鍾乳洞の奥はその入口からは想像もできないほど広くかつ深い。一説に、その底は富士山まで伸びているとも言う。この地に住み着いて以来、崇海もその底を極めたことは無かったが、今、入口より百間ばかり奥に潜む崇海の心は、その底よりも深く暗い穴を穿ち、富士山の下でたぎる溶岩よりも熱くおどろおどろしい怒りと屈辱の膿で溢れんばかりになっていた。
(このわしが、あんな若造の詐術に引っかかるとは!)
崇海は、鬼童が究極の結界、鬼門遁甲八陣の法を操るほどに長けた術者であることを、見抜けなかった自分に腹を立てていた。だが実際、あの八陣から逃れられたのは僥倖と言うより無かった。口でこそあのような強弁を繰り返してはいたものの、その肝の冷えようは富士山頂の冠雪よりも冷たく縮こまっていたのである。崇海から少し離れたところで、鎧武者が甲冑を着たまま横たわっていた。結界崩壊の衝撃から崇海を守り、全身傷だらけになった身は、薄暗い灯火の揺れる明かりの下でも手ひどい有り様がよく判った。さっそく崇海は回復の法を施したが、所々いかつい甲冑は破壊され、その隙間からのぞく傷はぱっくりと口を開いて裂けた肉を露出していた。また、骨を粉砕された左腕は、しばらくの間使いものになりそうにない。
(時間を稼がねばならぬ。一刻でいいのだ。それまでは何としても凌がないと)
崇海は、恐らく鬼童等がこちらに向かっているだろうことを確信していた。途中いくつか結界を施してはおいたが、相手の力量が判った今、それらがあまり足止めに役立ちそうにないことが、崇海の気持ちを苛立たせた。
(せっかく徐福の結界を破壊できる方法が知れたのだ。このまま、やられてなるものか!)
崇海は、八陣すらあっさりと破壊した草薙の剣の力に魅入られていた。これまでちゃんと力を発揮させることができるかどうか、不安もあって使わずに済ませてきたが、これなら自分が苦労の末遂に破れなかった徐福の結界も、突き崩すことができそうではないか。そのためには剣を扱えるこの男を復活させるための時間を、何としても稼がねばならないのだ。
(そのためには、こいつにももう一働きしてもらうとするか)
祟海の視線の先に、横幅だけは鎧武者とそう変わらない死体が一つ転がっていた。始末する余裕もなく怒りに駆られて駆け出したために残ったものだが、今となっては、これが実に貴重な札となりそうだった。
(始めるとするか)
祟海は、二人目の死人を蘇らせるべく動き始めた。いよいよ術を施そうという時、傍らの祭壇に立ててあった蝋燭の一本が、その炎をゆらゆらと震えさせたかと思うと、一瞬明るく輝いて、すっと消えた。
「奴らめ、やって来たか」
結界の状態を示す蝋燭は未だ三本残っていたが、これが消えてしまうまでに、この死体、かつて八条雅房と名乗った脂身に、新しい命とそれをつき動かす非情な悪夢とを植え付けなければならないのだ。
「こいつなら生への執着もまずまずだったから、失敗することもあるまいて」
祟海は慣れた手つきで、八条の身体に呪文を書き始めた。
「かぁあっ!」
シャン! 円光の気合い一閃、突き出された錫杖が見事結界の焦点を射貫き、ねじれた空間がよりを戻した。そこには、これまでと変わり無い森があるばかりである。
「お見事!」
鬼童が感嘆の声を上げると、榊も手を叩いて喜んだ。榊は生涯数多の合戦に身を投じたが、今日ほど不安を掻き立てられたことも、この二人ほどたのもしい男達を見たこともなかった。特に今の二人の息の合い様には見事なものがある。まず、円光が辺りを支配する不穏な空気を察知する。程なく前方の風景が奇妙にゆがみはじめ、乳白色の粘性を帯びた霧が、ゆがんだ木々をその中に沈めだした。すかさず鬼童が指南盤を取り出し、乱れの焦点を割り出して円光に知らせた。円光は迷わずその方角に突進して霧に飲まれたと思うと、円光の気が爆発し、正常に戻った森に錫杖を抱えた円光が立っていた。榊は、二人があの滝で初対面したとは到底信じられなかった。幼なじみでもこうはいかぬという絶妙の呼吸に、榊は前世の因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
(この二人に関わって訳のわからん相手とやり合う羽目になったこのわしも、やはり何かの因縁なのだろうか)
二人のような特殊能力も無く、武将としてごく真っ当な道を歩んできた積もりの初老にとって、二人との行動は新鮮な刺激に満ち溢れている。榊は、日頃の常識が快く崩壊する驚きに、心身確かに若やいでいくように思えるのだ。
(勝負は時の運だ。しかし、今回は分がある)
榊は確かな手応えを感じ、心が躍るのを抑えることが出来なかった。
ただ、更なる罠を警戒しながらの道行きは、どうしても遅くならざるを得なかった。月ははっきりと西に傾き、草木もじっと眠り込んでいるかのように静かである。七人がさらに二つの結界を乗り越え、鍾乳洞の前の広場に着いた時、その静けさはこれから始まる修羅場のことなどまるで知らないかのように、月光だけに満たされていた。
(このわしが、あんな若造の詐術に引っかかるとは!)
崇海は、鬼童が究極の結界、鬼門遁甲八陣の法を操るほどに長けた術者であることを、見抜けなかった自分に腹を立てていた。だが実際、あの八陣から逃れられたのは僥倖と言うより無かった。口でこそあのような強弁を繰り返してはいたものの、その肝の冷えようは富士山頂の冠雪よりも冷たく縮こまっていたのである。崇海から少し離れたところで、鎧武者が甲冑を着たまま横たわっていた。結界崩壊の衝撃から崇海を守り、全身傷だらけになった身は、薄暗い灯火の揺れる明かりの下でも手ひどい有り様がよく判った。さっそく崇海は回復の法を施したが、所々いかつい甲冑は破壊され、その隙間からのぞく傷はぱっくりと口を開いて裂けた肉を露出していた。また、骨を粉砕された左腕は、しばらくの間使いものになりそうにない。
(時間を稼がねばならぬ。一刻でいいのだ。それまでは何としても凌がないと)
崇海は、恐らく鬼童等がこちらに向かっているだろうことを確信していた。途中いくつか結界を施してはおいたが、相手の力量が判った今、それらがあまり足止めに役立ちそうにないことが、崇海の気持ちを苛立たせた。
(せっかく徐福の結界を破壊できる方法が知れたのだ。このまま、やられてなるものか!)
崇海は、八陣すらあっさりと破壊した草薙の剣の力に魅入られていた。これまでちゃんと力を発揮させることができるかどうか、不安もあって使わずに済ませてきたが、これなら自分が苦労の末遂に破れなかった徐福の結界も、突き崩すことができそうではないか。そのためには剣を扱えるこの男を復活させるための時間を、何としても稼がねばならないのだ。
(そのためには、こいつにももう一働きしてもらうとするか)
祟海の視線の先に、横幅だけは鎧武者とそう変わらない死体が一つ転がっていた。始末する余裕もなく怒りに駆られて駆け出したために残ったものだが、今となっては、これが実に貴重な札となりそうだった。
(始めるとするか)
祟海は、二人目の死人を蘇らせるべく動き始めた。いよいよ術を施そうという時、傍らの祭壇に立ててあった蝋燭の一本が、その炎をゆらゆらと震えさせたかと思うと、一瞬明るく輝いて、すっと消えた。
「奴らめ、やって来たか」
結界の状態を示す蝋燭は未だ三本残っていたが、これが消えてしまうまでに、この死体、かつて八条雅房と名乗った脂身に、新しい命とそれをつき動かす非情な悪夢とを植え付けなければならないのだ。
「こいつなら生への執着もまずまずだったから、失敗することもあるまいて」
祟海は慣れた手つきで、八条の身体に呪文を書き始めた。
「かぁあっ!」
シャン! 円光の気合い一閃、突き出された錫杖が見事結界の焦点を射貫き、ねじれた空間がよりを戻した。そこには、これまでと変わり無い森があるばかりである。
「お見事!」
鬼童が感嘆の声を上げると、榊も手を叩いて喜んだ。榊は生涯数多の合戦に身を投じたが、今日ほど不安を掻き立てられたことも、この二人ほどたのもしい男達を見たこともなかった。特に今の二人の息の合い様には見事なものがある。まず、円光が辺りを支配する不穏な空気を察知する。程なく前方の風景が奇妙にゆがみはじめ、乳白色の粘性を帯びた霧が、ゆがんだ木々をその中に沈めだした。すかさず鬼童が指南盤を取り出し、乱れの焦点を割り出して円光に知らせた。円光は迷わずその方角に突進して霧に飲まれたと思うと、円光の気が爆発し、正常に戻った森に錫杖を抱えた円光が立っていた。榊は、二人があの滝で初対面したとは到底信じられなかった。幼なじみでもこうはいかぬという絶妙の呼吸に、榊は前世の因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
(この二人に関わって訳のわからん相手とやり合う羽目になったこのわしも、やはり何かの因縁なのだろうか)
二人のような特殊能力も無く、武将としてごく真っ当な道を歩んできた積もりの初老にとって、二人との行動は新鮮な刺激に満ち溢れている。榊は、日頃の常識が快く崩壊する驚きに、心身確かに若やいでいくように思えるのだ。
(勝負は時の運だ。しかし、今回は分がある)
榊は確かな手応えを感じ、心が躍るのを抑えることが出来なかった。
ただ、更なる罠を警戒しながらの道行きは、どうしても遅くならざるを得なかった。月ははっきりと西に傾き、草木もじっと眠り込んでいるかのように静かである。七人がさらに二つの結界を乗り越え、鍾乳洞の前の広場に着いた時、その静けさはこれから始まる修羅場のことなどまるで知らないかのように、月光だけに満たされていた。