「事をなす時が来たということじゃ」
「討つべきは老中・間部詮勝」
過激に走り、塾生たちを扇動する松陰(伊勢谷友介)。
これに対して父・百合之助(長塚京三)は松陰を殴って、
「わしを殺してから行け。許す事はできん。寅次郎、父を殺せ!」
兄・梅太郎(原田泰造)は、
「お前がおらんくなってくれたらと、そのようなことを兄に思わせるな!」
文(井上真央)は、
「ここはどういう場所なんですか? 人殺しの算段をする場所ですか? 松下村塾は大事な学舎じゃないんですか?」
小田村伊之助(大沢たかお)は、
「自分の言葉やおこないが弟子たちにどのような結果を及ぼすか分からん者は人の師たりえん」
吉田稔麿(瀬戸康史)は、
「先生のやり方で世の中は変えられません。僕は先生の大義のために死ねません。先生の大義は大き過ぎます」
それぞれの立場で松陰を諫める主人公たち。
この中で、興味深いのが吉田稔麿だ。
もともと稔麿は「江戸の人々の生活を見たい」と言って江戸に行った人物。
稔麿の心の基盤にあるのは<理念>や<主義主張>ではなく、<生活>なのだ。
だから「先生の大義は大き過ぎます」。
一方、稔麿はこんなことも伊之助に言っていた。
血判状を渡した時のことだ。
「松陰先生が言うことなら従います。松陰先生を裏切れません」
これは完全な思考停止ですね。
オウム真理教信者が「尊師の言うことなら従います」と言ってサリンを撒いたのと同じ。
洗脳と言ってもいいかもしれない。
自分で考えることをやめて、カリスマや指導者に行動を委ねることは、いかに怖ろしいことか。
こんな稔麿に伊之助は問いかける。
「お前が尽くしているのは国ではなく、寅次郎ではないのか?」
この問いかけに加えて、母の言葉(「藩の仕事をしている息子を誇りに思っている」)がさらに稔麿を揺さぶる。
揺さぶられて自分のしようとしていることが正しいのか、と疑念を抱く稔麿。
そうなんですよね。
世の中の言説すべては思い込み。
何が正しいかなんて誰にもわからないし、盲信は禁物。
ちょっと待てよ、と足を止めて考えて見る方がいい。
松陰たちが暗殺の謀議をしている時に、文が夜食の握り飯を持っているのも象徴的だ。
<暗殺>と<握り飯>
暗殺は死ぬこと、握り飯は生きること。
暗殺は非日常、握り飯は日常。
このあまりにも違い過ぎるふたつが松陰と文のギャップを表している。
父・百合之助が、「寅次郎に楠木正成や赤穂浪士の話をして、命をかけて忠義を尽くせ、と教えたのはわしなんだよな」と考えるシーンも深い。
おそらく百合之助は、松陰の過激主義を薄々感じ、その根っこがこんな所にあることを認識していたのだろう。
まあ、松陰は平穏な時代に生まれていたら、きっと優秀な家臣になっていたんでしょうね。
最後はこの松陰の言葉。
「死など怖れとっては事をなせません」
以前も書きましたが、自分の命を軽んじる者は他人の命も軽んじるんですよね。
命を捨てて、ということほど胡散臭く、愚かなことはない。
小野為八(星田英利)が「地雷火があります」というのもね……。
武器を持っていれば使いたくなるのが人の心情。
今回は『安政の大獄』が描かれましたが、大きな力で押さえつければ、大きな力で反発してくるのが歴史の法則。
今回も井伊直弼が力で押さえつけたから松陰たちも過激に反発した。
だから現在の「イスラム国」なんかもどうなんだろう?
仮に力で屈服させても、恨みが増幅し、さらに大きな反発が起きるだけだと思うんだけど……。
「討つべきは老中・間部詮勝」
過激に走り、塾生たちを扇動する松陰(伊勢谷友介)。
これに対して父・百合之助(長塚京三)は松陰を殴って、
「わしを殺してから行け。許す事はできん。寅次郎、父を殺せ!」
兄・梅太郎(原田泰造)は、
「お前がおらんくなってくれたらと、そのようなことを兄に思わせるな!」
文(井上真央)は、
「ここはどういう場所なんですか? 人殺しの算段をする場所ですか? 松下村塾は大事な学舎じゃないんですか?」
小田村伊之助(大沢たかお)は、
「自分の言葉やおこないが弟子たちにどのような結果を及ぼすか分からん者は人の師たりえん」
吉田稔麿(瀬戸康史)は、
「先生のやり方で世の中は変えられません。僕は先生の大義のために死ねません。先生の大義は大き過ぎます」
それぞれの立場で松陰を諫める主人公たち。
この中で、興味深いのが吉田稔麿だ。
もともと稔麿は「江戸の人々の生活を見たい」と言って江戸に行った人物。
稔麿の心の基盤にあるのは<理念>や<主義主張>ではなく、<生活>なのだ。
だから「先生の大義は大き過ぎます」。
一方、稔麿はこんなことも伊之助に言っていた。
血判状を渡した時のことだ。
「松陰先生が言うことなら従います。松陰先生を裏切れません」
これは完全な思考停止ですね。
オウム真理教信者が「尊師の言うことなら従います」と言ってサリンを撒いたのと同じ。
洗脳と言ってもいいかもしれない。
自分で考えることをやめて、カリスマや指導者に行動を委ねることは、いかに怖ろしいことか。
こんな稔麿に伊之助は問いかける。
「お前が尽くしているのは国ではなく、寅次郎ではないのか?」
この問いかけに加えて、母の言葉(「藩の仕事をしている息子を誇りに思っている」)がさらに稔麿を揺さぶる。
揺さぶられて自分のしようとしていることが正しいのか、と疑念を抱く稔麿。
そうなんですよね。
世の中の言説すべては思い込み。
何が正しいかなんて誰にもわからないし、盲信は禁物。
ちょっと待てよ、と足を止めて考えて見る方がいい。
松陰たちが暗殺の謀議をしている時に、文が夜食の握り飯を持っているのも象徴的だ。
<暗殺>と<握り飯>
暗殺は死ぬこと、握り飯は生きること。
暗殺は非日常、握り飯は日常。
このあまりにも違い過ぎるふたつが松陰と文のギャップを表している。
父・百合之助が、「寅次郎に楠木正成や赤穂浪士の話をして、命をかけて忠義を尽くせ、と教えたのはわしなんだよな」と考えるシーンも深い。
おそらく百合之助は、松陰の過激主義を薄々感じ、その根っこがこんな所にあることを認識していたのだろう。
まあ、松陰は平穏な時代に生まれていたら、きっと優秀な家臣になっていたんでしょうね。
最後はこの松陰の言葉。
「死など怖れとっては事をなせません」
以前も書きましたが、自分の命を軽んじる者は他人の命も軽んじるんですよね。
命を捨てて、ということほど胡散臭く、愚かなことはない。
小野為八(星田英利)が「地雷火があります」というのもね……。
武器を持っていれば使いたくなるのが人の心情。
今回は『安政の大獄』が描かれましたが、大きな力で押さえつければ、大きな力で反発してくるのが歴史の法則。
今回も井伊直弼が力で押さえつけたから松陰たちも過激に反発した。
だから現在の「イスラム国」なんかもどうなんだろう?
仮に力で屈服させても、恨みが増幅し、さらに大きな反発が起きるだけだと思うんだけど……。