散歩の途中でのスナップ。携帯替えてから普段の写真はiPhoneXs。 CanonEOS6D FUJI X70はサブに
散歩の途中で… お腹がすいたよ~♪
冷やしぶっかけ 野菜天そば @美蕎
先ほどの記事にも書きましたが、今日は本当に不安定な空模様。
今し方コンビニで用足ししてたら、突然の豪雨!
暫時雨宿りして、美蕎にやって来ました♪
いただいたのは 4種類の野菜天に玉子を添えた「冷やしぶっかけ」
まずは、上に載ったささがき牛蒡を一かじり♪
仄かに土の香りが感じられるような、優しい味です。
椎茸や南瓜、薩摩芋も、さっくり揚がって 美味しい♪
続いて、お蕎麦を手繰ると秋蕎麦のいい香り!
丁度食べ終えた頃に 蕎麦湯と蕎麦湯用の蕎麦猪口が出てくるなど、気配りも嬉しい美蕎でした。
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「南相馬市」に行ってきました
今日の東京は薄曇り
日本列島を通過する寒冷前線の影響で、ところにより雷雨もあるという不安定な空模様です。
福島第一原発の放射能の影響で、福島県は他県に比べても大幅に復興が遅れていると聞いていますが、実際に自分たちの目でみて、何ができるか考えてみようと、21日の日曜日から、地域の仲間たちと福島に行ってきました。
新幹線で福島駅について、以前からご縁のあった南相馬市にバスで移動。
途中の川俣村では、ちょうど稲刈りを終えた稲わらが干されていて、のどかな日本の農村の風景が広がっていますが、学校をみるとチョッと窮屈。
それもそのはずで、川俣村には、飯館村の草野・飯樋・臼石の3つの小学校が仮設校舎を建てて、応急復興住宅からバスなどを使って通学しています。
いまだに全村避難が続く飯舘村に入ると、目に飛び込んでくるのが耕作を放棄され、雑草が生い茂った田畑…
写真は臼石小学校 児童は誰もいません。
家々はカーテンが引かれ、スーパーやGSの入口には車止めが置かれ、時々とおるパトカーと消防署を別にして、人影はありません。
飯館を抜けて南相馬市に入ると、「普通」の生活が広がっています。
南相馬市は平成18年1月に、旧小高町、旧鹿島町、旧原町市の1市2町が合併して誕生した新しいまちですが、旧原町が中心街を形成しています。
原町の海岸線をバスで走るとひと際目立つのは、原町火力発電所。
以前は、苫東厚真などを同様に海外炭を燃していましたが、2010年より燃料に木質バイオマスを混ぜて、環境負荷の低い最新鋭の火力発電所だそうですが、東日本大震災によって被災したため、発電を停止しています。
岸壁にはその時石炭の荷卸しをしていた8万トンの貨物船が座礁したままとなっているのがバスの窓からもうかがえました。
写真は、津波に飲み込まれ100人以上の犠牲者を出した特別養護老人ホーム
重機が入って撤去作業を行っています。
南相馬では、18mもの津波が押し寄せ、540人の方が犠牲になりました。
瓦礫が山積していた海岸線も、現在は瓦礫も種類ごとに区分けされた小高い山となっていますが、いまだに復興の目途は立っていないというのが、率直な感想です。
大震災から1年半を過ぎ、ともすれば夏の「電力不足」の時以外は 記憶も風化しがちですが、まだまだ色々な場面で被災地に思いを馳せていく必要を改めて感じました。
日本列島を通過する寒冷前線の影響で、ところにより雷雨もあるという不安定な空模様です。
福島第一原発の放射能の影響で、福島県は他県に比べても大幅に復興が遅れていると聞いていますが、実際に自分たちの目でみて、何ができるか考えてみようと、21日の日曜日から、地域の仲間たちと福島に行ってきました。
新幹線で福島駅について、以前からご縁のあった南相馬市にバスで移動。
途中の川俣村では、ちょうど稲刈りを終えた稲わらが干されていて、のどかな日本の農村の風景が広がっていますが、学校をみるとチョッと窮屈。
それもそのはずで、川俣村には、飯館村の草野・飯樋・臼石の3つの小学校が仮設校舎を建てて、応急復興住宅からバスなどを使って通学しています。
いまだに全村避難が続く飯舘村に入ると、目に飛び込んでくるのが耕作を放棄され、雑草が生い茂った田畑…
写真は臼石小学校 児童は誰もいません。
家々はカーテンが引かれ、スーパーやGSの入口には車止めが置かれ、時々とおるパトカーと消防署を別にして、人影はありません。
飯館を抜けて南相馬市に入ると、「普通」の生活が広がっています。
南相馬市は平成18年1月に、旧小高町、旧鹿島町、旧原町市の1市2町が合併して誕生した新しいまちですが、旧原町が中心街を形成しています。
原町の海岸線をバスで走るとひと際目立つのは、原町火力発電所。
以前は、苫東厚真などを同様に海外炭を燃していましたが、2010年より燃料に木質バイオマスを混ぜて、環境負荷の低い最新鋭の火力発電所だそうですが、東日本大震災によって被災したため、発電を停止しています。
岸壁にはその時石炭の荷卸しをしていた8万トンの貨物船が座礁したままとなっているのがバスの窓からもうかがえました。
写真は、津波に飲み込まれ100人以上の犠牲者を出した特別養護老人ホーム
重機が入って撤去作業を行っています。
南相馬では、18mもの津波が押し寄せ、540人の方が犠牲になりました。
瓦礫が山積していた海岸線も、現在は瓦礫も種類ごとに区分けされた小高い山となっていますが、いまだに復興の目途は立っていないというのが、率直な感想です。
大震災から1年半を過ぎ、ともすれば夏の「電力不足」の時以外は 記憶も風化しがちですが、まだまだ色々な場面で被災地に思いを馳せていく必要を改めて感じました。
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