午前三時。平安大学の北岡研究室と表札のかかる一室で、鬼童は気乗りしない様子がありありと顔に出ている北岡を助手にして、まくり上げた左腕の肘のやや上のところに、ゴムチューブを巻き付けていた。
「ほんまにやんのか? 鬼童」
もう何度目か数える気にもならない質問が、また鬼童に注がれた。
「ああ。馬鹿げていると思うかも知れないが、やってみる価値は絶対にある」
鬼童が確信を持ってこれも質問と同じ回数の回答を返すと、これまた同じ回数のため息と共に、少しずつ実験の準備が整えられていく。
「これでええ。後は採るだけやで」
チューブを巻き終えた北岡は、医学部の知り合いから分けて貰った滅菌済みの採血用注射器と、真空採血管を鬼童に手渡した。
「お前さんの強情さにはほんま呆れるわ。こんなあほな事思いつくとこも、昔からちっとも変わらん」
「それに付き合ってくれる君もな」
ひとしきり笑顔で向き合うと、鬼童は早速実験材料の調達にかかった。左肘の内側を軽く二、三度叩き、浮き上がった静脈の位置を確かめる。次いで70%エタノールをしみこませた脱脂綿で膨らみ周辺を拭いて殺菌すると、北岡から受け取った注射器の針カバーを取り除き、その左腕の盛り上がりに針を当てがった。
「お前さん、自分で採血した経験あるのか?」
鬼童のぎこちなさに不安を覚えた北岡が問うと、当然無い、と鬼童は答えた。
「だが、健康診断の度にちゃんと見ているよ」
見ただけでちゃんと出来るもんやないで、と北岡が愚痴るのを後目に、鬼童は針を皮膚に突き刺した。ぴりっとした痛みが肘に走るが、実験のためにはこれくらい何と言う事もない。鬼童は、充分針が侵入した事を確かめると、真空採血管を注射器のシリンダーに差し込んだ。途端にやや黒みがかった静脈血が、採血管内へ吹き出すように溜まっていく。見よう見まねのくせに一発で静脈を探り当てた鬼童に、やっぱりこいつは天才か、と北岡が感心するのも束の間、採血を終えた鬼童は、片手で器用に採血管を抜き取ると、傍らの試験管立てに入れた。
「これでよし」
注射針を抜いて絆創膏を貼り付けた鬼童は、その試験管立てを実験台に移した。そこには既に、培養カルスの入ったフラスコが、鬼童の血液を待っていた。鬼童は少量の液体を正確に計測、採取できるピペッターと言う器具を使い、自分の血液を採血管から吸い出した。そして、フラスコの口を閉じているアルミ箔のふたを取った。その傍らで、あほな事を、と言う目をしながらもじっと見守る北岡が居る。今更言う事もない北岡ではあるが、この部屋で行われる実験である以上、それを見届ける責任がある、と夜遅くまで付き合っているのである。
「では、入れるぞ」
鬼童は慎重にピペッターの先をフラスコに入れると、カルスの真上で血液を押し出すためのボタンにかかった右手親指に、力を入れた。
鬼童がこの実験を思いついたのは、既に昨日になった朝、例の白いサボテンが朝日に焼失した直後の事であった。白いサボテンの発芽は、多分美衆恭子の血液が関与しているに違いない・・・。実際、鬼童がその幼苗を発見したのは飛び散った恭子の動脈血がかかった砂金の部分でだけだった。あとは、堅い種子のままだったのだ。それにもし北岡の言う通りこのサボテンはアルビノで自ら栄養分を生み出す事が出来ず、そのままでは早晩枯れてしまうしかない、と言う事なら、発芽したのも鬼童が発見する直後だったと考えられる。そのきっかけは何かと考えれば、やはり恭子の血の事に思いをはせるのが妥当だろう。つまりこのサボテンは、人間の血液にその生育を依存していると考えられる訳である。従って今培養中の細胞塊に血液を与えてみれば、ひょっとして何か変化が現れるかも知れない。あの精神エネルギーが観測できるかも知れないのだ。こうして鬼童は手早く計画をまとめると、北岡に協力を願った。北岡は、一言の元にその計画の馬鹿馬鹿しさをあげつらったが、鬼童の熱心な「頼む」を何度も聞き、結局協力する事になったのである。
こうしてついに鬼童がその一滴目で白いカルスを赤く染めようとしたその時だった。
「あっ! しまった!」
突然、足元のコンクリートに巨大なハンマーが撃ちつけられたような衝撃が走り、床を大波のように揺れ動かした。戸棚のガラス器具が激しくぶつかり合い、何枚かの窓ガラスが、振動に耐えかねて派手な悲鳴を上げて割れ砕けた。電線を絶たれたのか、室内の電灯が一斉に明滅して消え、夜明け前の闇が、破壊された窓からたちまち室内に充満した。
だが、鬼童が驚き嘆いたのは、あくまで実験をやり損ねたためであった。一滴ずつ様子を見ながら落とすつもりだった血液を、地震の拍子にいきなり全部カルスの上にぶちまけてしまったのである。鬼童の血で真っ赤に染まったカルスと寒天培地。しかしそれは、落胆する鬼童の前で思いも寄らぬ変化を起こした。カルスを没するほどに溜まった赤い液体が、まるで乾いたスポンジに遭遇したように急速に消えていったのである。
「!」
その瞬間、リストバンドで固定していた簡易精神エネルギー測定装置がこうるさい警報音を鳴らして鬼童の心臓を蹴り上げた。がちゃん! とガラス容器が乱暴な扱いに抗議の悲鳴を上げるのを無視して、鬼童は測定装置の表示に目をやり、再度心臓が高鳴るのを覚えた。
(凄い! 凄いエネルギー量だ! あの夢見人形に匹敵するぞ!)
やはりそうだったのだ、と鬼童は自分の読みの正しさを知った。白いサボテンは明らかに血を欲している。それも人間の血を。それが与えられた時、ただの植物ではないその本来の力を発揮して、奇跡を起こすのだろう。鬼童の血液を吸収して三倍ほどに膨れ上がった白いカルスを見て、鬼童は更に血液を注入する事を決意した。
「ほんまにやんのか? 鬼童」
もう何度目か数える気にもならない質問が、また鬼童に注がれた。
「ああ。馬鹿げていると思うかも知れないが、やってみる価値は絶対にある」
鬼童が確信を持ってこれも質問と同じ回数の回答を返すと、これまた同じ回数のため息と共に、少しずつ実験の準備が整えられていく。
「これでええ。後は採るだけやで」
チューブを巻き終えた北岡は、医学部の知り合いから分けて貰った滅菌済みの採血用注射器と、真空採血管を鬼童に手渡した。
「お前さんの強情さにはほんま呆れるわ。こんなあほな事思いつくとこも、昔からちっとも変わらん」
「それに付き合ってくれる君もな」
ひとしきり笑顔で向き合うと、鬼童は早速実験材料の調達にかかった。左肘の内側を軽く二、三度叩き、浮き上がった静脈の位置を確かめる。次いで70%エタノールをしみこませた脱脂綿で膨らみ周辺を拭いて殺菌すると、北岡から受け取った注射器の針カバーを取り除き、その左腕の盛り上がりに針を当てがった。
「お前さん、自分で採血した経験あるのか?」
鬼童のぎこちなさに不安を覚えた北岡が問うと、当然無い、と鬼童は答えた。
「だが、健康診断の度にちゃんと見ているよ」
見ただけでちゃんと出来るもんやないで、と北岡が愚痴るのを後目に、鬼童は針を皮膚に突き刺した。ぴりっとした痛みが肘に走るが、実験のためにはこれくらい何と言う事もない。鬼童は、充分針が侵入した事を確かめると、真空採血管を注射器のシリンダーに差し込んだ。途端にやや黒みがかった静脈血が、採血管内へ吹き出すように溜まっていく。見よう見まねのくせに一発で静脈を探り当てた鬼童に、やっぱりこいつは天才か、と北岡が感心するのも束の間、採血を終えた鬼童は、片手で器用に採血管を抜き取ると、傍らの試験管立てに入れた。
「これでよし」
注射針を抜いて絆創膏を貼り付けた鬼童は、その試験管立てを実験台に移した。そこには既に、培養カルスの入ったフラスコが、鬼童の血液を待っていた。鬼童は少量の液体を正確に計測、採取できるピペッターと言う器具を使い、自分の血液を採血管から吸い出した。そして、フラスコの口を閉じているアルミ箔のふたを取った。その傍らで、あほな事を、と言う目をしながらもじっと見守る北岡が居る。今更言う事もない北岡ではあるが、この部屋で行われる実験である以上、それを見届ける責任がある、と夜遅くまで付き合っているのである。
「では、入れるぞ」
鬼童は慎重にピペッターの先をフラスコに入れると、カルスの真上で血液を押し出すためのボタンにかかった右手親指に、力を入れた。
鬼童がこの実験を思いついたのは、既に昨日になった朝、例の白いサボテンが朝日に焼失した直後の事であった。白いサボテンの発芽は、多分美衆恭子の血液が関与しているに違いない・・・。実際、鬼童がその幼苗を発見したのは飛び散った恭子の動脈血がかかった砂金の部分でだけだった。あとは、堅い種子のままだったのだ。それにもし北岡の言う通りこのサボテンはアルビノで自ら栄養分を生み出す事が出来ず、そのままでは早晩枯れてしまうしかない、と言う事なら、発芽したのも鬼童が発見する直後だったと考えられる。そのきっかけは何かと考えれば、やはり恭子の血の事に思いをはせるのが妥当だろう。つまりこのサボテンは、人間の血液にその生育を依存していると考えられる訳である。従って今培養中の細胞塊に血液を与えてみれば、ひょっとして何か変化が現れるかも知れない。あの精神エネルギーが観測できるかも知れないのだ。こうして鬼童は手早く計画をまとめると、北岡に協力を願った。北岡は、一言の元にその計画の馬鹿馬鹿しさをあげつらったが、鬼童の熱心な「頼む」を何度も聞き、結局協力する事になったのである。
こうしてついに鬼童がその一滴目で白いカルスを赤く染めようとしたその時だった。
「あっ! しまった!」
突然、足元のコンクリートに巨大なハンマーが撃ちつけられたような衝撃が走り、床を大波のように揺れ動かした。戸棚のガラス器具が激しくぶつかり合い、何枚かの窓ガラスが、振動に耐えかねて派手な悲鳴を上げて割れ砕けた。電線を絶たれたのか、室内の電灯が一斉に明滅して消え、夜明け前の闇が、破壊された窓からたちまち室内に充満した。
だが、鬼童が驚き嘆いたのは、あくまで実験をやり損ねたためであった。一滴ずつ様子を見ながら落とすつもりだった血液を、地震の拍子にいきなり全部カルスの上にぶちまけてしまったのである。鬼童の血で真っ赤に染まったカルスと寒天培地。しかしそれは、落胆する鬼童の前で思いも寄らぬ変化を起こした。カルスを没するほどに溜まった赤い液体が、まるで乾いたスポンジに遭遇したように急速に消えていったのである。
「!」
その瞬間、リストバンドで固定していた簡易精神エネルギー測定装置がこうるさい警報音を鳴らして鬼童の心臓を蹴り上げた。がちゃん! とガラス容器が乱暴な扱いに抗議の悲鳴を上げるのを無視して、鬼童は測定装置の表示に目をやり、再度心臓が高鳴るのを覚えた。
(凄い! 凄いエネルギー量だ! あの夢見人形に匹敵するぞ!)
やはりそうだったのだ、と鬼童は自分の読みの正しさを知った。白いサボテンは明らかに血を欲している。それも人間の血を。それが与えられた時、ただの植物ではないその本来の力を発揮して、奇跡を起こすのだろう。鬼童の血液を吸収して三倍ほどに膨れ上がった白いカルスを見て、鬼童は更に血液を注入する事を決意した。