煙る様な春雨が、都大路を静かに湿らせていく。その空気を淡く染めるのは、今を盛りと花開き、その花弁をゆらゆらとあるかなきかの風に乗せる桜達である。
行く先も来た道もおぼろにかすむ七条大路を、一両の牛車が物憂げに進む。
周囲を狩装束の侍が手に手に長刀や弓矢を携えて20人ばかり固めているが、それでも牛車に収まる人物のことを思えば、質素な警固といえたやもしれない。そんな一行を束ねる平家恩顧の侍、築山公綱(つくやまきんつな)は、何があっても離れまい、と心に決めた牛車から、また溜息が洩れるのを聞いて正直気の滅入る思いを持て余していた。
(また花が咲いた)
と、中の主は思っているに違いない。
日頃は快活な主が、何故かこの季節にだけ、まさに春たけなわとなって世界が明るさを増す桜の季節に限って、深窓の公家人形のように溜息だけを身にまとい、憂愁に埋もれてしまうのだ。生まれながらの貴公子然とした風貌が憂いを帯びるものだから、この時期の主は宮中の女達の話題を独占してしまう。主第一の公綱にとってそれ自体は別に気に障ることではないのだが、公綱の知る主の本当の美しさは、そんな春雨の似合う柔若な姿ではなかった。
(見せてやれるものなら見せてやりたい)
公綱は、女達が頬を染めてうっとり主を眺めるのを見るたび、そう怒鳴りつけてやりたくなることがあった。そのたびに公綱は、
(まあ見ていよ、今にその真価を披露するときもこようて)
と、苦虫を噛み潰して我慢してきたのである。
公綱の知る「真の姿」とはこうである。
雲一つ無い青空を背に、降り注ぐ陽光でその白銀造りの大鎧を燦然と輝かせて馬にまたがるその姿。初めてその神々しき姿をまのあたりにした時、公綱は、まさに軍神が降臨したのだと信じた。そして、乳母子としてそんな主と肩を並べ、先頭切って敵陣に吶喊した時、公綱は、生まれて初めて至福の時というものが実在することを知った。この君とともになら、源氏など一なぎで打ち倒せる、と確信したものである。
が、あの時の昂揚感は、今はない。今、公綱とともにあるのは、主と知らなければはり倒したくなるような、理想からほど遠い姿をさらす抜け殻だった。
(大体、この牛車も悪いのだ)
公綱は自分の苛立ちを、左脇でのろのろと歩む牛車にも向けた。そろそろ六波羅の邸宅を出て、鴨川を渡ってから半時は経っている。馬ならば、ほんの瞬く間の距離だ。いや、事実ついこの間までは、公綱も騎上の人となり、
「遅れるな!」
と笑顔で叱咤する主を追って、都大路を駆け巡ったものである。
だが、それを咎め立てる者が出た。今をときめく平氏の御曹司が、そのようなはしたない振る舞いをなされるのはどうか、と。以来主は他のやんごとなき方々同様、普段の外出には牛車を用いるようになった。当然その歩みは牛にあわさざるを得ない。
牛を扱う童子は、匂丸という名のなかなか気働きのきく子供である。
三年前のやはり桜の時分、六幡羅の邸の前に行き倒れていたのを公綱が拾い上げ、勘の良さに感心した主によって身近く使われている。主が牛車を使うようになってからは、その口取りもするようになった。この童子のおかげで牛の歩みも相当ましなものになっているはずなのだが、どんなに急ごうとも、馬と比べられるものではない。その間の抜けたのんびりさ加減が、否応にも公綱の苛立ちを掻き立てるのである。
(おのれ、要らざる口を挟みよって)
公綱は、苛立ちを牛車にぶつけるたび、したり顔で諌言した初老の貴族の顔を思い出し、その白粉で固めた化け物のような面を頭の中で散々に打擲(ちょうちゃく)して憂さを晴らした。もし公綱にその心得があったなら、呪(しゅ)の一つも送って、この世から抹殺してやりたいとも思った位なのだ。
こうして公綱が、主の溜息に自分まで感染しそうになりながら憂鬱な歩みを運んでいた時、すぐ前を行く匂丸が、うつむき加減の顔を上げ、公綱に振り向いた。
「公綱様、喧嘩だ」
「なに?」
匂丸の呼び掛けに公綱もまた顔を上げた。それでもしばらくはそのまま何事もなく一行は進んだが、やがて前方がにわかに騒がしさを増し、夢のように霞む桜と春雨を透かして、大勢の人が背中を向けて道を塞いでいるのが見えてきた。
(市の辺りだな)
公綱は事前に報せてくれた匂丸へ軽く礼を言った。喧嘩など不快以外の何物でもないが、あらかじめ匂丸が報せてくれるおかげで、少し余裕を持って事態を迎えることが出来る。この童子は、勘の良さ、というには少しばかり過ぎた質のものを持っているらしく、よくこのようにまだ見えない前方の不穏な空気を読んだり、未来のことを言い当てたりすることがあった。陰陽師に聞きかじったところでは、見鬼とか言う能力だそうだが、なにはともあれ、この力は公綱も何かと重宝していた。
とりあえずは確かめぬと。
公綱は手近な郎党を一人走らせた。そしていくばくもせず戻った郎党が喧嘩だと注進した時、判っていたこととはいえ、公綱はあからさまに顔をしかめた。
第1章 その2に続く。
行く先も来た道もおぼろにかすむ七条大路を、一両の牛車が物憂げに進む。
周囲を狩装束の侍が手に手に長刀や弓矢を携えて20人ばかり固めているが、それでも牛車に収まる人物のことを思えば、質素な警固といえたやもしれない。そんな一行を束ねる平家恩顧の侍、築山公綱(つくやまきんつな)は、何があっても離れまい、と心に決めた牛車から、また溜息が洩れるのを聞いて正直気の滅入る思いを持て余していた。
(また花が咲いた)
と、中の主は思っているに違いない。
日頃は快活な主が、何故かこの季節にだけ、まさに春たけなわとなって世界が明るさを増す桜の季節に限って、深窓の公家人形のように溜息だけを身にまとい、憂愁に埋もれてしまうのだ。生まれながらの貴公子然とした風貌が憂いを帯びるものだから、この時期の主は宮中の女達の話題を独占してしまう。主第一の公綱にとってそれ自体は別に気に障ることではないのだが、公綱の知る主の本当の美しさは、そんな春雨の似合う柔若な姿ではなかった。
(見せてやれるものなら見せてやりたい)
公綱は、女達が頬を染めてうっとり主を眺めるのを見るたび、そう怒鳴りつけてやりたくなることがあった。そのたびに公綱は、
(まあ見ていよ、今にその真価を披露するときもこようて)
と、苦虫を噛み潰して我慢してきたのである。
公綱の知る「真の姿」とはこうである。
雲一つ無い青空を背に、降り注ぐ陽光でその白銀造りの大鎧を燦然と輝かせて馬にまたがるその姿。初めてその神々しき姿をまのあたりにした時、公綱は、まさに軍神が降臨したのだと信じた。そして、乳母子としてそんな主と肩を並べ、先頭切って敵陣に吶喊した時、公綱は、生まれて初めて至福の時というものが実在することを知った。この君とともになら、源氏など一なぎで打ち倒せる、と確信したものである。
が、あの時の昂揚感は、今はない。今、公綱とともにあるのは、主と知らなければはり倒したくなるような、理想からほど遠い姿をさらす抜け殻だった。
(大体、この牛車も悪いのだ)
公綱は自分の苛立ちを、左脇でのろのろと歩む牛車にも向けた。そろそろ六波羅の邸宅を出て、鴨川を渡ってから半時は経っている。馬ならば、ほんの瞬く間の距離だ。いや、事実ついこの間までは、公綱も騎上の人となり、
「遅れるな!」
と笑顔で叱咤する主を追って、都大路を駆け巡ったものである。
だが、それを咎め立てる者が出た。今をときめく平氏の御曹司が、そのようなはしたない振る舞いをなされるのはどうか、と。以来主は他のやんごとなき方々同様、普段の外出には牛車を用いるようになった。当然その歩みは牛にあわさざるを得ない。
牛を扱う童子は、匂丸という名のなかなか気働きのきく子供である。
三年前のやはり桜の時分、六幡羅の邸の前に行き倒れていたのを公綱が拾い上げ、勘の良さに感心した主によって身近く使われている。主が牛車を使うようになってからは、その口取りもするようになった。この童子のおかげで牛の歩みも相当ましなものになっているはずなのだが、どんなに急ごうとも、馬と比べられるものではない。その間の抜けたのんびりさ加減が、否応にも公綱の苛立ちを掻き立てるのである。
(おのれ、要らざる口を挟みよって)
公綱は、苛立ちを牛車にぶつけるたび、したり顔で諌言した初老の貴族の顔を思い出し、その白粉で固めた化け物のような面を頭の中で散々に打擲(ちょうちゃく)して憂さを晴らした。もし公綱にその心得があったなら、呪(しゅ)の一つも送って、この世から抹殺してやりたいとも思った位なのだ。
こうして公綱が、主の溜息に自分まで感染しそうになりながら憂鬱な歩みを運んでいた時、すぐ前を行く匂丸が、うつむき加減の顔を上げ、公綱に振り向いた。
「公綱様、喧嘩だ」
「なに?」
匂丸の呼び掛けに公綱もまた顔を上げた。それでもしばらくはそのまま何事もなく一行は進んだが、やがて前方がにわかに騒がしさを増し、夢のように霞む桜と春雨を透かして、大勢の人が背中を向けて道を塞いでいるのが見えてきた。
(市の辺りだな)
公綱は事前に報せてくれた匂丸へ軽く礼を言った。喧嘩など不快以外の何物でもないが、あらかじめ匂丸が報せてくれるおかげで、少し余裕を持って事態を迎えることが出来る。この童子は、勘の良さ、というには少しばかり過ぎた質のものを持っているらしく、よくこのようにまだ見えない前方の不穏な空気を読んだり、未来のことを言い当てたりすることがあった。陰陽師に聞きかじったところでは、見鬼とか言う能力だそうだが、なにはともあれ、この力は公綱も何かと重宝していた。
とりあえずは確かめぬと。
公綱は手近な郎党を一人走らせた。そしていくばくもせず戻った郎党が喧嘩だと注進した時、判っていたこととはいえ、公綱はあからさまに顔をしかめた。
第1章 その2に続く。
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