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K6で、、、ボジョレー・ヌーヴォー

「ろうじな」さんでお蕎麦をいただいてから、寺町通りを下って木屋町二条東入ルの「K6」さんへ
カウンターに座ってふと気づいたら「今日は11月の第3木曜」、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁日じゃないですか!
普段ボジョレーは置いていないK6ですが尋ねたら、「はい、今日だけはお出ししています。こちらは残り7杯」と言うので「Beaujolais Villajes Primeur 2024 / Leroy」をお願いしました。

お店の方が仰るには、マダム・ルロイはブルゴーニュ随一のテイスティング能力の持ち主だそうで、子どものころはあのDRCの畑で遊んで育った方とか!
プリムール(新酒)にしては、ちょっと高めのお値段でしたが、そこは縁起物!
素敵なグラスで美味しくいただきました

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夜限定の、、、二色盛り @ろうじな

夕ご飯は御所南夷川の「ろうじな」さん
口開けは定番の「酒肴三種盛り」に続いて、、、
「小かぶの天ぷら」「鴨のおろしポン酢」「そばがきの蟹あんかけ」、、、
 
 
 
〆は夜限定の「粗挽き」と普通の「もりそば」の食べ比べができる「二色盛り」
 
 
美味しくいただきました
 
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ネオ・バロック様式が綺麗

宿で一服してから、夕ご飯で御所南夷川へ、、、
以前はもっぱら市バス一日券の利用でしたが、最近は地下鉄・バス1日券。地下鉄とバスを上手に組み合わせると、移動時間が短縮でき効率よく移動できます。

京都駅コンコースの混雑を避け、八条口から御池で乗り換え、市役所前に着く頃はちょうど退庁時刻


ライトアップされたネオ・バロック様式が綺麗

昭和6年8月竣工の現庁舎の設計は、京都市営繕課嘱託職員であった中野進一氏で,氏の師匠であり,「関西建築界の父」とも言われた,顧問の武田五一の監修のもと出来上がったとされています。

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紅葉はまだ、、、京都植物園

東藤ノ森町の「かね井」さんでお昼を済ませ、京都植物園でツレと合流。
まだ紅葉には早い園内を散策

洛中に戻って四条大丸のイノダコーヒで一服


美味しくいただきました

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紫式部と小野 篁

八条口の宿に荷物を預け、ツレとは別行動で堀川鞍馬口までバス移動。目的のお店の開店までちょっと時間があったので、NHKの大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部の墓所に行ってきました

「まひろ」=式部が娘の賢子を育てながら、「源氏物語」や「紫式部日記」「紫式部集」などを執筆したのは「廬山寺」と言われ、いまは御所の東にありますが、同寺の「沿革」によれば、天慶年中(938年~947年)に船岡山の南に創建され、後に応仁の乱で焼失の後、秀吉の都市計画(町割り)で京都御所の東に移転しているんですね!
ですから「道長がこっそりまひろのもとに通って行った…」というのは、ドラマとしてはなかなか面白いところですが、史実はどうやら違うようです

式部は59歳で亡くなるまで廬山寺で暮らしたという説もありますが、晩年は今の紫野一帯に地所があった雲林院百毫院で過ごしたという説が有力。紫式部の「紫」という名前は、皇室や貴族の遊猟地であった紫野からきているとの説もあるそうです。
一方の小野 篁は、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説がある平安時代初期に実在したお公家さん。お能に架空の物語を書いた報いで式部が地獄に堕ちた「源氏供養」という演目があるそうですが、後の世の人々が、小野 篁が冥土通いの井戸から地獄へ降りて式部を助け出し、自分の墓の隣に埋葬した…という説もあるようですが、真相は今でも謎のままです。


式部の墓所

手前には小野 篁

お昼にはちょっと早かったので、創建時の蘆山寺があったという船岡山に行ってみました。紫野の北に位置する標高111.7mの「丘」とでも呼ぶべき小山で、かつて山城があった場所に今は建勲神社(たけいさおじんじゃ)があって、市内を一望できる眺めの良い場所です。残念ながら紅葉には早かったので本殿に手を合わせ、東藤ノ森町の「手打ち蕎麦 かね井」さんに向かいます


「かねい」さんの吊り忍

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ツレのお供で京都まで

今朝の東京は小雨 ☂️ ツレが所用で京都まで行くので、お供で「紅葉狩り」でもしようかな 🍁
 
 
小田原を過ぎた辺りから少しずつ青空が見えてきて、新富士附近の車窓から富士山が
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