合意したことを、民主党政権が 見直すということは あって良いことだ。政権が変わると 外交政策が変化するというのは しばしば国際的にも見られる現象だ。現に京都議定書の策定時に、米国の副大統領ゴアが日本に誓約させた上で、これを批准しなかった、ということがあるではないか。
グワムへの撤退ならば、普天間閉鎖でよいのではないか。代替がどうしても 必要だというのなら、嘉手納代替でよいではないか。撤退が前提なのだから、沖縄の負担が増えるとは考えにくい。嘉手納統合案は 元々米側の案にもあったと言うではないか。嘉手納では米空軍と海兵隊の共同運用が上手くできない、というのはどういうことなのだろうか。
沖縄防空の第一義的任務を持つ航空自衛隊は 民間の那覇空港に 共存駐屯してスクランブル対応しているが、運用上の問題は聞いたことがない。(実は あるのかも知れないが、何とかやっているのだろう。ならば航空自衛隊が嘉手納を使わせてもらう方が 日本の防空には有効なのかも知れない。) とにかく、米軍は 航空管制が不器用で、下手なので自信が無いのだろうか。
どうしても 代替が必要だと 言うのなら 硫黄島もあるではないか。それこそ、嘉手納攻撃に対する代替とできるのではないか。むしろ嘉手納付近より遠くの方が 良いではないか。無人島はダメなのか。攻撃をうけるような戦時に何を 贅沢なことを想定しているのか。
冷静に 周辺国との戦力比較を行い、自分たちのポジショニングを認識し、その中で なすべきことを理解するという 理性的な対応をしなければ、軍事的問題を 合理的に解決はできない。感覚的な不安感だけで判断していると、とんでもない一方的な軍備拡張に力を与えることとなるだろう。
リスク対応には 必ずトレードオフの問題があり、それを 冷静に見極めて、バランスを取る事が重要なのだ。特に、軍事問題は 相手のあることであり、相手との相対的位置関係を正確に理解しなければ 的確な解は得られない。
国防問題は まさしくリスク問題なのだ。そういう視点が 日本人に欠けているのは 極めて危険なことのように思うのだが、いかがだろうか。ここで述べた、私の事実認識に 誤りがあるのだろうか・・・。
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