凪の砂浜に、幾筋かの煙が音もなく昇っていく。
盛大に燃え盛った炎も今はくすぶるばかりに鎮まり、大海の彼方に消えていく真っ赤な太陽には到底抗すべくもない。だが、さすがにこの時刻になると、何もかもが目を突く鮮明な原色で彩られた風景も、少し和らいで見えるようだ。
有王は、全てを失い放心した目で、ぼんやりその風景を眺めていた。
一体自分は何のために、こんな人界の果てまで旅してきたのであろう。年明け間もなく都を発ち、途中土賊に襲われたり荒れた海に放り出されそうになる恐怖を超えて、四月の初めになってようやくたどり着いた結果が、この荼毘であった。
結局間に合わなかったのだ。
有王は急にこみあげてきた悲しみに、懐の錦の小袋を衣の上から握り込んだ。それは、主がいまわの際に有王に託した、文字通りの形見であった。だが、そうしていても悲しみは収まらなかった。いや、一層あの優しげな笑顔が脳裏に浮かび、有王の目から止めどなく涙が溢れ出るばかりだ。
やがて凪の時間が終わり、動き始めた陸風に煙りが西の海へと漂いだした。有王は、その煙が西の果てにあるという浄土まで届くよう、亡き主のために手を合わせ、嗚咽を漏らしてむせび泣いた。
主の名は、俊寛という。
平相国清盛公の引き立てで法勝寺の執行(しつぎょう)に成り上がり、権勢を揮った僧侶である。ところが、東山の麓、鹿ケ谷(ししがだに)にある山荘を後白河法皇に提供したのが運の尽きとなった。清盛の専横を憎む法皇が、清盛打倒の陰謀をめぐらせる不満分子の巣窟として、この山荘を利用したのである。しかし、貴族連中の立てたあまりに非現実的な計画に、敗滅を予測した身内の一人が裏切った。この背反によって世に言う鹿ケ谷の謀議はあっけなく露見し、真の首謀者、後白河法皇は下々の者に罪をなすりつけ、多数の高位高官が捕縛、処刑された。その内、俊寛、平康頼、藤原成経の三名の者は、薩摩国より更に海を隔てて十里ばかりの洋上に浮かぶ小島、鬼界ケ島(現大隅諸島・硫黄島)に流罪となった。時に治承元年(1177年)6月のことである。だが、この南海の孤島で、ただ朽ち果てるのを待つばかりだった三人の運命は、翌年にわかに急転した。清盛の娘で高倉天皇に嫁していた中宮権礼門院が、子供を宿したのである。この吉事を祝って天下に大赦が行なわれ、鬼界ケ島の流人も許されることになった。
一人、俊寛を除いては。
基本的に清盛は寛大な性格である。下々の者に対する気配りも細やかで情に満ち、ために清盛のためなら我が身を投げ出してもかまわない、とする郎党達にも恵まれていた。
その一方で、裏切り者に対する憤りは常軌を逸している。普通、罪も同じ、罰も同じという三人は、許すのなら三人まとめて、というのが常識的な処置であり、公卿の詮議もそう決まりかけていた。その至極当然の処置を、清盛は一蹴してひっくり返した。清盛には、俊寛には特に目をかけて援助を惜しまず、取り立ててやったという自負がある。それなのに、鹿ヶ谷の陰謀に加わるという裏切りをしたことを、清盛はけして許さなかった。一人辺境の地に残された俊寛の悲哀と絶望はいかばかりのことであったろう。そして有王もまた、そのために深い失望を味わったのである。
有王にとって、俊寛は慈愛溢れる、尊敬するに足る主であった。稚児として仕えて以来二〇の今日まで受けた恩義は数知れない。結局、散々思い詰めた上、都での生活や親兄弟も捨てて俊寛を探しに行く決心をしたのも、そんな主に今一度会いたい、という真摯な想いに突き動かされたからである。
だが、遅かった。
治承三年四月、生死の境を綱渡ってようやくの思いでたどり着いた異郷の地は、都の生活に慣れた主の生命力を、三年足らずの間に貪り尽くしていたのである。
散々探してようやく主と対面したとき、有王はそれが主だとは気付かなかった。皮がたるんではっきり骨が浮き出るほどに痩せ細った体に、元は何だったのかほとんど判別できないまでに汚れ、裂けちぎれたぼろを纏った姿。それが有王の目に映った変わり果てた主の姿だった。既に四肢に力なく、病み衰えていた俊寛は、有王がはるばる尋ねてきたという喜びに体が耐えられず、その場で昏倒して有王を驚かせた。その後何とか息を吹き返しはしたが、その後の余命はほとんど残っていなかった。甲斐甲斐しく介抱の手を差し伸べた有王の目の前で、再会23日後の今日、俊寛は息を引き取ったのである。
序章その2へ続く。
盛大に燃え盛った炎も今はくすぶるばかりに鎮まり、大海の彼方に消えていく真っ赤な太陽には到底抗すべくもない。だが、さすがにこの時刻になると、何もかもが目を突く鮮明な原色で彩られた風景も、少し和らいで見えるようだ。
有王は、全てを失い放心した目で、ぼんやりその風景を眺めていた。
一体自分は何のために、こんな人界の果てまで旅してきたのであろう。年明け間もなく都を発ち、途中土賊に襲われたり荒れた海に放り出されそうになる恐怖を超えて、四月の初めになってようやくたどり着いた結果が、この荼毘であった。
結局間に合わなかったのだ。
有王は急にこみあげてきた悲しみに、懐の錦の小袋を衣の上から握り込んだ。それは、主がいまわの際に有王に託した、文字通りの形見であった。だが、そうしていても悲しみは収まらなかった。いや、一層あの優しげな笑顔が脳裏に浮かび、有王の目から止めどなく涙が溢れ出るばかりだ。
やがて凪の時間が終わり、動き始めた陸風に煙りが西の海へと漂いだした。有王は、その煙が西の果てにあるという浄土まで届くよう、亡き主のために手を合わせ、嗚咽を漏らしてむせび泣いた。
主の名は、俊寛という。
平相国清盛公の引き立てで法勝寺の執行(しつぎょう)に成り上がり、権勢を揮った僧侶である。ところが、東山の麓、鹿ケ谷(ししがだに)にある山荘を後白河法皇に提供したのが運の尽きとなった。清盛の専横を憎む法皇が、清盛打倒の陰謀をめぐらせる不満分子の巣窟として、この山荘を利用したのである。しかし、貴族連中の立てたあまりに非現実的な計画に、敗滅を予測した身内の一人が裏切った。この背反によって世に言う鹿ケ谷の謀議はあっけなく露見し、真の首謀者、後白河法皇は下々の者に罪をなすりつけ、多数の高位高官が捕縛、処刑された。その内、俊寛、平康頼、藤原成経の三名の者は、薩摩国より更に海を隔てて十里ばかりの洋上に浮かぶ小島、鬼界ケ島(現大隅諸島・硫黄島)に流罪となった。時に治承元年(1177年)6月のことである。だが、この南海の孤島で、ただ朽ち果てるのを待つばかりだった三人の運命は、翌年にわかに急転した。清盛の娘で高倉天皇に嫁していた中宮権礼門院が、子供を宿したのである。この吉事を祝って天下に大赦が行なわれ、鬼界ケ島の流人も許されることになった。
一人、俊寛を除いては。
基本的に清盛は寛大な性格である。下々の者に対する気配りも細やかで情に満ち、ために清盛のためなら我が身を投げ出してもかまわない、とする郎党達にも恵まれていた。
その一方で、裏切り者に対する憤りは常軌を逸している。普通、罪も同じ、罰も同じという三人は、許すのなら三人まとめて、というのが常識的な処置であり、公卿の詮議もそう決まりかけていた。その至極当然の処置を、清盛は一蹴してひっくり返した。清盛には、俊寛には特に目をかけて援助を惜しまず、取り立ててやったという自負がある。それなのに、鹿ヶ谷の陰謀に加わるという裏切りをしたことを、清盛はけして許さなかった。一人辺境の地に残された俊寛の悲哀と絶望はいかばかりのことであったろう。そして有王もまた、そのために深い失望を味わったのである。
有王にとって、俊寛は慈愛溢れる、尊敬するに足る主であった。稚児として仕えて以来二〇の今日まで受けた恩義は数知れない。結局、散々思い詰めた上、都での生活や親兄弟も捨てて俊寛を探しに行く決心をしたのも、そんな主に今一度会いたい、という真摯な想いに突き動かされたからである。
だが、遅かった。
治承三年四月、生死の境を綱渡ってようやくの思いでたどり着いた異郷の地は、都の生活に慣れた主の生命力を、三年足らずの間に貪り尽くしていたのである。
散々探してようやく主と対面したとき、有王はそれが主だとは気付かなかった。皮がたるんではっきり骨が浮き出るほどに痩せ細った体に、元は何だったのかほとんど判別できないまでに汚れ、裂けちぎれたぼろを纏った姿。それが有王の目に映った変わり果てた主の姿だった。既に四肢に力なく、病み衰えていた俊寛は、有王がはるばる尋ねてきたという喜びに体が耐えられず、その場で昏倒して有王を驚かせた。その後何とか息を吹き返しはしたが、その後の余命はほとんど残っていなかった。甲斐甲斐しく介抱の手を差し伸べた有王の目の前で、再会23日後の今日、俊寛は息を引き取ったのである。
序章その2へ続く。
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