(こいつは!)
より鋭さと圧力を増した殺気が公綱を包み込んだ。そうと覚悟してなかったならば、さしもの公綱でさえ足がわななくのを押さえ切れなかったかもしれない。公綱はにじり寄るように足を前に出し、腰だめに太刀のつかを握りしめた。その目の前に、霧をまとわりつかせた巨大な影がわだかまっている。幅、背丈も明らかに公綱より二回りは大きい。全身から吹き出るような殺気が、恐らくは目玉であろう、横並びで光る玉に収束し、無形の矢と化して一直線に公綱へ射込まれてくる。その殺気をいや増しに増幅するかのように、微妙に霧を震わせる低音のうなり声が公綱の耳に届いた。
猫のようでもあるが、その野太さや迫力は、とても猫の比ではない。あるいはこれが虎というものか、と公綱は額に脂汗を吹きつつ、太刀の鯉口を切った。その、金属が打ちあう小さく鋭い音を待っていたかのように、公綱目掛けて黒い影が飛び掛かった。一瞬遅れて、公綱の太刀が鞘走った。
がっ!
その衝撃は、まさか刀が折れたのでは、と一瞬悲鳴を上げかけた程、強烈に公綱の腕へ襲いかかった。闇の中でもはっきりそれと判る真っ赤な舌と、一咬みで相手を絶命させ得る鋭く巨大な牙が、つば際をがっちりと押さえ込み、公綱の喉笛に食らい付こうと強引に押し込んでくる。それを公綱は、両の手に満身の力をこめてひたすら耐えた。
(引けば命はない)
公綱は、ぎりぎりの命のやりとりの中で、その昔猟師に聞いた話を思い出していた。
「犬に咬まれたときは、決して引いてはならぬ。引けば牙が肉に食い込み、犬も放すまいと必死になる。もし早く離したいと思うなら、引くのではなく、むしろ押し込むのだ。さすれば犬も苦しがって、おのずと口を開く」
公綱は、その記憶が正しいことを祈りつつ、しゃにむに刀を押し込んだ。この思いもよらぬ抵抗に、相手の巨獣も心底面食らった様子だった。巨獣は、公綱が逃げ腰になったところを追いすがり、一撃で首を食い千切ってやるつもりだったのだ。所が相手は逃げるどころが予想外の膂力で自分の突進を受けとめ、更にその太刀をぐいぐいと押し込んでくるのである。それでも強引に押しつぶそうと力を込めかけたその時だった。
「お止めなさい、以呂波」
周りの空気も火を噴こうかという緊張の糸を、小さな声が断ち切った。それは決して怒鳴り付けるような調子ではなく、むしろやさしささえ感じさせる声だったが、それを聞いた巨獣は、まるで鞭でも当てられたように一瞬で二間も飛び下がった。予想もしない後退に、公綱は反撃の機会を捕らえ損なった。だが、公綱にしてみれば相手が下がった事で満足せねばならなかっただろう。よく見れば、公綱自慢の太刀はあの牙に噛み砕かれ、ほとんどちぎれそうになるくらいに破壊されていたのである。
「貴方は先程の・・・」
「四位少将平智盛の家人、築山次郎公綱と申す」
既に鞘に戻せなくなった刀を握ったまま、公綱は答えた。その目の前で、靄の中から湧き出るように一人の少女の姿が現れた。その傍らに、寄り添うようにして先程まで公綱とやりあっていた巨獣がうずくまっている。互いの大きさからすれば、少女の姿などその巨体の影に埋没してしまうようにしか見えないが、公綱には、巨獣のほうこそが少女の影に隠れるように見えた。それほど、娘の存在感は際立っており、公綱は、以呂波の殺気とはまるで違う威圧を覚え、自然に片膝を降ろしていた。
(智盛様に似ている)
公綱は、外柔内剛の典型のような自分の主を、目の前の少女に重ねあわせた。
「築山殿、貴方が何故私の後を追って参られたのか、は、敢えて問いません。ですが、これ以上はお命にかかわります。どうぞ、お引き取りください」
普通なら、そんな言われようをされればかえって反発して意地でもついて行くという公綱である。だが、公綱は、娘の目に秘められた威厳に抵抗することができなかった。否、既に抵抗する気すら失っていたというほうが正しいであろう。巨獣が娘の前ではまるで子猫同然におとなしくなるのも道理だ、と、公綱は思った。
「我が主に復命いたさねばなりません。貴女の本当のお名前と、どちらにお住まいかを教えていただけぬか」
「それはできません」
娘はきっぱりと公綱の要求を拒んだ。
「早々にお引取を」
取りつくしまが無い。公綱はあきらめるよりないか、と観念した。以呂波が歯を剥いて唸ったのも、公綱の決断を促した。もっとも唸った瞬間に娘に睨みつけられ、以呂波はその巨体を一段と縮こませてしまったが。公綱はそんな外観からは想像もできない巨獣の愛らしい仕草に思わず笑みを浮かべたが、次の瞬間、その口元のほころびが凍り付いた。
第2章その3に続く。
より鋭さと圧力を増した殺気が公綱を包み込んだ。そうと覚悟してなかったならば、さしもの公綱でさえ足がわななくのを押さえ切れなかったかもしれない。公綱はにじり寄るように足を前に出し、腰だめに太刀のつかを握りしめた。その目の前に、霧をまとわりつかせた巨大な影がわだかまっている。幅、背丈も明らかに公綱より二回りは大きい。全身から吹き出るような殺気が、恐らくは目玉であろう、横並びで光る玉に収束し、無形の矢と化して一直線に公綱へ射込まれてくる。その殺気をいや増しに増幅するかのように、微妙に霧を震わせる低音のうなり声が公綱の耳に届いた。
猫のようでもあるが、その野太さや迫力は、とても猫の比ではない。あるいはこれが虎というものか、と公綱は額に脂汗を吹きつつ、太刀の鯉口を切った。その、金属が打ちあう小さく鋭い音を待っていたかのように、公綱目掛けて黒い影が飛び掛かった。一瞬遅れて、公綱の太刀が鞘走った。
がっ!
その衝撃は、まさか刀が折れたのでは、と一瞬悲鳴を上げかけた程、強烈に公綱の腕へ襲いかかった。闇の中でもはっきりそれと判る真っ赤な舌と、一咬みで相手を絶命させ得る鋭く巨大な牙が、つば際をがっちりと押さえ込み、公綱の喉笛に食らい付こうと強引に押し込んでくる。それを公綱は、両の手に満身の力をこめてひたすら耐えた。
(引けば命はない)
公綱は、ぎりぎりの命のやりとりの中で、その昔猟師に聞いた話を思い出していた。
「犬に咬まれたときは、決して引いてはならぬ。引けば牙が肉に食い込み、犬も放すまいと必死になる。もし早く離したいと思うなら、引くのではなく、むしろ押し込むのだ。さすれば犬も苦しがって、おのずと口を開く」
公綱は、その記憶が正しいことを祈りつつ、しゃにむに刀を押し込んだ。この思いもよらぬ抵抗に、相手の巨獣も心底面食らった様子だった。巨獣は、公綱が逃げ腰になったところを追いすがり、一撃で首を食い千切ってやるつもりだったのだ。所が相手は逃げるどころが予想外の膂力で自分の突進を受けとめ、更にその太刀をぐいぐいと押し込んでくるのである。それでも強引に押しつぶそうと力を込めかけたその時だった。
「お止めなさい、以呂波」
周りの空気も火を噴こうかという緊張の糸を、小さな声が断ち切った。それは決して怒鳴り付けるような調子ではなく、むしろやさしささえ感じさせる声だったが、それを聞いた巨獣は、まるで鞭でも当てられたように一瞬で二間も飛び下がった。予想もしない後退に、公綱は反撃の機会を捕らえ損なった。だが、公綱にしてみれば相手が下がった事で満足せねばならなかっただろう。よく見れば、公綱自慢の太刀はあの牙に噛み砕かれ、ほとんどちぎれそうになるくらいに破壊されていたのである。
「貴方は先程の・・・」
「四位少将平智盛の家人、築山次郎公綱と申す」
既に鞘に戻せなくなった刀を握ったまま、公綱は答えた。その目の前で、靄の中から湧き出るように一人の少女の姿が現れた。その傍らに、寄り添うようにして先程まで公綱とやりあっていた巨獣がうずくまっている。互いの大きさからすれば、少女の姿などその巨体の影に埋没してしまうようにしか見えないが、公綱には、巨獣のほうこそが少女の影に隠れるように見えた。それほど、娘の存在感は際立っており、公綱は、以呂波の殺気とはまるで違う威圧を覚え、自然に片膝を降ろしていた。
(智盛様に似ている)
公綱は、外柔内剛の典型のような自分の主を、目の前の少女に重ねあわせた。
「築山殿、貴方が何故私の後を追って参られたのか、は、敢えて問いません。ですが、これ以上はお命にかかわります。どうぞ、お引き取りください」
普通なら、そんな言われようをされればかえって反発して意地でもついて行くという公綱である。だが、公綱は、娘の目に秘められた威厳に抵抗することができなかった。否、既に抵抗する気すら失っていたというほうが正しいであろう。巨獣が娘の前ではまるで子猫同然におとなしくなるのも道理だ、と、公綱は思った。
「我が主に復命いたさねばなりません。貴女の本当のお名前と、どちらにお住まいかを教えていただけぬか」
「それはできません」
娘はきっぱりと公綱の要求を拒んだ。
「早々にお引取を」
取りつくしまが無い。公綱はあきらめるよりないか、と観念した。以呂波が歯を剥いて唸ったのも、公綱の決断を促した。もっとも唸った瞬間に娘に睨みつけられ、以呂波はその巨体を一段と縮こませてしまったが。公綱はそんな外観からは想像もできない巨獣の愛らしい仕草に思わず笑みを浮かべたが、次の瞬間、その口元のほころびが凍り付いた。
第2章その3に続く。
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