かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

05.襲撃 その2

2008-03-15 21:56:48 | 麗夢小説『麗しき、夢』
 くそっ、何でこの女は判ろうとしないのだ? おこ者が! 八条は、自分の舌足らずは棚に上げて、目の前の娘の愚鈍さを呪った。都では当たり前な物言いが一向に通じない。いっそのことその呆けた口に両手を突っ込み、用をなさぬ舌を引き抜いてやりたいと八条は思った。そこを辛うじて越えられたのは、ひとえにまだ見ぬ娘への興味が怒りを上回っていたからである。八条としては一生分の忍耐を使い果たしたような気持ちで、もう一度娘に問い直した。
「その娘は美しいのか、と聞いておるのじゃ!」
「何だ、そんなことが聞きたかったのか!」
 娘はようやく八条の言いたいことを理解した。何だ、そんなことならもっと初めからはっきり言えばいいのに。娘も八条流の物言いに文句をつぶやいた。娘としても、八条と対するのは相当に忍耐を要求されることだったのである。
 一方八条は、娘のあけすけな言い方に一種の気後れを感じていた。自分がたとえ田舎者相手とはいえあのようにはしたない物言いをしたことに、少しばかり後味の悪さを憶えていたのである。その天性の明るさに何か馬鹿にされているような気がして、八条は憮然と答えた。
「そうじゃ」
「ふーん、あの娘が別嬪かどうかねえ。鬼童さんとか言った色男は、天女だ、絶世の美女だとか頻りにほめてなさったが、わしゃああんな青っちょろい、目の大きな女がそれほど美しいとは思えなんだなあ・・・」
 それに、と娘はなおも自分の感想を述べようと舌をふるったが、もはや八条にそれを聞く忍耐は残っていなかった。
「もう良い、早々にその娘をここへ呼んで参れ!」
「でも・・・」
「うるさい! まろが呼べといったら、黙ってさっさと連れてくるのじゃ! 判ったか!」
「はいはい・・・」
 娘はなおも未練げに八条を振り返ったが、八条は見知らぬ人を見た番犬のように歯を怒らせて娘をにらみつけた。しかし、八条は肩をすくめて部屋を飛び出した娘の言うことを、あるいは聞いておくべきだったかも知れない。娘はこう言いたかったのだ。
「あの子にはきっと想い人が居るよ。あんたがいくら言い寄ったって、無駄だよ」
 もっとも八条がその諌言を素直に受け入れたかどうかは、大いに疑問ではあったが。
 ともかくもしばらくして娘は、八条の言いつけを忠実に実行した。八条はそのまま外で待つように娘に伝えさせ、悠々と着替えに小半時をかけた。十分威儀は整ったと何度も確かめた後、八条はようやく最上の暇つぶしに取りかかったのだった。
 八条は当然の如く上座に腰を据え、少女に入ってくるよう言い渡した。
「苦しゅう無いぞ、ささ、近う、近う」
 少女は、呼びに来た娘の少し心配げな視線と、八条に直射した非難の表情とを追い風に、しずしずと部屋に流れ込んだ。
 微妙に伏せた少女の顔は八条からは見えなかったが、その豊かな緑の黒髪と汚れ無き白魚の指の配色は、否応もなく八条の期待を膨らませた。下女と同様の質素で色柄も乏しい衣装は、ここで借り受けたものであろう。八条としては是非朱の色も鮮やかな女房装束も所望したいところだったが、それはまた後の楽しみに取っておくことにして、鬼童が絶賛したという少女の美しさを楽しむことにした。
「苦しゅう無いぞ、面を上げい」
 少女はゆっくりと顔を上げた。
(おおっ)
 八条はその大きな二つの宝玉の美しさに魅了された。潤いときらめきを兼ね備えた生きた宝玉、瞳の黒さは一点の曇りもなく底無き深淵が人を引きずり込まずにはいられないようであり、八条は見つめられただけで気を失わんほどな喜びを覚えた。美女というとあちらの女御、こちらの姫君と評判高い花々を八条も目にしてはいたが、それによって養われた八条の審美眼は、その美女達をこの一顧で色あせた過去の遺物に整理してしまったのである。
「名は、名は何と申す」
「麗しき夢、と書いて、麗夢と申します」
 八条は、かすかに動くその唇が、快感を引き起こすなまめかしい別の生き物のように感じられた。
「麗夢か、良い名じゃの」
 八条を金縛った漆黒の瞳が、名乗りと共に再び伏せった。八条は救われたような、もの足りぬような気持ちで話し始めた。
「まろは、五位判官代の八条雅房じゃ。こたびはもったいなくも勅命を賜り、平氏残党追捕の任を帯びてこの地にまかり越した。その途上、まろは行き倒れて命旦夕にあったそちに出会い、ここまで運んで助けて取らせた。つまり文字通りまろは、そちにとっては命の恩人と言うべき者である」
「それはかたじけのう存じます」
 深々と平伏する麗夢に、八条は十分な満足と優越感を憶えた。
「所で麗夢、まろはそちを救うに当たり、奇怪なる言を耳にしたのじゃ。今そちをわざわざ呼んだのも、その詮議をするためである。素直に答えるなら決して悪いようにはせぬ故、まろの問いに答えよ。良いな」
 八条は、一息ついて麗夢の乱れなく渦を描くつむじを見た。今の所別段変わった様子はない。その落ちつきぶりがどう崩れていくか、強烈に加虐欲を刺激された八条は、思わず崩れそうな相好を引き締めながら、麗夢に言った。
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05.襲撃 その1

2008-03-15 21:56:32 | 麗夢小説『麗しき、夢』
 榊は早朝より美衆に頼み、付近の山を熟知する村人を数人出してもらった。八条は村人総掛かりを主張してやまないだろうが、今、この場に八条の姿はない。八条にとっては夜明けなど深夜と呼ぶに等しく、何も無理に起こしてそのみだりに動く舌をふるわせることはあるまい、というのが、実質指揮官たる榊の判断だった。
 さらに榊は、山狩りへの同道を円光に頼んだ。もし昨日のような結界があったりしたら、榊の軍は一戦もせずして全滅しかねない。今、榊が頼める人物の内で、こういう術に対抗できるのは円光の法力だけなのである。円光としては麗夢を置いて屋敷を離れることに不安を覚えずにはいられなかったが、榊たっての願いとあっては断るわけにもいかなかった。
 鬼童もまた、榊達よりも早く、独り何処とも知れず門を出た。歩哨として寝ずの番をしていた郎党によると、どちらにとの問いに対して、何、思いもかけず早く目が覚め、もう一度寝付けそうにもないのでちょっと散策してくる、と言い残して出ていったというのだった。榊等一行を送り出した美衆も、八条の世話に僅かな人数を残して、総出で畑仕事に出かけていった。かくして美衆邸には、まだ目覚めぬ八条と、ようやく体力の回復を迎えつつあった麗夢の二人だけが残されたのだった。
 八条が目覚めたのは、既に日が中天高くさしかかろうという頃合いである。本来ならこれでも八条には早い「朝」と言えたのだが、まともに入る日の暑さに、いぶり出されてしまったのだった。昨夜の大酒のせいもあって無性にのどの渇いた八条は、世話役に残された年若い下女に水を持ってこさせ、椀一杯になみなみと注がれた水を一息に飲み干した。少し和らいだ二日酔いの頭痛を押さえながら、八条は遅い朝餉を要求した。
「少しで良いぞ、少しで。田舎者はとかく大盛りに盛ればよいと心得ておるようじゃが、椀に半分も盛ればそれで十分じゃ。この様な朝に椀からこぼれる程も持ってきたら、わずかな食欲が萎えてしまおうて」
 もう昼じゃと口の中で文句を言った下女は、半時もせぬ内に顔中に文句を表すことになった。何となれば八条は、きっちり椀半分につがれた粥を一口に飲み干した上、替わりを要求すること三度、結局「大盛りに盛った」のとまるで変わらぬ量を平らげたのである。ただ娘は、八条の要求が単に食欲のなせるものではなかったことまでは気づかなかった。八条が何度も頻繁に用を言いつけたのは、忙しさと不満で、つい警戒の弛んだ娘の胸元や裾の乱れにつけ込んで、その奥の肌の白さをのぞき見たいが為であった。
 こうして空腹を癒した八条は、先程から刺激された情欲のままに娘を見据えた。
(ふん、しょせんは田舎ものか、日焼けした仏頂面もまた一興かとは思ったが)
 娘の表情は仏頂面というよりも既に敵意に近いものがあった。八条はすっかり興ざめして投げるように椀を返し、さっさと下げるよう命令すると、さてどうしたものか、と思案に暮れた。夢現の内に榊が配下を連れて出立したのはおぼろげながらも気づいてはいた。もう一人、天敵とはこう言う奴を言うのだろうと八条をして思わざるをえない男、鬼童も、下女の口から早朝に出ていったことを聞いた。話すだけで腹立たしい屋敷の当主、美衆恭章も、家の子を集めて出ていったきり戻ってこない。こうしてみると八条にとって目障りな連中はこぞっていないという真に結構な状況になってはいるのだが、こう誰も彼もいないというのも、また一種の物足りなさを催させるものであった。
(何とも田舎とは不便なものよ。話し相手もおらん。遊びもない。一体ここの連中は何を楽しみに生きているのじゃろう。この分では、皆一生都の栄華など知ることもあるまい。全く哀れな連中だこと。もし願いかなって国の一つも貰えたとしても、かような田舎だけは願い下げよのう)
 八条は、しばらくこの奥まった山村とその住民をあざ笑っていたが、やがて今もっとも哀れなのは、ただ一人こんな田舎で成す術もなく愚痴をたれている、自分であることに気づいた。
(これは何とかせねばならん。何かなかったか、何か・・・。そうじゃ、忘れておったぞ!) 
八条は、さっそく手を叩いた。二、三拍おいて、今は危うく八条の選択肢から逃れた仏頂面が現れた。明らかに今度は何の用だと言わんばかりな不機嫌ぶりだが、八条はさして気にすることもなく、娘に向かって問いただした。
「まろが連れて参った女があろう。いかが致しておるか? 話はできそうか?」
 娘は、どうやら面倒なことではないらしいと思ったか、少し表情を和らげた。
「もうとっくに起きて、ガキ共の相手をしてくれているよ」
 そうか、と八条はその返事に満足した。続けていよいよ本題に移った。
「で、・・・?」
「はあ?」
「だから、ど・・・」
「何言ってるのかさっぱり判んねえ。もっと大きな声でしゃべりなよ」
 ええい、この田舎者め! 八条は毒づきながらも、少し声を大きくした。
「だから! どうなんだ、その娘は!」
「ああ、元気に跳ね回っているよ」
「だから!」
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04.悪夢 その1

2008-03-15 21:51:37 | 麗夢小説『麗しき、夢』
 榊の寝所は、美衆邸でも比較的入り口に近い一間にある。何かあった時には真っ先に飛び出していけるように、奥の客間を勧める美衆にへ特に頼みこみ、しつらえてもらった部屋である。元々は十人ほどの家の子が起居する部屋だったと見えて、榊は何人かの下男達の冷たい視線を甘受せねばならなかった。まあ数日のこと故、と榊は腹の中で詫びたが、自分は招かれざる客であるという自覚は、榊をして帰郷の念を駆り立てずにはいられなかった。が、それはともかくとして、取りあえず明日からの山狩りをどうするか、が榊の抱えた課題である。どうせ八条大夫の起き出すのを待っていては仕事にはならない。榊としては、二度と炎天の日中に山へ登る愚を犯す気はなかった。出来るだけ早く、かなうことなら夜明け前に出立し、涼しい内に一方面片付けておきたい。榊は気の入らないこと甚だしかったが、だからといって手を抜く積もりはなかった。やるだけやって、後はどう大夫を説得するかだ。榊にとっては、八条のわがままをどう御するかのほうがよほど大きな問題なのである。榊はこうして色々考える内にも、昼間の疲れも手伝って、いつしか深い夢の最中に落ちていった。
 ・・・ああ、これは初陣のときだ・・・。夢の中、まるで外から芝居を見ているかように榊は十五になった自分を意識した。榊は新しくあつらえたばかりの鎧をまとい、生涯をともにすることになる大刀を、まだ持て余すように腰に差している。すると、もう亡くなって十年になるはずの父が、妙に若々しい顔を不機嫌そうにしかめ、榊の刀をぐいとねじって、少しでも見栄えのするように位置を直した。それを、これも若い母が心配げに、祖父はいかにも楽しそうに眺めている。周りを見ると、親族や郎党達が皆とりどりに榊家御曹司たる自分の凛々しさをたたえ、鎧に着られているような若者の初々しさを愛で楽しんでいた。榊自身は照れくささもあって、しゃちほこばったきまじめな顔でいる。が、それがまた人々には可愛らしくも見えるのであろう。絶えることのない笑いがさざめいて、若者の初陣を飾っていた。
 場面が変わった。篠つく雨が鎧を通して寒く、血と泥にまみれた顔だけが熱い。既に身は鉛のように重く、刀も持っているのがやっとでほとんど杖代わりになっていた。一緒に出撃した父や郎党達も乱戦の中で見失い、敵意に充ちた闇だけが、辺りを包んで榊を飲み込もうとしていた。これは、初陣の時だ、と何の脈絡もなく榊は感づいた。華々しい興奮に彩られた前半戦と苦々しい無力感に包まれた後半戦。その終末近く、意識もあやふやになりつつある中、ようやく出会った味方に救われる直前の姿。今、自分はその最中で闇を彷徨っている・・・。
 突如、鋭い殺気が背後に迫った。榊は咄嗟に振り返り、相手を確認する暇もなく刀を振るって今日何度目かの血煙を浴びた。もう、最初の洗礼ほどの恐怖も興奮も榊にはない。心の全てが過飽和し、神経回路を駆けめぐる悲鳴を絶縁しているのである。が、この心の安全装置が、今切り倒した相手の顔を前にして、一瞬にして吹き飛んだ。
「は、八条大夫?!」
 公家装束を自らの血で染め上げ、おしろいとお歯黒の代わりに赤く全てを塗りたてた八条雅房が、榊の足下に転がっていたのである。そのあらぬ方を見る光を失った目が、ぎょろりと向いて榊をにらんだ。
「榊殿ぉ・・・、まろを殺してなんとするぞ・・・。榊殿ぉ」
「う、うわあっ!」
 榊は振り返りもせずに逃げ出した。それを血塗れの八条が追いかけた。榊は死にもの狂いで逃げた。日常の榊からは想像もできぬ崩れようだが、夢の中、榊の心は少年のか細さに塗り込められている。一皮やせ我慢の皮をむいてしまえば、無防備な幼いもろさしか残っていないのだ。
 追いかける八条の姿が、次第に膨れ上がりつつ、凄まじい形相に変化した。常に不機嫌そうに結ばれたおちょぼ口が突如耳元まで裂けたかと思うと、ねずみを呑む蛇のように大きく開いた。狼のような長大な牙が夜目にも白々と光り、真っ赤な舌が、唾液を引きながらその歯を舐める。中の目玉がこぼれそうなほどに開かれた目が、血走った狂気の視線で榊を追いかける。榊は気が気ではなかった。ひたすら逃げようと気が逸るのに、まるで泥田の中を歩くように力が地面に伝わらないのだ。榊は、耳元に八条の息を感じて泣き出したいほどに恐れおののいた。どこまで続くとも知れぬ闇を駆ける絶望的な逃避行、いつ果てるとも知れぬ死の鬼ごっこに榊は遂に力尽きた。ひとしきり凄惨な笑いをけたたましく上げた八条の化け物は、へたり込む榊に、いつのまにか手にした刀を振り上げた。その鋭鋒を避けようと這いずった榊の右手が、ふいに感覚を失った。崖だ。どこまで落ちているのか知れぬ深淵が榊の行く手をさえぎった。もはや榊には、発狂への転落か、精神的な斬死しか残されていなかった。絶体絶命の榊に、無情にも八条の刀が落ちた。
 その瞬間、榊の鼻孔を得も言われぬかぐわしき香りがくすぐり、榊の正気を蘇らせた。閉じた目を恐る恐る開いた榊は、化け物の八条と自分との間に、金色に輝く香りの正体を見た。それは辺りを真っ白に染め上げるほどに輝きながら、まるでまぶしさを感じさせない優しい光に包まれていた。よく見ると、緑の黒髪を腰まで豊かに打ち広げた女性である。八条の化け物は、その光に阻まれて苦しげにのたうっていたが、やがて何事もなかったようにあっさりと消滅した。途端に榊は悪夢から解き放たれた安心と幸福感に包まれながら、夢も届かぬ深い眠りへと落ちていった・・・。
 榊ははっとしてとび起きた。今は退いた冷や汗に、夜具の湿りが冷たかった。が、榊が驚いたのは、夢に感じたあの香りが、まだ微かに部屋にたゆたっていたことだった。
(あれは、夢ではなかったのか?)
榊はなおもその香りを追いかけようと努力したが、もうそれは榊の鼻孔をくすぐる程も残ってはいなかった。榊は、言い様のない不思議な気持ちのまま、朝を迎えた。夢としか思えないが、本当に夢だけだったのだろうか? 榊は、暫くぼんやりと考え込んだが、やがて頭を振って考えるのを止めた。榊の下知を待つ百人の部下が、そろそろ起き出してくる頃である。老いてなお、とは行き難くなった身体を叱咤して、榊は障子を開け放った。途端にあふれこむ朝日の光が部屋を満たし、唐天竺まで続くかと思われるような晴天が、榊の心まで気持ちよい青に染めた。
(良し、今日はあの山だ)
今はまだあくびでもしているような柔らかささえ感じる朝日を拝みながら、榊は何気なく見えた向こうの山を、今日の目標に定めた。が、榊は、気づかなかった。今、自分の足下に潜み、やがて朝日を避けるようにして逃げて行く一つの影を。それは、墨のような真っ黒の衣装に身を包み、森の闇へと消えていった。
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03.閉ざされた村 その3

2008-03-15 21:49:12 | 麗夢小説『麗しき、夢』
「どなた? そこにいらっしゃるのは?」
(不覚!)
 円光は狼狽の極みに突き落とされた。何か答えなければ、このままではまずい! 冷静を欠いた円光は、必死で言葉をひねり出した。
「こ、こ、こ、これは、お、お休みの所を邪魔だてしてしまいました。せ、拙僧は円光と申す修行中の未熟者でござる!」
「えんこうさま・・・」
 銀の鈴なる妙なる調べ。円光の耳は、今確かに天上で奏でられる音楽を聴いた。円光は、今や総力を挙げて自分の心を落ちつかせることに努めなければならなかった。
「ささ、い、いい今しばらく休まれよ。疲労困這の末水に落ち、身体の方もまだまだ万全にはほど遠かろう」
「水に?」
「左様。橋上より急流に落ち、危うく滝に呑まれる所でした」
「それを、円光様がお助け下さったのですか?」
「いいえ! 助かったのは御仏の慈悲の賜物、拙僧はその手足となったまででござる!」
 円光は、自分の不覚ぶりに益々恥じ入ってしまった。これではいくら言い繕おうと、貴女を助けたのは自分ですと広言しているも同然ではないか。しかも口を開けば開くほど、かえって深みに落ち込んでいきそうな気配である。こんな時鬼童ならどう話すのだろうか。円光は困窮まったあげくに、ふと同年輩の男の顔を脳裏に浮かべた。きっと何かと巧く言いこしらえて、難なく会話を楽しむに相違ない。円光はそんな鬼童に嫉妬している自分を見いだして愕然とした。他人を妬むなど、修行も何もあったものではない。これではいかん、とにかく一時ここを離れて、落ちつかなければ。円光は思案したあげく、ようやく一計をひねり出した。
「そうだ! お目覚めとあればさぞかしひもじさも憶えておられよう。拙僧、何か口にするものを探して参る故、しばらくそのままで休まれよ」
 言うだけ言ってそそくさと立ち去ろうとした円光は、
「お待ち下さい」
 との声にたちまち硬直して次の言葉を待った。少女は今円光がどんな姿勢で自分の言うことを聞いているのかまるで気づいていないが、天性陽質の少女なら、一目見ただけで笑い転げたに違いない。円光は薄いふすまに感謝すべきかもしれなかった。
 少女は言った。
「一つだけ教えて下さい。ここは何処でしょうか?」
 ああ、と円光の金縛りは解けた。
「ここは、甲斐の国の山中、夢隠しの郷の長、美衆恭章殿の屋敷でござる」
 ではこれにて待たれよと今度こそ立ち去る円光の背中を、少女の一言が軽く押した。
「何から何までかたじけのう存じます。私は麗しき夢、と書いて麗夢と申します。一介の白拍子に過ぎませぬが、どうぞよろしくお見知りおき下さい」
麗夢殿か・・・。円光は、それが阿弥陀如来にも匹敵する貴重な名前に感じられた。円光は幸福の極みを漂いながら、麗夢の元を後にした。

 一方榊等は、奥まった一室で釈然としない思いを噛み締め続けていた。
 美衆家当主、恭章は、丁重に三人を遇したものの、こちらの質問には一向に要領を得ない返答を繰り返して三人を困惑させた。思い切って郷入口の結界の話をしても、
「はて? このところ全く郷の外へ出ていくような用もなく、そのようなものがあったとはとんと気がつきませんでした」
と知らぬ存ぜぬで押し通すのである。それは、同席した老人にも共通して言える態度だった。
 老人は崇海と名乗った。長年の修行の旅の末、今はこの郷にある朽ち果てた未住寺で雨露をしのぐ身だと言う。美衆は、崇海の法力や知識の素晴らしさを臆面もなく褒めちぎり、今では郷中の者が崇海に帰依しているのだと胸を張った。わざわざこの場に呼んだのも、百人余の「大軍」が郷に進駐するこの一大事を前にして、誰か信頼できる人が側に欲しかったと言うところなのだろう。それだけに老僧の受け答えには、里人にはない一種洗練された言葉遣いが端々に感じられ、修行の末の老成ぶりをかいま見せた。ただその中身の方はというと、とても八条を満足させるとは言いがたい、気にくわないものだった。
 この二人の態度に、榊は、さては智盛をかくまっているのか、と邪推しないでもなかった。そもそも辺境の人々ほど、やんごとなき貴顕に対して素朴にありがたがるものである。ましてや智盛と言えばほんのこの間までは天皇の外戚として権勢を振るった平氏の御曹司。話に聞けば、その姿見目麗しく、眉目涼やかにして笛をよくする貴公子だと言う。そんな人物がこの奥深き山里に降臨すれば、匿う気持ちになるのも無理はない。ただ、それにしては態度にかげ日なたが見えない。榊は様々に「かま」をかけて相手のほころびを探ったが、どうこしらえてみても、相手は本当に智盛のことを知らないようにさえ見えた。
「八条大夫、美衆殿や崇海殿の話を伺っても、智盛卿がここに潜伏している様子はない。ここは一端あ引き上げ、後図を期しては如何?」
 すると、八条は見る見る顔を真っ赤に染めて榊に食い下がった。
「何を言うか! もったいなくも勅命を賜り、智盛の首を取らねば再び都には帰るまじとの決意で長駆遠征したまろであるぞ。おこなる物言いは謹んでもらおう!」
「しかし現に相手がおらぬでは何もできませんぞ」
「御身はこの者共の言を信とするらしいが、まろはだまされんぞ。智盛はきっといる。明日から山狩りじゃ!」
「しかし・・・」
「しかしもなにもない! もう決めたのじゃ。御身は黙って明日からの山狩りの算段でもすれば良かろう。美衆殿も郷の者を集めるのじゃ。これは勅命によって下す命令、即ち帝の命令じゃ! しかと申しつけたぞ!」
 仕方あるまい、と榊は観念して、同じく不本意な命令を受けた美衆を見た。美衆は、表に何の感情も浮かべることなく腹立たしいほど丁寧に頭を下げた。
「しかと、承りましてござりまする」
八条は、一瞬美衆が拒絶したかのように聞いた。珍しく八条の直感は核心を突いた訳だが、表面上従うそぶりを崩さない相手に対して、それ以上八条は何も言えなかった。
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03.閉ざされた村 その2

2008-03-15 21:48:53 | 麗夢小説『麗しき、夢』
「御坊の法力は、既に歴代の大僧正の域を超えておられるな」
 鬼童が素直に感嘆の声を上げると、円光はあわてて首を振った。
「いやいや、鬼童殿こそ薬典のみならず、陰陽の道まで心得ておられるとは、拙僧正直言って驚き申した」
「とんでもない、私の方こそ随分前に陰陽寮の友人より少々手ほどきを受けた生兵法に過ぎません。御坊のように結界を破るなどとてもとても」
 と二人が謙遜と賛辞を繰り返す所へ、全員の無事を確かめた榊が寄ってきた。二人はいつ果てるともしれない献杯を中断し、件の符を榊に見せた。
「すると、何者かがこの符で我らを郷に入らせまいとしたのですな?」
「我々だけではないでしょう。この符は、人を選びませんからね」
「しかし一体誰がそんなことを・・・」
 何気ない疑問をつぶやいた榊の後ろで、疲労困狽で汗塗れになった八条が、怒りもあらわに吐き捨てた。
「そんなもの、智盛に決まっておろうが!」
「しかし、智盛卿がそのような術に通じておられたとは寡聞にして聞きませんが」
「だったら誰がそんなことをする必要がある!」
 この結界に怒りと恥辱で半狂乱の八条は、鬼童への引け目も忘れて怒鳴り散らした。
「とにかく先を急ごう。この分ではこの先何があるか判らん。日のある内に郷に入らねば、やっかいなことになりかねんぞ」
 榊の一言にはさしもの八条も耳を傾けた。確かにもう二度とあんな屈辱はごめんである。にわかに悪寒を覚えた八条があわてて出立を命じたのを受けて、榊は大声で号令を出した。榊も、そして一騎当千の強者揃いであるはずの部下達も、不安という点では八条とそう変わりない。こんな得体の知れぬ所でじっとしているよりは、少しでも動いていた方がまだしも安心である。号令にあわせて、円光と鬼童も森の彼方に足を向けた。その双眸は、静かな決意を秘めてまだ見ぬ恐怖を睨み据えていた。

 ようやく森を抜けた一行は、夢隠しの郷にたどり着いた。今度はいつ何が襲ってくるのかと身構えながら進んできた一行にとって、それは拍子抜けするほど容易な道程であった。だが、それならそれで、別の緊張も孕んでくる。何故ならそこは、噂が正しいとするなら既に「敵地」のただ中になるからである。榊は、かねての予定通り一行を名主である美衆家の屋敷に向けた。当主恭章は早くから鎌倉に帰順した地方豪族で、榊とも面識がある。美衆は、やせぎすの身体に神経質な眼光を宿しながら、突然の訪問をいとうでもなく、表面上は極めて丁重に全員を屋敷の中へと案内した。郷を見おろす小高い丘に立つその屋敷は、美衆個人の生活の場であると共に、郷の行政府であり、また一朝事ある時には郷唯一の軍事拠点としての役割も担う、豪壮な造りの邸宅である。八条、榊、鬼童の三人が代表して美衆に来訪の主旨と協力を求めるべく奥座敷に消え、残された郎党衆は中庭で旅装を解くと、万一のために戦の準備にも取りかかった。
 少女は、特に八条が希望したこともあって、外の喧噪も届かない一室へ安置された。ぴったりと付き添う円光は、帳一枚へだてた廊下に陣取り、辺りに警戒の視線を投げた。
 円光には、どうも自分たちに対する何か強烈な悪意が、この屋敷全体からあふれ出ているような気がしてならなかった。我ながら神経質に過ぎるかと思わないでもなかったが、昼間のことも考えれば気のせいと思うこともできない。取り越し苦労ならそれも良し。円光はあえて自分に言い聞かせ、少女の傍らから離れ難くなっている自分を正当化するのだった。
 そしてこの円光の判断は、程なく報いられることになった。
 間断なく八方に気をやっていた円光は、ふすまの向こうで一つの気配が動くのを察知した。他の七方への警戒線を若干緩め、余力をその気配へと集中する。動く気の正邪、速さと強さ、匂いとも色合いともつかぬ気独特の感触をじっくりと吟味し、円光は、心配の種が一つ、今確実に取り除かれたことを知って暫し安堵の幸せに浸った。
(目覚められたか)
 かすかな衣ずれの音が、円光には耳元で打ち鳴らされる半鐘ほどにも感じられる。不意に、円光は少女が鬼童の用意した一枚の布のみを唯一の衣装にしていることに思い当たった。ここに到着してからあるいは何か着替えをしたかもしれないが、勿論円光はその場に居合わせた訳ではない。してみるとまだあのままの姿なのだろうか?馬鹿なことを考えるなと自分を叱咤すればするほど、円光の脳裏にそれが焼き付いてどうすることもできない。それが円光の気を乱したのだろう。全く気配を消した積もりだった円光は、ふすまの向こうから届いた声に、文字どおり心臓を飛び上がらせた。
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03.閉ざされた村 その1

2008-03-15 21:44:38 | 麗夢小説『麗しき、夢』
 どうもおかしい、と榊が思い始めたのは、今にも夢隠しの郷に入ろうと言う小さな木橋の上だった。程なく村の入り口を示す古びた二本杉が門のように道を挟んでいるのが見える筈である。しかし、いつまで歩いても森の風景は変わらず、何故か気ばかり逸るのも、普段の自分からすればしっくりこない。そんな隊長の気分は全体に伝染したらしい。配下のささやき交わす私語の数々が、微風に揺れる木立の葉擦れに乗って榊の逆鱗をなで回した。
「静かにせ・・・?!」
 遂に我慢の限界と榊が振り向いた時、榊はその光景に唖然と立ち尽くした。確かに今の今まで先頭に立って引き連れてきた筈の百人が、忽然と姿を消したのである。そこには今、自分が踏み越えてきた山道が、細く長く何処までも続くばかりで、辺りには人一人、馬一頭すら見えなかった。
「な、何事・・・?」 
 榊はあわや恐慌に捕らわれそうになる自分を叱咤した。ここで慌ててはならぬ。榊は油断なく辺りに目を配り、そっと足で馬に合図して、ゆっくりとその場を一回りさせた。
 やはり誰もいない。
 馬のいななきやしわぶき一つ聞こえない。気配というものがまるでない。巨大な樹木が折り重なって榊の視界をさえぎり、静寂は見えない悪意の固まりとなって、榊の耳にささやきかけてくる。
(どうやら何か悪質な詐術に引っかかったらしい)
 榊はそれが一体どんなものなのかまるで見当もつかなかったが、それでも自分の置かれている立場は一応ながら理解した。。
「とにかく軽挙妄動してこれ以上迷いを深めないことだ」
 榊は、何故かいつになく気が急いて仕方がない自分に言い聞かせるようにして独り言をこぼした。そして、あせりをわざと諌めるように、ゆっくりと馬を進めさせた。
 「軽挙妄動」して、「更に迷いを深め」たのが八条雅房である。余り得意とは言えない馬に乗り、さらに一日輿に揺られた疲れもあって元々乏しい心の余裕をすっかりすり切らしたところだった。
「み、皆の者、何処へ行った? 誰ぞ、誰ぞおらんのか?!」
 声がむなしく木立に吸い込まれていった八条は、既に気が気ではない。
「誰か! 誰か返事をせんか! 誰か!」
 もしや置いて行かれたのかとまず前に走り、もしや後ろにとまた馬を返し、いたずらが過ぎるぞといるともしれぬ榊に怒鳴り、やがて怒りは恐怖へと席を移して、叫びは涙を帯びつつあった。もはや冷静からはほど遠くはずれた八条は、いつしか道すらはずれ、森の中へと迷い込んでいった。
「誰でも良い! 頼むから出てきてくれえ! お願いじゃあ!」

 ええい気づくのが遅かった・・・。小さな木橋を渡り、数歩歩んだ所で円光は後悔した。今、円光は独り森の中の一本道に立っている。橋を渡った途端に、前後にひしめいていた筈の郎党達が忽然と消えてしまったのだ。勿論少女と、その少女を運んでいる男達も円光の視界から消え去った。その事が、常にない焦りを円光に生んだ。為にこの原因を解き明かすのに、かくも時間を費やしたのである。
 既に円光の周りから皆が消えて半時がたとうとしていた。円光はようやく打ち騒ぐ心を整えると、道の真ん中で座り込んだ。結跏趺坐して半眼に目を細め、静かに呼吸を繰り返す。更に精神を集中させるべく、低く長く経を誦す。次第に円光の心は収斂しつつ周りの自然に溶け込んで、無限に拡散していった。不意に、健全な円光自身の気の流れが、拡散していく内に無理に歪められた外界の乱れを感知した。
(やはり)
 円光は立ち上がり、幽かな気の乱れを見失わないよう目を閉じて慎重に歩を進めた。
(ここだ)
 全身気を探る探針機と化した円光は、一見何の変哲もない古木の前に立った。錫杖を構え、気合い一閃!
シャン! 
 小気味よく輪環が打ち鳴り、錫杖の先が古木の幹を突いた。
 円光は目を開けた。そして、世界が元通り百人の郎党衆でひしめいているのを見た。
「おお、これはどうしたことだ!」
 互いに再会を喜びつつも、余りのことに怪しむ一行を尻目に、円光は今錫杖を打ち込んだ古木の幹を眺めやった。
(これは?)
 円光は、今やその力を使い果たして唯の紙切れと化した一枚の符を手に取った。近くにいた鬼童が、驚きの余り声を上げた。
「御坊! それは鬼門遁甲術の一、迷陣の符ではないですか!」
「ほう、鬼童殿はこれが何かご存じか。拙僧は初めて見申した」
 この男は・・・。鬼童は人知れず舌を巻いた。相手の正体も知らないまま打ち砕いたというのか。鬼童にも陰陽道のたしなみがあり、この半時を結界打破に費やしていた最中だった。だが生半可な知識ではさすがにいつまでかかるやら、鬼童にさえ見当もつかなかったのである。ところがこの修行僧は、見たこともない結界をたった半時の間に見破り、その実力で打ち破ったのだ。これは鬼童にはどう望んでも得られない力だった。
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02.吊り橋の少女 その5

2008-03-15 21:42:17 | 麗夢小説『麗しき、夢』
「それで、何故その智盛と申すお方は、あなた方に追われる身となったのですか?」
 八条も榊も、そして声が届いた全ての人が、唖然としてその声の主、円光の顔に注目した。最初に口を開いたのは鬼童である。
「御坊、今私と雅房殿が交わしていた話を聞いてなかったのですか?」
円光はその問いに真顔で答えた。
「ええ、聞いていました。察するところどうやら戦があったと推察申し上げるが、それでよろしいのでしょうか」
「御坊、もしや源平の合戦をご存じないのですか?」
「源平の合戦? 源氏と平氏が争ったのですか?」
「それで平氏は滅んだのじゃ!」
 らちのあかない円光の無知に、八条は一声鋭く言い放った。元々忍耐とか根気強くというような言葉とは縁遠い八条である。
「行くぞ、榊殿! この様な痴れ坊主につきあっている暇はない。日のあるうちに、夢隠しの郷に入るのじゃ! ほれ、いつまで休んでいる気じゃ! 出立じゃ。 出立!」
 叫ぶだけ叫んで、八条は鬼童に振り向いた。
「ところで、鬼童殿、同道なさるならそれも構わぬぞ」
 だが、鬼童は八条の呼びかけよりも、円光のために源平盛衰記を簡単に説明する方に熱中していた。
「つまり御坊が山で修行三昧に耽っているうちに、平相国清盛公の薨去から壇ノ浦の合戦まで進んでいたと言うわけです」
「成る程、それで智盛卿の件も理解できました。後は、この娘との関係が気になる」
「何ですって?」
 鬼童は、円光がこの娘を救った時に、その唇から洩れた言葉のことを知らない。円光はそれに気が付くと、鬼童へ「とももりさま・・・」の件を詳しく話した。
「何だって!」
 驚きの声は、鬼童の肩を越えてきた。振り向いた鬼童は、それまで無視されてはなはだ面白くない顔をしていた八条が、今にも飛びかからんばかりに身構えているのを見いだした。
「雅房殿?」
 八条は、今や邪魔でしかなくなった鬼童を押しやって、円光に詰め寄った。
「今の話、それは真か!」
 円光はきまじめにもこくりとうなずいた。八条はその瞬間、神仏に感謝したに違いない。喜色満面のていで円光に聞いた。
「して、その女は何処にいる?」
 唯ならぬものを感じて口をつぐんだ円光に替わり、鬼童が答えた。
「そこの焚き火の傍らに寝ているのがそうです」
「寝ているだと? 起こせ、今すぐ起こせ! まろは聞きたいことがあるのじゃ!」
「それはなりませんね、雅房殿」
 やんわり断った鬼童へ、八条の矛先が向き直った。
「どういうことじゃ、鬼童殿」
 ようやく手がかりが見つかった! と気ばかりせいた八条に、落ちつきなさいとばかりに鬼童は状況を説明した。
「この女性は心身困じ果て、行き倒れた所をこの円光殿に救われ、私の調合した薬で深い眠りについています。無理に起こせといわれるなら起こせぬことはないが、そうするとこの女性の命は、一言を発する間もなく事切れてしまうでしょう」
「な・・・し、死ぬというのか?」
 興奮に紅潮した顔から、血の気がさっと引いた。せっかく掴みかけた運が、今するりと手の間から抜け出るのを実感したのだ。たちまち悪寒にとらわれて身震いする八条に、鬼童は思った。この御仁、しばらく見ない間に、一段と狂騒の質が深まったのではあるまいか・・・。だが、今大事なのは目の前の男の診立てより、傍らに伏す娘の救助である。鬼童はあやすようにして八条に言った。
「雅房殿、そう悲観なされることもない。助からぬと言うわけではないのですから」
 鬼童の返答が再び八条に血を戻した。騒がしい男だなと円光も思う。
「何、助かると? 鬼童殿、それは真か?」
「勿論ですとも。但し、まずこの山深い場所から、何処か人里まで運ばねばなりません」
「おお、そうか。御身の腕は誰よりもまろが良く存じておる。きっと救うと誓ってくれ。榊殿、急ぎこの女性を運ぶ仕度をせい。そおっと、優しく、急いでじゃぞ」
 思いもかけず手に入った貴重な情報である。ここまでは智盛の話など確度も低いうわさだけが頼りだった。これまでの多くの落ち武者狩り同様、せいぜい小魚二尾三尾といったところになる可能性の方が圧倒的に高かったのだ。事実、智盛潜伏の風聞は、宮廷の内でも大小ひっくるめて二十は下らなかった。庶民のうわさまで加えれば、潜伏している智盛の数は無限に増えたことだろう。源平合戦終結後、源氏の兄弟確執がにわかに表面化しつつある不穏な空気の中で、智盛は魑魅魍魎よろしく宮廷を徘徊していたのである。八条は、これを好機と考えた。もし本物の智盛を捕らえるか、首を取って都に凱旋すれば恩賞、地位は思いのままになるではないか・・・。権謀術数渦巻く宮廷で、これほど安易に位階を上げる方法もない。八条はじめ、多くの下級貴族が憑かれたようにこのばくちに身を投じたのも無理からぬ所である。そのかけが、何とこんな所で吉と出たのである。八条としては、何がなんでもここでその勝運を手元に引き寄せたかった。だから榊が、娘を運ぶのに今まで自分が乗ってきた輿を使わせてくれと頼んだ時も、二つ返事で了承した。
「分かった。良いようにせよ。さあ、参るぞ! 日が暮れるまでには郷に入るのじゃ!」
 この処置に一番喜んだのは他ならぬここまで八条雅房を担いできた者達だった。むくつけき油の固まりを運ぶよりも女性のほうが何倍も好ましい。まして病に倒れているとあっては否応にも義侠心をかき立てられると言うものである。その上純粋に物理的にも担ぐ荷が三分の一ほどに減少したのも、男達を喜ばせた。
 八条の号令に半拍おいて、榊が郎党衆に目配せした。と、たちまち全軍が活動を開始した。八条はそれを満足げに眺めていたが、勿論それが自分以外の命令で動いているのだとは知る由もない。八条と鬼童は予備の馬をあてがわれ、円光はそれを断り徒歩で少女の輿の側に付いた。程なくして統率の行き届いた集団が動き出した。各々の思惑は異なれど、行き着く目標は皆同じ。一路夢隠しの郷を目指すのだった。
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02.吊り橋の少女 その4

2008-03-15 21:41:31 | 麗夢小説『麗しき、夢』
「私は薬師で鬼童と申します。こちらの方は円光殿、土地の者ではありません」
 榊は、一見冷ややかにすら見える端整な顔立ちを凝視した。何か聞いたことのある名前だが、一体誰だったろう? だが、その若者は榊が思い出すまで待ってはくれなかった。
「初対面で恐縮ですが、榊殿、少し助力願えませんか?」
 榊はその屈託のない顔に、好意の色を余すところなく浮かべて、一言の元に肯った。
「私にできることなら手をお貸ししよう」
「それはかたじけない」
 鬼童は表情をぱっと明るく変えて榊に言った。
「実は病人を一人抱えていまして、難渋しています。もしかなうことなら、その病人を人里まで運ぶのをお手伝い願いたいのですが」
 病人? 榊は漸く、鬼童の傍らに転がる白い布包みの意味を理解した。そういえばその端から、人の髪のような黒い物がのぞいているのが見える。
「分った。程なく本隊がくる故、出立の支度をなさい」
 榊は連れてきた郎党の一人を、後方の本隊に走らせた。鬼童や円光が準備に勤しむうちに、榊の言う本隊が橋の手前に人垣を作った。
(およそ百人程か。しかし何の目的あってこんな人数で夢隠しの郷に押しかけようと言うのだろう?)
林立する白旗の前に鬼童はある懸念を抱いた。  
(まさかこの連中、「あれ」を探しに来たのではあるまいな)
もしそうならどうしたものか、と鬼童が思案にくれ始めたその時であった。鬼童の思考を中断するに十分なけたたましい高音が、郎党衆の頭上を飛び越えてきたのである。
「榊殿! 御身は一体何を考えておじゃるのじゃ! 唯でさえ急ぐ道中ぞ、分かっているのじゃろうな!」
「勿論ですとも、八条大夫。ですが・・・」
 さてどう言ったものかと榊が口ごもったその隙に、鬼童が驚きの声を上げた。
「おう! 雅房殿ではありませんか!」
 誰だ、気安く呼ぶのは。八条は、榊に向けた不機嫌を少なくとも三倍に膨らませて声の主を睨めつけた。数瞬そうして細い目をつり上げていた八条は、たちまちあっと声を呑むと呼びかけた相手の名を呼んだ。
「き、鬼童殿?」
 鬼童は人なつこい笑顔で答えた。
「都を離れて随分になりますが、息災のようで何よりです。大夫と言うからにはようやく五位の殿上人 に成り上がられましたか。結構結構」
「御身、何故こんな所に・・・」
「ははは、都の生活が少々窮屈になりましてね。こうして山野を踏み分けて薬草採取に没頭しているんですよ。それよりも雅房殿こそ都を離れて何故こんな東国の田舎に?」
 ううん、嫌な奴にあった、と八条は思った。都にて、元服間もない時分からの付き合いである。片や親の運動で何とか殿上人のはしに引っかかった愚才、片や有史以来の天才の名を欲しいままにした典薬寮の逸材である。唯でさえ劣等感を刺激される相手の上、あろうことかかつて命を救ってもらった負い目まであった。自分より目下には徹底した傲岸不遜を崩さない八条だったが、この男の前だけはどんなに自分を鼓舞しても気持ちが委縮してしまうのをどうすることもできないのだ。
「まろは・・・」
(ええい、相手は無位無冠の浪人ぞ、しっかりしろ雅房)
 八条は、心の動揺を悟られまいと、必死に震えそうな声を引き締める。
「まろは、勅命を帯びて逆賊、平智盛追討のため、夢隠しの郷にまかり下る途上じゃ!」
 決して都落ちしたわけではないぞ、と八条は、付け加えそうになった口をあわててつぐんだ。
「ほう、智盛というと、平家の御曹司、四位少将智盛卿のことですか」
 八条は黙ってうなずいた。どうやら自分の追っているものとは違うらしいと鬼童は安心する。
「しかし、智盛卿は壇ノ浦にて討ち死にされたと風聞で耳にしていますが?」
「いや、誰もその最後を確認しておらんのよ。のう、榊殿」
 源氏の一手の大将として壇ノ浦まで行った榊は、八条の振りにその通りとうなずいた。
「他の公達達は先の内大臣宗盛公を始め、ことごとくが縛に付くか、討ち取られるか、あるいは水に沈んだかという調べが付いておりますが、智盛卿だけは未だに分からず、取りあえずは入水したことになっています」
 何か聞いたことがあったと思ったら、あの天才薬師か。榊は相手の正体がようやく読めて、少しだけ口調を改めた。「上司」八条大夫と対等以上に口を利いているだけでも、丁寧な言葉遣いをするべきである。榊は、必要ならたとえ相手が年少でも、敬意を表に出せる人物だった。
「そんな折り、この先の夢隠しの郷に、平氏らしい赤旗をひらめかした、お歯黒した貴人が出没するといううわさが上がったのじゃ。平氏で生き残った身分高き者どもには、平大納言時忠公初め幾人かおるが、皆流刑地にて厳しく監視されておるし、その場所も西国あるいは佐渡、能登といった遠国じゃ。従ってもしここにその平氏を求めるとすれば、平智盛以外いないということよ」
 榊の後を取って少し自慢げに八条は自分の役目を披露した。
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02.吊り橋の少女 その3

2008-03-15 21:39:59 | 麗夢小説『麗しき、夢』
「せっかく堀だしたが、やむをえんな」
 鬼童は独り言を呟きながら、その包みを解いた。ふろしきは思いのほか大きく、一間四方に広がった。その中央に、子どもの腕ほどな黒っぽい物がごろりと転がっている。
「今堀とった薬草ですよ」
 鬼童は、円光の無言の疑問を解いてみせた。そしてばさばさとふろしきの端を持って埃を払うと、濡れそぼつ少女の傍らにふわりと敷き、娘の衣装に手をかけた。
 円光はその側で火を起こしながら鬼童の動静を注視していたが、鬼童が少女の衣装を脱がしにかかったのを見て目を背けた。とはいうものの、実の所、円光としては救われた気分であった。突然この薬師を名乗る男が現れててきぱきと蘇生術を施してくれるのは実にありがたいことである。しかし、一方で円光には何か釈然としない思いが残った。それが嫉妬というものであることを知るには、円光は余りにその道に未熟過ぎた。結局円光は、そんな心のもやを振り払うようにして、火を起こすことに熱中するより他に仕様が無かったのである。
 何とか火をつけた円光が燃料の枯れ木を集めるうちに、鬼童は少女をすっかりふろしきに包み、火の側にそっと抱き降ろした。続いて再び荷物に戻り、小さな巾着を一つと、何かの草を干し上げた一束を持って少女の側に戻ってきた。まず鬼童は手にした干し草を火にくべた。とたんにもうもうと白煙が立ち上り、同時にえも言われぬ芳醇な香りが辺りを漂い始めた。次に鬼童は巾着から小豆大に丸めた丸薬を二つ取り出し、少女の口に押し込んだ。形の良い少女の眉が少しゆがみ、わずかに口元が動いたが、鬼童が軽くその華奢なあごを抑えるうちにごくり、と喉が動いて丸薬を飲み込んだ。
「これでよし。後は目が醒めるのを待つ」
 円光は不安げに少女をのぞき込んだ。
「助かるのか?」
 鬼童は、楽観はできないとあっさり言った。
「衰弱が激しいですね。おそらくここ何日か、何も食べずにいたのでしょう」
「そうか……」
 円光は難しい顔をして少女の傍らに座り込んだ。加持祈祷の類は余り得意ではないが、何もせずに過ごすのも耐え難かった。
(なんとしても助けなければ)
 円光は、どうしてこんなにもこの娘が気にかかるのか、もう一つ判らないないのがもどかしかった。それに、少女の口の端に上った「とももり」という名前も気にかかった。とにかくいずれにしても、この娘の目が覚めれば解決する、そんな気がする円光であった。
 鬼童は鬼童で、再び荷物をまとめつつ娘のことを考えていた。
(身なりは在家の娘のようだが、それにしても美しい。これまで随分色々な美人を見たが、これほど印象に残ったのは覚えがない。どうにかしてあの閉じた目を開いて、宝玉のような瞳を拝みたいものだ)
 あるいはこれが恋というものかも知れない。人跡未踏を踏み分けること幾星霜、自分には気にかかる他人など存在しないのだと納得していたのだが、それもどうやら誤解だったらしい、と鬼童は思った。結局鬼童も、口でこそ
(楽観できぬ)
としか言わなかったが、心のうちでは必ず娘を救ってみせよう、と堅く決心していたのである。

 峠越えを果たした榊の一行は、その狼煙のような白い煙を見たとき、すわ、智盛の伏兵か? と色めき立った。一行は、平氏最後の大物を相手にすると言う興奮と、智盛の名高い勇略に対する不安とで少し神経過敏に陥っていたのである。浮き足立った一行を立て直したのは榊だった。榊は、馬上できっと振り向くやざわめく味方を一喝し、供周りを五騎連れて、自ら偵察に走った。長年の経験に裏打ちされた榊の勘が、それは敵の動きではない、と告げていた。子飼いの郎党衆だけならわざわざここまですることもないのだが、榊にもそれだけではすまない事情があった。
 細い山道はすぐに開けた。と同時に、榊はこれまで耳について離れなかった、蝉時雨の背後に響く音の正体を理解した。随分勢いの良い谷川が岩を打ち、その先に滝が落ちていたのである。山道はその谷にかかる吊り橋へと続き、狼煙と見間違った白い煙は、その橋の下から立ち上っていた。榊は馬をもう少し進めて煙の源をのぞき込んだ。
(それにしても良い香りだな)
 榊は鼻をくすぐる美香に思わず頬をゆるめたが、すぐにそこにいる二人の男を発見した。一人は修行僧らしく、一心に経を上げている。もう一人は焚火の側の白い布包みをのぞきこんでいる。榊は、この二人以外に人がいないらしいと判断すると、二人めがけて声をかけた。
「おーいそこの人、こんなところで何をしている?」
 すると、僧の方は動かなかったが、もう一人の男が顔を上げた。
「貴方はどなたですか?」
 涼しい控えめな声が榊の耳に届く。榊は言った。
「わしは鎌倉の住人で榊と申す。用あってこの先の夢隠しの郷に参るところだ」
 鬼童の目に白旗の翻るのが映った。
(源氏か)
 鬼童は都で平氏の赤旗を見慣れていただけに、突然現れた白旗にはなんとないある種の抵抗を覚えてしまう。だが、鬼童としては赤白の好悪を今問題にしていい場面ではなかった。
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02.吊り橋の少女 その2

2008-03-15 21:39:01 | 麗夢小説『麗しき、夢』
 どれくらいそのままでいたのだろうか。娘の顔を見つめていた円光は、その目元が苦しげに皺寄り、微かに開いた唇が、何かつぶやいたのに気づいた。
「しっかりされよ! 今、何を、何を申したのだ?」
「・・・」
 円光は思わず耳をその唇に近づけた。すると、微かな隙間から落ちる雫のように、うめきとも、言葉ともつかぬ一言が、円光の鼓膜を震わせた。
「と・・・、ともも・・・り・・・さ、ま・・・」
「とももり? とももりと申されたか!?」
 だが、その後は幾ら円光が呼びかけても、少女の口は再び開かなかった。円光は考えた。とももりとは人の名前だろうか。いや、それ以前に、本当にとももりといったのだろうか。今はそれを確認する術とて無い円光だったが、その言葉は妙に円光の胸に引っかかった。が、そんな物思いに沈む時間は幾ばくも無かった。しばらくして円光の鼻がむずがゆさを覚え、身体がぶるっと震えた途端、大きなくしゃみが円光を襲ったのである。
 円光はやっと呪縛から解けた。このままではすっかり冷え切ってしまう。まずは濡れた着物を脱がさないと。
 円光はそう真っ当に考えて、はたと思考を停止させた。娘の衣装を脱がす? 円光の心臓は、いよいよ口から飛び出す準備にとりかかったようだった。娘を救うためにはそれはやむを得ないことである。だが、そんな真似を果たして自分が出来るのか? 円光は果てしない自問自答を繰り返し、ようやく、これも御仏の与えたもうた試練なり、と強引に結論を下して手をのばした。が、総動員された勇気に支えられていた筈の指は、わなわなと震える先が娘に触れた途端、瞬間凍結したようにはたと固まって動かなくなった。いかなる魔物や妖怪に会おうとも決してたじろぎはしない円光の勇気は、並の男ならわずかの決心で済む事柄に対し、完全に量が不足していたのである。
 円光はしなければいけないことと、やりたくてもできないこととの板挟みに苦しんだ。苦しみ抜いた末、円光はようやく一つの結論をひねり出した。
(そうだ! 火を起こそう!)
 円光は、今度こそようやく呪縛から解き放たれた。生気が蘇る心地で作業にとりかかった円光は、瞬く間に大量の木を少女のかたわらに山と積んだ。端から見れば、少女を荼毘に付すのかと疑われるくらいのうず高さである。が、円光は薪集めに熱中する余り、背後から迫る気配を見落とした。普段なら考えられないことだが、その事実に気づいたとき、心底円光は自分の未熟ぶりに驚かざるを得なかった。よもや自分が、かかる状況にあったとはいえ、身辺の警戒を怠ろうとは、思いも寄らないことだったのである。だが、円光は直ぐに立ち直った。円光にすれば、目の前の少女の衣装よりも、この未知の恐怖の方が遥かに組し易い。実際この国において円光とさしで勝負できる者は少なかろう。例えばこの時期、京にいる大夫判官義経の側近、武蔵坊などがその一に上げられようが、この奥深い山中で、彼に匹敵する者が現れようとはなかなか考えがたいことである。あるとすれば手負いの熊くらいのものだが、それとても本気の円光に敵するのは難しいだろう。
(一体何者か、血の臭いもしないし殺気も乏しいようだが)
 隠そうとしない気配の様子から相手を伺おうとした円光だったが、やがて棒で樹を叩くような騒々しい音がしたかと思うと、突然梢を割ってぬうと一人の男が現れた。
 右手に刃の厚い長さ二尺ほどの山刀を下げているが、いっこうに山男のようには見えない。上背は円光とさほど変わらない長身である。獣道を手にした山刀で切り進んできたと見えて、全身汗と汚れにまみれてはいるが、涼やかな目元、端整な顔立ちに何かしら知性のきらめきを感じさせる風である。男は突然まみえた円光に少し驚いた風だったが、すぐに人なつこい笑顔を浮かべ、円光に言った。
「やあ、御坊はこんな山中で何をなさっておられるのかな?」
 円光は少し緊張をゆるめた。第一印象は悪くない。少なくとも今突然に襲いかかってくるような類ではなさそうだ。だが、依然警戒を解いたわけではない。
(何者だ)
と円光が誰何しようとしたその時、男は好奇の目を円光からその背後に横たわるものへと移していた。
「いかがなされた、その女性は!」
 円光は、いましがたの自己嫌悪に触れられた気がして、思わず耳たぶを赤く染めた。が、男が無造作に少女に近寄ろうとするのを見て、円光はすぐに気を取り直した。たちまち手にある錫杖の金輪がしゃん! と鳴り、男の行く手を遮った。
「何者とも知れぬ者を近づけるわけには参らぬ」
 男の表情は一瞬こわばったが、すぐに柔和な顔に戻ると目の前の錫杖に手をかけた。
「私は薬師の鬼童と申す者。それよりも御坊」
「拙僧は円光と申す」
「では円光殿、この娘、このままでは助からんぞ」
「だから今、火を起こそうと用意していたのだ」
「では一刻も早く火を起こしてくれ。それから、何か乾いた布はあるか?」
「いや。これしかない」
 円光は今しがた水に濡れたぼろぼろの墨染め衣をつまんでみせた。鬼童と名乗った男はそうかとうなずくと、はじめて背中のしょいこを降ろし、綱を解いて一個のふろしき包みを取り出した。
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01.峠 その2

2008-03-15 21:38:06 | 麗夢小説『麗しき、夢』
「御身は何をしている? 何故こんな山深い所で停まったりするのじゃ!」
 近づいた雅房の顔は、あふれる汗に水をかぶったようになり、おしろいは剥げ、墨で描いた眉も崩れと散々な状態である。雅房がそれに気づいていれば、要件よりも何よりも、真っ先に都での優雅な暮らしを口にして、ああ帰りたい、こんな田舎はいやじゃと三べんはのたまったことだろう。榊は、まともに相手するのもおっくうになって、肌脱ぎしたままこれみよがしにどっかりと腰を地面に据えた。
「何をと申されましても、かような次第で、休息をとっております」
「それじゃ、それ!」
 雅房はようやく榊の鼻先にたどり着いた。僅かな距離を歩いただけであるのに、もう肩で息を切らせている。
「何故こんな所で休息をとるのか、と言っておるのじゃ! 唯でさえ予定を大きく遅れておるのじゃぞ。兵は拙速を尊ぶ。奴等に感づかれる前に、さっさと出立すべきではないか!」
 何を小賢しげに。榊は表情に出ないよう注意しながら、心中で百匹ほど苦虫をかみつぶした。歴戦の勇士にとって、この苦労知らずの言は唯の書生論に過ぎない。しかしそのことよりも榊は、予定遅延の原因をこの油の塊がなんら理解していないことに腹を立てた。我々が唯でさえ難所のつづら折れを、一日で最も暑い刻限にあえて挑戦しなければいけなくなったのは何故か。全てこの目の前の男が、昨日前祝いと称して夜更けまで酒を喰らい女をはべらせ、あげくに寝坊した結果ではないか。その上、榊の目にはどう見ても不必要な調度の数々で荷物を無駄に膨らませたばかりか、自分では登れないからと、特に選抜した屈強の郎党四人に輿でかついでもらっているのである。それだけでもどれほど一行の足枷になったか、少しは認識してしかるべきであろう。それを、申し訳ないの一言もあればこそ、現実には、やれ遅い、やれ暑いのと自分の不平をまくしたてるばかりなのだ。挙げ句の果てにこの言いぐさでは、温厚を人に練り上げたような榊でも、頭に血が上るのは無理もない。
「急ぐべきなのは重々承知していますが、唯でさえ朝の出立が遅れた上、ここまでの強行軍、このままさらに無理を重ねれば、目的にたどり着いた時には一人として戦える者はおりますまい」
「戦う? 誰とじゃ?」
ああ、この馬鹿を向こうの断崖に突き落とせたら、どれほどすっきりするだろう! 郎党衆も皆、榊が自分にその始末を命じてくれるのを心待ちにしてこのやりとりを聞いていた。榊がすんでで思いとどまれたのは、経験が生んだ忍耐力と、一行を引率する責任者としての自覚が強かったからに過ぎない。
「大夫は、相手が無抵抗に頭を此方に差し出すとでもお思いか?」
そうではないのか、と相手の目が問いかけている。榊は瞬時にそれを悟ると、とてつもない無力感に自分を見失いそうになった。
「大夫、たとえ相手が朝敵であったとしても、朝敵だから縛に付け、といって素直に降参する者など一人もおりませんぞ。ましてや相手はただ者にあらず。窮鼠と化して必死の抵抗をされれば、この人数でも果たして討ち取れるかどうか、確約は致しかねる。万全の体制で臨んでもこうであるのに、無理を重ねて疲労したままでは到底成功はおぼつかない。御大将がそのようなことも察せられないのでは、我らはもはやおつきあい致しかねる。ここから先は、大夫一人でお行きなさい」
 言い過ぎたか、と直ぐに榊は後悔をしたが、強く言っただけの効果はあった。それまでの居上高がみるみる影を潜め、雅房の顔中に、一気に不安の嵐が吹き荒れた。
「ちょ、ちょっと待て、榊殿。我らは勅命 により朝敵を平らげんと出立したのだぞ」
「勅命を受けられたのは、大夫、あなたであって私ではない」
 断固として言い放った榊は、これみよがしに帰るぞ、と触れをだした。もとより脅しなのだが、榊とは阿吽の呼吸の郎党衆は、直ちに帰宅準備にとりかかる。この擬態を見抜けないのは、一人都落ちの貴族だけである。
「わ、判った。まろも少々言い過ぎたようじゃ。何せこの暑さでは気もたとうというものではないか。言い過ぎたところは詫びる故、榊殿も大人げない言い様は納めてくれ」
大人げないのはどっちだ、と榊は苦笑したが、これ位反省させれば上等と、帰宅の命令を、そのまま出立の命令に差し替えた。
「私こそ少々大人げなかったようです。これもこの暑さのためでしょうな。申し訳ない」
「そ、そうよ、この暑さがいかんのじゃ、ははは」
「では大夫も出立のご用意を」
あいわかった、と振り向いた背中に榊は大きくため息を付いた。あんなに強く出たのも、実はいっそのこと放り出して帰りたい位、内心この仕事に嫌気が差していたからである。それは、壇ノ浦でただ一人生死未確認の最後の大物を狩り出す落ち武者狩りだった。相手の名前は、前四位少将 平智盛といった。
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02.吊り橋の少女 その1

2008-03-15 21:37:09 | 麗夢小説『麗しき、夢』
 甲斐の国、霊峰富士の家来の如く林立する深山の一角。谷川に架かるつり橋の下に、その若い僧はいた。
 自然石が磨かれて平らになった岩の上で、その僧はじっと座禅を組んでいた。ほとんど巌と化した身はすっかりその世界に溶け込み、時折兎や小鳥が寄り添うように近づくこともある。
 僧の名は、円光と言った。長身痩躯、まだ若いながらもその身は長年の荒行に鍛えられ、その心には、恐らく日本でも指折りの術者に数えられる変幻自在の法力を納めている。本人はまだ未熟者だと思いこんでいるが、このまま都にでれば、忽ち時代の寵児として、帝を始め貴賎の別なく絶大な信仰を獲得することが出来るだろう。それだけの実力を、この若者は既に培っているのである。
 日本全国、大小の修行場を経巡った円光は、次の場所に霊峰富士を選んだ。こんな名もない山中に引っかかっているのは、清い水と緑に溢れ、格好の滝まですぐそこに落ちているのが気に入って、富士山入峰の前に禊ぎしようと思い立ったからだった。
 円光の目に映る吊り橋は、かづらの類を編み込んだごくありふれた山の橋である。が、誰のために架けられたものか、この地に留まって既に何日にもなると言うのに、円光は一人としてそこを渡る者を見なかった。この吊り橋の先には夢隠しの郷と言う山村があるはずだが、既に廃村にでもなっているのか、と円光に考えさせるほど、絶えて人の気配がない。
 そんなある日のこと。橋の下でいつものように座禅を組んでいた円光は、初めて吊り橋を渡る人の姿を見た。大きな笠に顔を半ば埋め、簡素にまとめた腰まで届く髪を、長旅にすり切れた小袖の背中に打ち掛けている。
(女だ)
 円光は相手の性別を知って、無視しきれなかった己の不徳を恥じた。久米の仙人は、娘のはぎの白さに目が眩んで雲から落ちたと言うが、これでは自分もその仙人を笑うことは出来ない。
 自嘲することしきりの円光は、今度はその娘の奇妙な振る舞いに眼がいってしまった。吊り橋は見た目よりも遥かに頑丈に作られており、人一人渡るくらいならそう揺れもしないものだった。ところがその娘が一歩足を進めるごとに、橋は大きく左右に傾ぎ、娘は思わず綱にしがみついて辛うじてその身を支えるばかりである。理由は直ぐに知れた。娘の足が、立っているのもやっとではないかと言うくらいにふらついており、それが橋の揺れに直結しているのである。娘は真ん中まで進んだ所で、とうとう動けなくなったようだった。円光は、座禅をやめて立ち上がった。修行中の身とて女性に近づくのははばかられたが、難渋しているものを放置するわけにもいかなかった。
「娘さん、そのまま動かずに。今助けに参る」
 娘が顔を上げたように円光には見えた。だが、仰向けに一瞬のけぞった身は、次の揺れで振り子のように前屈みになり、そのまま崩れて綱の間から身を投げ出した。かぶっていた笠が飛び、後を追うように娘がその身体を下の川へと落としたとき、円光の身も、ほとんど同時に水柱を上げていた。
 見た目を遥かに越える力が、円光の身体をぐいと下流に押し出した。立てば足の立つ深さなのだが、瀬の岩に砕ける奔流は、円光が逆らうことを許さない力でその身を下流に連れ去ろうとする。円光は流れを出来るだけいなしながら、上から流れてきた娘の身体を抱き留めた。二人分の体重が危うく足をすくったが、円光は辛くも踏んばった。流れの先は、円光が修行に丁度好いと思っていた滝である。高さ十丈の垂直のほとばしりは、巻き込まれればたとえ円光といえども無傷では済まない。円光は、満身の力を込めて岸に這いあがった。
 円光はそのまま娘を抱き抱え、最前まで座禅を組んでいた岩の上にそっと下ろした。改めてその小柄な身体を見た円光は、不浄に触れたことに対する自虐心が吹き飛んでしまうほどの衝撃を受けた。もし円光が冷静だったなら、成る程これが久米仙人を落とした力かと妙に納得したことだろう。しかし、今の円光にそんなゆとりは露ほどもない。冷え切った身体に、何故か顔ばかりが熱い湯に突っ込んだように火照り、高鳴る心臓が円光を狼狽させた。円光は、どうしても娘から眼をそむけることが出来なかった。
 娘は、少なくとも見かけは少女と言ってよい幼さを全体に残していた。抜けるようなと言う形容はこの少女のために作られたのではないかと言う肌。長く、形の良いまつげがその先に細かい水玉をつるす様子。腰まで届く緑の黒髪が、濡れた艶を輝かせながらほどけて扇に開き、その衣装から透ける肢体は、あくまでたおやかに円光の心を吸い上げた。円光は、その閉じられた目を見たいと思った。そして、そう思ったことにまた新たな衝撃を受けた。自分が、女性の瞳を覗いてみたいと思うなんて・・・。自分の思いに気がつくたび、円光は慌てて頭を振った。だが、ひとしきり振られた頭は、また目の前の傾城に吸い付いてしまう。これではいけない。そう思いつつも、円光はどうしようも出来ないままただ呆然と立ち尽くしたのである。
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01.峠 その1

2008-03-15 21:36:01 | 麗夢小説『麗しき、夢』
「ふう、たまらんな」
 黒光りした丸太のような腕が、同じ色をした額の上を滑る。出来れば冷たい谷川に首ごと突っ込みたいところだが、ここが峠の頂上とあってはそれもかなわない。狂乱の蝉時雨すら虚ろに響く猛暑の昼下がり、鎌倉の清和源氏、榊は、直ぐ後に続く郎党衆を見やりながら、一時休息を号令した。榊は、何人もの旅人が振り仰いだに違いない古木の前で馬を下りた。その脇に、自然石に彫りつけた道しるべがある。その指し示すこれから下りる先は、夢隠、といった。榊は道標を見つめながらつい独り言をこぼした。
「一体この先に何があると言うんだ?」
それは鄙びた山里だろうと心の内で言ってみる。外界との接触も少なく、皆が皆、互いの顔を見知った平和な運命共同体。我々はその平和をかき乱し、桃源郷さながらの浮き世離れした生活に、辱世の混乱を運び込もうとしているのだろうか……。日の出の勢いの当世源氏には珍しく、榊の頭の中には、時折一種冷めた風が吹き込んでくる。鎌倉の二位殿こと源頼朝は、だからこそ数ある侍大将の中から榊にこの重任を与えたのだった。現在、源氏の頭領頼朝の立場はやや微妙である。平氏こそ覆滅したとはいえ、日増しに険悪さを加える弟九郎義経との関係、北にうごめく平泉の老策士、藤原氏の存在、そして西国には、うわべこそ白旗になびいているように見せかけて、心の内ではまだ平氏の赤旗に同情している者も少なくない。大勢が覆ることはなさそうにも思えたが、平氏の凋落も、その始めは誰しもこんなことになろうとは、夢にも思わなかったのである。そうであればこそ、頼朝は慎重だった。頼朝としては、たとえ知る人とて少ない一山村にさえ、自分の声望を傷つけかねない猪武者を派遣するわけにはいかないのである。榊は、そんな微妙な情勢を理解した上で行動できる、数少ない良将だった。
 榊がそうしてたたずんでいると、一人の郎党が近づいてきて榊に言った。
「この先の郷には、徐福の墓があるそうですよ」
榊は、それが今しがた呟いた言葉への答えであることに、少しの間気づかなかった。恐らく随分と間の抜けた顔をしていたに違いない、と苦笑をかみ殺しつつ、榊は言った。
「徐福とは、何者だね」
大将に聞いて貰えるのがうれしいのか、その若い郎党は得々として語りだした。
「徐福と申しますのは、今から千二百年前、唐を治めました虎狼国の王に仕えていた隠陽師であります。何でも、その王が不老不死の薬を求めて我が国に徐福を派遣したそうです。上陸後、徐福はあちこち不老不死の薬を持つ仙人を捜して国中を歩いたそうですが、遂にこの地で最後を迎えたとか」
「ほう、それで不老不死の薬は見つかったのか?」
「それが、見つかって自ら仙人になったという者もありますし、見つからずに失意の内に亡くなったという話もあります。本当の所はどうだったんでしょうね」
こっちが聞きたいのだ、と榊は苦笑したが、相手の博識に対する素直な賞賛だけは忘れなかった。
「しかし、それにしても詳しいじゃないか」
すると、その郎党は少しはにかんで榊に言った。
「いえ、実は私の在所にもここと同じような徐福の墓があるんですよ。それについて、幼いときから年寄りが何かにつけて話をするものですからすっかり耳に付いてしまったと言うわけでして」
「成る程な。しかしおまえの話だと、徐福の墓はあちこちにあるようじゃないか」
「はい。他の連中にも聞いて見たことがあるのですが、どうも日本中に墓の類があるそうです」
「ふうん、妙なものだな」
千年も前に、唐から渡ってきた隠陽師か。その存在は榊の想像の手に余ったが、王の命を受け、命を省みず異郷の地に臨んだ男の心情は、理解できるような気がした。果たして薬は見つけたのだろうか。見つけたなら今も生きていて不思議はないはずだが、もしそうなら一言話をしてみたいものだ。榊はまたも道標を見つめながら、見たこともない男の身の上に興味を抱き、他愛ない思いを弄んだ。
 榊が遠くを望むように目を細めるうちにも、郎党衆はりく続として峠のさして広くない頂上に集まってくる。さすがにその場にへたり込む者はないが、顔は汗と疲労にまみれ、炎天下のつづら折れのつらさを物語っていた。
「どけ、どかんかこの馬鹿もの!」
 突然、場違いな金切り声が疲れ切った空気を切り裂いた。
「いかがなさいました、八条大夫」
 空想を中断された榊の、湿り気のない、声量豊かな低音が、郎党衆の頭上を駆け抜けた。臨界点に達しようとした不満と不快が、その声で僅かばかりのゆとりを取り戻す。最も、八条と呼ばれた男の不満は、臨界点をとうに越えていた。
「どうもこうもないわ!」
 五位判官代八条雅房は、横幅だけは榊に勝るとも劣らない巨体を揺すりながら、見えているのかと不思議になるような細い目をきっと吊り上げて、榊をにらみつけた。
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