人と人とがぶつかり合う、理解し合うという作品は心を揺さぶる。
彼らはパッチギ(頭突き)をし合って、ぶつかり合う。
舞台は1968年の京都。
京都府立高校と朝鮮高校は、毎日のように乱闘騒ぎを起こしている。
相手を血祭りに上げれば、次は自分たちがボコボコにされる繰り返しの毎日。
しかし、彼らは朝鮮人であるために日本人であるために喧嘩をし続ける。
仲間、同胞のために戦い続ける。
それが自分自身である証明だ。
そんな中、ナンパな青年・康介(塩谷瞬)は朝鮮高校のアンソン(高岡蒼佑)の妹・キョンジャ(沢尻エリカ)を好きになってしまう。
しかし、二人の間に日本人と在日朝鮮人という深い河が横たわっているのは変わらない。
ブラスバンドでイムジン河を演奏する姿を康介に見つめられて、キョンジャは拒絶する。
康介はそれでも諦めきれない。
「イムジン河」の歌の由来を聞き、キョンジャの国のことを理解しようとする。
朝鮮語を覚える。
最初は心を閉ざしていたキョンジャだが、「日本人だから」と言って康介を拒絶していたことが根拠のないことだと思うようになる。
ふたりは「イムジン河」によって次第に心を繋げていく。
「イムジン河」を歌うフォーククルセダーズのコンサートに行こうと韓国語で康介はデートに誘う。
その日は公園での兄の送別会があるというキョンジャ。
そこに招待する。
康介は言って最初は拒絶されるが、「イムジン河」を歌うことで受け入れられる。
受け入れられて、共に酒を飲むようになって康介は自分は彼らを理解したと思う。
キョンジャが鴨川でイムジン河をフルートで吹いていると、康介は川を渡ってやって来る。
やって来て拍手をする。
キョンジャは言う。「あんた、海底人?」
理解し心通じ合えたと思う康介。
だが、それは浅い理解だった。
キョンジャは尋ねる。
「もし、私たちがつき合って結婚したら、あなたは韓国籍になれる?」
キョンジャはその前に康介の母から冷たい視線を受けていた。
康介の友人でアンソンの仲間が日本人との抗争で殺された時、葬式に出席した康介は長老に言われる。
多数の犠牲者を出した生駒トンネルを掘ったのは誰か?
国会議事堂の大理石は誰が積み上げたのか?
家族を残して強制的に連れてこられた彼らが淀川のシジミを食べ、野草を食べて生きてきたことを知っているか?
長老にはどんなことがあっても拭うことの出来ない歴史を背負っている。
そんなことを知らずに心通わすことができたと安易に思っていた(埋められない深い溝があることを知った)康介は怒りでギターを橋に叩きつける。
そしてラジオ放送。
康介は彼の歌う「イムジン河」を絶賛するラジオディレクターから放送で歌うように言われていた。
康介は自分はこの歌を安易に歌うことが出来ないといったんは断るが、ディレクターに促されて、「イムジン河」を歌う。
「自分はあなたたちのことを理解したい」
「あなたたちと心を通わせたいという思い」を込めて。
キョンジャはそのラジオ放送を葬式に参加した仲間たちに聞かせ、自分はラジオ局に走る。
音楽は人の心を繋ぐ。
あるいは人が心を繋ぐには、音楽といった装置が必要なのかもしれない。
★研究ポイント
テーマ:激しい対立から理解へ
今の時代にはこんな対立はない。
目の前の敵に対して自分を賭けていくような。
それが必ずしもいいこととは言えないが、対立がない現在はなかなか自分を見出せない。
空虚な自分がいるだけ。
共に戦う仲間の連帯感も対立を乗り越え理解し合った時の感動もない。
★追記1
もうひとつのモチーフはアンソンと日本人の恋人の物語。
彼女はアンソンの子を身篭もった。
彼女はそのことをアンソンに言わず、彼が国に帰った後、ひとりで育てようとする。
出産の時、アンソンはやって来る。
自分は日本に残るという。
彼女は朝鮮に連れていって。そして私を守って。と言う。
★追記2
井筒和幸監督の映像は荒々しい。
そして垢抜けない。
無機質なおしゃれな映画とは180度違う。
むき出しの暴力、流れる血、豊満な尻、人と人とがぶつかり合い理解する姿を描くにはこれしかないと言っているようだ。
★追記3……魅力的な人物 キャラクター
・楽器屋で酒屋の坂崎(オダギリジョー)
フリーセックスの国スウェーデンを見てくる、アメリカの自由とはどんなものか見てくる。
と言って飛び出していく自由人。当時で言うヒッピー。
・ラジオディレクター(大友康平)
放送禁止の「イムジン河」を歌わせる。
止めようとするラジオ局の偉い人を「世の中に歌ってはいけない歌なんてないんだよ」と言って殴り倒す。
そして康介に言う。
「さあ、話し合いはついた。歌ってくれ」
俗な利害を越えた信念。
・布川先生(光石研)
空論の革命を説き(本人は真剣)、ロシア人の踊り子とねんごろになる。
このしたたかさ。ずるさ。
彼らはパッチギ(頭突き)をし合って、ぶつかり合う。
舞台は1968年の京都。
京都府立高校と朝鮮高校は、毎日のように乱闘騒ぎを起こしている。
相手を血祭りに上げれば、次は自分たちがボコボコにされる繰り返しの毎日。
しかし、彼らは朝鮮人であるために日本人であるために喧嘩をし続ける。
仲間、同胞のために戦い続ける。
それが自分自身である証明だ。
そんな中、ナンパな青年・康介(塩谷瞬)は朝鮮高校のアンソン(高岡蒼佑)の妹・キョンジャ(沢尻エリカ)を好きになってしまう。
しかし、二人の間に日本人と在日朝鮮人という深い河が横たわっているのは変わらない。
ブラスバンドでイムジン河を演奏する姿を康介に見つめられて、キョンジャは拒絶する。
康介はそれでも諦めきれない。
「イムジン河」の歌の由来を聞き、キョンジャの国のことを理解しようとする。
朝鮮語を覚える。
最初は心を閉ざしていたキョンジャだが、「日本人だから」と言って康介を拒絶していたことが根拠のないことだと思うようになる。
ふたりは「イムジン河」によって次第に心を繋げていく。
「イムジン河」を歌うフォーククルセダーズのコンサートに行こうと韓国語で康介はデートに誘う。
その日は公園での兄の送別会があるというキョンジャ。
そこに招待する。
康介は言って最初は拒絶されるが、「イムジン河」を歌うことで受け入れられる。
受け入れられて、共に酒を飲むようになって康介は自分は彼らを理解したと思う。
キョンジャが鴨川でイムジン河をフルートで吹いていると、康介は川を渡ってやって来る。
やって来て拍手をする。
キョンジャは言う。「あんた、海底人?」
理解し心通じ合えたと思う康介。
だが、それは浅い理解だった。
キョンジャは尋ねる。
「もし、私たちがつき合って結婚したら、あなたは韓国籍になれる?」
キョンジャはその前に康介の母から冷たい視線を受けていた。
康介の友人でアンソンの仲間が日本人との抗争で殺された時、葬式に出席した康介は長老に言われる。
多数の犠牲者を出した生駒トンネルを掘ったのは誰か?
国会議事堂の大理石は誰が積み上げたのか?
家族を残して強制的に連れてこられた彼らが淀川のシジミを食べ、野草を食べて生きてきたことを知っているか?
長老にはどんなことがあっても拭うことの出来ない歴史を背負っている。
そんなことを知らずに心通わすことができたと安易に思っていた(埋められない深い溝があることを知った)康介は怒りでギターを橋に叩きつける。
そしてラジオ放送。
康介は彼の歌う「イムジン河」を絶賛するラジオディレクターから放送で歌うように言われていた。
康介は自分はこの歌を安易に歌うことが出来ないといったんは断るが、ディレクターに促されて、「イムジン河」を歌う。
「自分はあなたたちのことを理解したい」
「あなたたちと心を通わせたいという思い」を込めて。
キョンジャはそのラジオ放送を葬式に参加した仲間たちに聞かせ、自分はラジオ局に走る。
音楽は人の心を繋ぐ。
あるいは人が心を繋ぐには、音楽といった装置が必要なのかもしれない。
★研究ポイント
テーマ:激しい対立から理解へ
今の時代にはこんな対立はない。
目の前の敵に対して自分を賭けていくような。
それが必ずしもいいこととは言えないが、対立がない現在はなかなか自分を見出せない。
空虚な自分がいるだけ。
共に戦う仲間の連帯感も対立を乗り越え理解し合った時の感動もない。
★追記1
もうひとつのモチーフはアンソンと日本人の恋人の物語。
彼女はアンソンの子を身篭もった。
彼女はそのことをアンソンに言わず、彼が国に帰った後、ひとりで育てようとする。
出産の時、アンソンはやって来る。
自分は日本に残るという。
彼女は朝鮮に連れていって。そして私を守って。と言う。
★追記2
井筒和幸監督の映像は荒々しい。
そして垢抜けない。
無機質なおしゃれな映画とは180度違う。
むき出しの暴力、流れる血、豊満な尻、人と人とがぶつかり合い理解する姿を描くにはこれしかないと言っているようだ。
★追記3……魅力的な人物 キャラクター
・楽器屋で酒屋の坂崎(オダギリジョー)
フリーセックスの国スウェーデンを見てくる、アメリカの自由とはどんなものか見てくる。
と言って飛び出していく自由人。当時で言うヒッピー。
・ラジオディレクター(大友康平)
放送禁止の「イムジン河」を歌わせる。
止めようとするラジオ局の偉い人を「世の中に歌ってはいけない歌なんてないんだよ」と言って殴り倒す。
そして康介に言う。
「さあ、話し合いはついた。歌ってくれ」
俗な利害を越えた信念。
・布川先生(光石研)
空論の革命を説き(本人は真剣)、ロシア人の踊り子とねんごろになる。
このしたたかさ。ずるさ。