The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“東大安田講堂事件” に思う
先日、テレビ番組で、東大紛争について ほぼ当時の事件の経過を再現させる ノスタルジックなドキュメンタリーをやっていた。そう言えば あの事件は 約40年前の今頃だったのだ。東大入試が 無くなって当時の受験生だった私には被害甚大だった。東大が 無くなって 東大受験生が 京大に殺到し、京大受験生が・・・・という訳で 困った事態だったのだ。
最初から見なかったので、この番組の意図は よく分からないままであるが、果たしてこの事件の反省を この国の人々は 行わなかったのではないか、フト気付いたのだ。
やっぱり、番組の終わりに あの事件は何だったのか、ということに話題の焦点は移ったが オチャラケ番組の常か、真剣に掘り下げて 結論を出そうとはしていなかった。
当時の機動隊の 最高指揮官だった元警察官僚は ニヤニヤ笑いながら “今の 若者に 熱いものが 無いのは残念だ。”というような言葉を 何のてらいも無く吐いていた。
だが、実は あの事件は “日本のアカデミズムや知性に非常に深刻なダメージを与えた”ことに誰も気付いていないのではないか、との思いに至ったのだ。
日本社会は あの事件についても 分析し、反省しなかった。あれは 何だったのか。
東大の安田講堂は 日本のインテリジェンスの象徴だった。その頂点だった。それを あのような形で むき出しの権力的暴力によって、破壊してしまったのだ。当時の若者の真面目な“異議申し立て”を 一方的に封殺することによって、“思考停止”の風潮を日本に蔓延させたのだ。
この見解は、当時も一部の識者には あったように思うが、一般的には無視された。
何故、無視されたのかは 分からない。 “東大の欺瞞性”を 明らかにしたくなかったのかも知れない。
“日常を拒否” することで、その“日常の裏側のインチキ” を分析し、抉り出して見せようとした 若者の“熱い思い”を 暴力で封殺したのだ。あたかも“思慮深い”東大の教授陣が、表面上暴力的に見える学生の異議申し立てを、卑怯にも警察力を差し向けて封じ込めたのだ。“痩せたソクラテス”は 実は、相当に政治的であり権力的暴力的であったのだ。一般の人々はそのことに気付くべきであった。しかし、時の権威者達は 気付かせないように“日常を取り戻す”という安易な方法で 乗り越え、実態を糊塗したのだ。
暴力で始末された 当時の若者は 大人達のそういう態度に呆れ、疲れ、楽な “日常に戻った”のだった。
その結果、日本の知性は “私的”なものに矮小化された痴性に堕したのだ。つまり、思考基準が “自分さえ良ければ それで良い”、それが、“他人は どうでも良い” という思いに進んで行ったのではないか。
それは、今日の日本の 悪しき風潮に 符合していないか。
このような暴力的な精神の下、議論を尽くさないところには高邁な哲学や思想は生まれない。哲学や思想のないところに奥行きのある学芸はありえない。哲学や思想のないところに社会科学も育たない。この方面の日本のアカデミズムは消滅したのだ。だから、日本の経済学はいつまで経っても借り物なのに違いない。日本には似非経済学者の如何に多いことか。このような連中が 日本の政策を左右しているのだ。強靭に鍛えられた自己の思想・哲学が無いのだ。
東大は 官僚エリートの学校だ。今の 官僚の 精神的堕落は ここから始まっていないか。
いや、日本の知性の堕落の始まりだったに違いない。
日本社会は あの事件についても 分析し、反省しなかった。何より 語るべき東大人が 今もって進んで語ろうとしない。
東大人はそもそも権力的なのかも知れない。それなりの矜持すら持てないのか。
あの 甚大な被害を被った戦争についてすら、真剣に分析し、反省しないのだから、東大安田講堂事件など 無視しうる事件なのだ。取るに足らないことなのだ。
反省しない 社会に進歩は 無い。PDCAが出来ないところに 継続的改善は 無い。
今や “試行錯誤”は アホバカのすることらしいが、錯誤して反省しなければ、同じ 失敗ばかり繰り返す、愚の骨頂なのだ。アホバカ未満なのだ。
ダカラ 反省の無い 人間は とめどもなく 堕落するのだ。日本は 何も考えずに墜落して行く閉塞社会なのか。
今の 日本は あの戦争前の日本と 極めて相似していると 言うではないか。一度破滅しても 反省しないのか。日本には、滅亡しかないのか。死んでも 直らないのか。
最初から見なかったので、この番組の意図は よく分からないままであるが、果たしてこの事件の反省を この国の人々は 行わなかったのではないか、フト気付いたのだ。
やっぱり、番組の終わりに あの事件は何だったのか、ということに話題の焦点は移ったが オチャラケ番組の常か、真剣に掘り下げて 結論を出そうとはしていなかった。
当時の機動隊の 最高指揮官だった元警察官僚は ニヤニヤ笑いながら “今の 若者に 熱いものが 無いのは残念だ。”というような言葉を 何のてらいも無く吐いていた。
だが、実は あの事件は “日本のアカデミズムや知性に非常に深刻なダメージを与えた”ことに誰も気付いていないのではないか、との思いに至ったのだ。
日本社会は あの事件についても 分析し、反省しなかった。あれは 何だったのか。
東大の安田講堂は 日本のインテリジェンスの象徴だった。その頂点だった。それを あのような形で むき出しの権力的暴力によって、破壊してしまったのだ。当時の若者の真面目な“異議申し立て”を 一方的に封殺することによって、“思考停止”の風潮を日本に蔓延させたのだ。
この見解は、当時も一部の識者には あったように思うが、一般的には無視された。
何故、無視されたのかは 分からない。 “東大の欺瞞性”を 明らかにしたくなかったのかも知れない。
“日常を拒否” することで、その“日常の裏側のインチキ” を分析し、抉り出して見せようとした 若者の“熱い思い”を 暴力で封殺したのだ。あたかも“思慮深い”東大の教授陣が、表面上暴力的に見える学生の異議申し立てを、卑怯にも警察力を差し向けて封じ込めたのだ。“痩せたソクラテス”は 実は、相当に政治的であり権力的暴力的であったのだ。一般の人々はそのことに気付くべきであった。しかし、時の権威者達は 気付かせないように“日常を取り戻す”という安易な方法で 乗り越え、実態を糊塗したのだ。
暴力で始末された 当時の若者は 大人達のそういう態度に呆れ、疲れ、楽な “日常に戻った”のだった。
その結果、日本の知性は “私的”なものに矮小化された痴性に堕したのだ。つまり、思考基準が “自分さえ良ければ それで良い”、それが、“他人は どうでも良い” という思いに進んで行ったのではないか。
それは、今日の日本の 悪しき風潮に 符合していないか。
このような暴力的な精神の下、議論を尽くさないところには高邁な哲学や思想は生まれない。哲学や思想のないところに奥行きのある学芸はありえない。哲学や思想のないところに社会科学も育たない。この方面の日本のアカデミズムは消滅したのだ。だから、日本の経済学はいつまで経っても借り物なのに違いない。日本には似非経済学者の如何に多いことか。このような連中が 日本の政策を左右しているのだ。強靭に鍛えられた自己の思想・哲学が無いのだ。
東大は 官僚エリートの学校だ。今の 官僚の 精神的堕落は ここから始まっていないか。
いや、日本の知性の堕落の始まりだったに違いない。
日本社会は あの事件についても 分析し、反省しなかった。何より 語るべき東大人が 今もって進んで語ろうとしない。
東大人はそもそも権力的なのかも知れない。それなりの矜持すら持てないのか。
あの 甚大な被害を被った戦争についてすら、真剣に分析し、反省しないのだから、東大安田講堂事件など 無視しうる事件なのだ。取るに足らないことなのだ。
反省しない 社会に進歩は 無い。PDCAが出来ないところに 継続的改善は 無い。
今や “試行錯誤”は アホバカのすることらしいが、錯誤して反省しなければ、同じ 失敗ばかり繰り返す、愚の骨頂なのだ。アホバカ未満なのだ。
ダカラ 反省の無い 人間は とめどもなく 堕落するのだ。日本は 何も考えずに墜落して行く閉塞社会なのか。
今の 日本は あの戦争前の日本と 極めて相似していると 言うではないか。一度破滅しても 反省しないのか。日本には、滅亡しかないのか。死んでも 直らないのか。
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