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蓮華寺と崇導神社を拝観して

独裁者をそう呼んだら問題なのか?バイデン大統領が習近平主席をそう呼んだのだという。だけど何が問題なのか。国民による普通選挙の無い国家の政治指導者は、独裁者だろう!それが政治学上の定義になる。
彼らは昔はプロレタリア独裁と胸を張った。最近は“中国式民主主義”だと言っているらしい。何でも“中国式”と言えば済む。高速鉄道も日本の技術を盗んで“中国式”。だけど大事故を起こした。ジェット戦闘機もロシアの技術を盗んで“中国式”。だけどスキージャンプの空母発進ではミサイルや爆弾を満載しては飛び立てないらしい。 しかも、雨が降ると飛ぶのを避けるらしい。 

さすがの栄華を誇った“中国式”もそろそろ限界か?お金持ちの国外逃亡多数。ならばキャピタル・フライトも甚大? 元々エンピツ舐めたGDPも怪しい。企業収益20%以上落ち込んでいるらしい。若者の失業率も20%超。これもエンピツ舐めの数字?ならば実態は50%超?不動産価格の下落で、地方政府の財政も火の車を通り越しているらしい。まして中央政府おや!!
それにもかかわらず、中国政府は対策らしい対策を打ち出していない。如何に素人政府なのかが明らかになって来ているのではないか。 



さて、今回も“お散歩”報告。今度は、鎌田浩毅教授の最終講義で京都の古刹で是非行って見るべきところとして蓮華寺を推奨していたので、その内行って見たいと思っていたのだが、この度、例によって午後の研修会があったので、午前に行ってみることにしたのだ。実は、本当は丸一日、蓮華寺から修学院離宮、曼珠院、詩仙堂、芭蕉庵、一乗寺下り松・宮本武蔵・吉岡道場決斗の地を巡る一日コースを目指したのだが、修学院離宮は予約が必要と判って、計画が崩壊した。そこで、単発計画の蓮華寺だけでも行ける時に行っておこうと、行くことにしたのだった。修学院離宮も含めて曼珠院、芭蕉庵に、蓮華寺から奥の叡山電鉄終点・比叡山入口駅の近くにある瑠璃光院も居れていずれまた計画を練り直そうと思っている。(詩仙堂、一乗寺下り松・宮本武蔵・吉岡道場決斗の地はかつて訪れている。)

蓮華寺(れんげじ)についてWikipediaによれば次のようである。
蓮華寺は京都市左京区にある天台宗の寺院。山号は帰命山(きみょうざん)。近世初期に造営された池泉鑑賞式庭園によって知られる。
蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、比叡山を間近に望む、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものである。

阪急・烏丸で地下鉄に乗り換え、終点・国際会館で京バスに乗り換え、上橋(かんばし)で下車。バス停を少し戻ると、北側に入り込む小路があり、その左側に立て札がある。そこに蓮華寺の由来についての次の記述があった。

寛文年間(1661~1673)に加賀前田家家臣今枝重直(いまえだしげなお)が出家して、この地に一宅を構えて居住し、石川丈山(いしかわじょうざん)や狩野探幽(かのうたんゆう)らと交流を深めながら晩年を過ごした。重直の徳を弔うため、七條塩小路にあった寺をこの地に移し、延暦寺実蔵坊(えんりゃくじじつぞうぼう)の末寺としたといわれる。
本堂には、本尊の釈迦如来を安置し、美しい苔で覆われる境内には、六角形の笠を持つ珍しい形の蓮華寺型灯篭や、石川丈山の篆額(“てんがく”[石碑上部の篆書の題字]が本来だが“へんがく”[門戸や室内などに掲げる横に長い額]とルビ)と木下順庵(きのしたじゅんあん)の撰文(せんぶん)による重直の碑がある。
池には鶴石(つるいし)、亀島(かめしま)を配した庭園は石川丈山の作といわれ、江戸時代の名園の一つで、紅葉の名所でもある。

“紅葉の名所”とあるが、恐らくは新緑も良いハズ、と思ってやって来たが、その通りであった。国道367号沿いにあるが、一歩奥まっているためか、非常に静かである。
僧侶が受付してくれた。だが、人手がないせいか拝観の注意事項、屋内撮影不可などの説明はあったが、それ以上の案内はない。まぁ気楽で良いか。
庭はには作為は全く感じられず、自然のままのような印象で、むしろ手入れの行き届いた苔の緑が美しい。奥には池がある。当然のように錦鯉がのんびりしている。離れには本堂があり、本像が安置されている。本堂を巡り、庫裏に戻る。しばらく、庫裏内の池の傍で過ごす。
現代人のサガか、少しノンビリすると、もういたたまれなくなり、立ち上がって、辞去の準備。受付には先ほどの僧侶はもう居なかった。
また紅葉時には訪れてみたいものだ。



蓮華寺を出て、東側の崇道神社 (すどうじんじゃ)の拝観を目指す。
崇道神社(すどうじんじゃ)は、Wikipediaによれば次のようである。
崇道神社は、京都市左京区上高野にある神社である。社格は旧村社。
社伝によれば、785年(延暦4年)9月長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年~877年)に創建されたという。1915年(大正4年)に近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の3社が合祀された。 近年[いつ?]パワースポットとして人気が出ている神社でもある。
小野神社は小野一族を祀る。境内の山中に祭神である小野毛人の墓がある。

小野毛人の墓の立て札もあり、次のように書かれていた。
小野毛人(えみし)墓・天武朝の官僚であった小野毛人は、最初の遣隋使小野妹子の子で、天武6年(677)に没したとされる。
軽重8年(1613)、崇導神社境内の上高野一帯を見渡す山腹の墓から鋳銅製の墓誌が発見され、この墓が小野毛人を埋葬したものであることが明らかとなった。大正3年(1914)、墓誌は国宝に指定され、現在京都国立博物館に保管されている。
墓は対象3年に調査され、その結果、板石で作られた石室は長さ約2.5メートル、幅及び高さ共約1メートル、当初は封土が施されていたものとみられる。
この墓は、市内に残る奈良時代前期の数少ない遺跡であり、当時の墓制を知るうえでも貴重なものであることから、昭和59年6月1日京都市指定史跡に指定された。

最初の一の鳥居から緩い坂道を登って行くと、直ぐに二の鳥居になり、ひと気は全くない。さらに境内を入って行くと右手が広場になっており、祭りなどには屋台や店が出るのだろうと想像される。ここに湧き水が筧を通して絶えず流れ落ちていた。これが“行者の水”。
一応、本宮にお参りし、辞去。



目の前に東の比叡山方向から高野川が西に流れている。この高野川は京都市左京区と滋賀県大津市の境に位置する途中(とちゅう)峠の南部に源を発している、という。その北側の右岸に沿って国道367号が走っており、京都バスの路線が大原まで行っている。

その国道と高野川を人道橋で渡り、叡山電鉄の踏切も渡り、対岸の集落へ入った。集落の道を道なりに西進すると、三宅八幡駅脇の踏切へ自ずと至る。そこから昼食を摂るために食堂たかのを目指す。



食堂たかのでは、天ぷら定食を頼んだ。十分に満腹。



昼食後食堂を出て、一気に市バスで四条烏丸へ向かうより、叡山電鉄で出町柳に出て、そこから市バスで四条烏丸に向かう方が面白そうなので、三宅八幡駅で電車待ちすることにした。無人駅だがホームでPitapa カードをON。やって来た電車を見てビックリ!車体前面全面に楕円の金の輪を付けた電車がやって来たのだ。特殊車両なので通過するかと思ったら、停車しドアが開いた。思わず乗り込んだが、車窓は全て楕円形。乗り心地は良い。そのまま出町柳へ。
出町柳では市バスの停留所が遠方に分散していて分かり難いのには大いに閉口した。京都市は観光に力を入れるというのなら、市当局は早急に改善して欲しい。

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