★「老中暗殺の是非を自分の頭で考えたか?」
伊之助(大沢たかお)は塾生たちにこのように問うた。
結局、塾生たちの過激思想ってマインドコントロールなんですよね。
麻原を信じてサリンを撒いたオウム信者と同じ。
最近は〝安倍信者〟といって、安倍首相の言うことを何でも良しとする人もいるようだけど、どうなんだろう?
人は自分で考えることをやめた時、あるいは自分で考えていると錯覚した時、奴隷になる。
★「世間を知り、人を知り、藩という組織の動かし方を知った時、藩は君らの声を聞く」
この伊之助の言葉も正論。
大人の言葉。
しかし、熱情にかられた人間はこうした手間や時間のかかることをなかなか出来ない。
テロや暗殺という手段を使って性急に物事を変えようとする。
その究極が革命だ。
明治維新は革命か否か。
大政奉還、江戸城無血開城という観点から「革命ではない」という意見もあれば、鳥羽伏見、戊辰戦争から「革命だ」とする意見もある。
いずれにしても松陰門下の〝過激な方法〟で物事を変えていこうという勢力と、伊之助のような〝穏健な方法〟で変えていこうという勢力があったことは確か。
★「志を持たん君たちとは絶交するしかない」
この松陰(伊勢谷友介)の手紙に高杉(高良健吾)は厳しく反論。
「相変わらずお熱いお人じゃ。萩の田舎にこもっていると世間が見えなくなるのか」
高杉の言うとおり、松陰は狭い世界に閉じ込められて、どんどんエキセントリックになっていったんでしょうね。
世間に触れず、自分の世界だけで完結していくと、過激思想はどんどん増幅していく。
現在のネトウヨもね。
ネットの世界の同じ価値観の中だけで生きていると、どんどん〝中韓憎し〟に変わっていく。
そして、自分と意見を異にする者はすべて〝反日〟
それで誰とは言わないが、自分たちを引っ張っていってくれる強いリーダーを求めるようになる。
文(井上真央)が「兄上は遠い世界に行ってしまった」とつぶやいたのは象徴的で、松陰は〝観念の世界〟に生きている。
彼には、天気や晩ご飯のおかずのことを気にする〝生活〟はない。
それでもって、とんでもない自己愛。
「僕は何もなせずに死ぬことが怖ろしいんじゃ」
究極の自己愛の言葉だ。
ほとんどの人は〝何もなせずに死んでいく〟んですけどね。
泣いて笑って食事をして、ちょっと社会に役立つ仕事をして無名のまま死んでいく。
だが、松陰はそれを潔しとしない。
増幅したナルシズム。
この感覚は、とんでもない犯罪を犯して自分の生きていた証しを社会に刻みたいという凶悪犯罪者の感覚に似ている。
果たして松陰に〝生活〟は戻って来るのか?
劇中、弟の敏三郎(森永悠希)が毛利敬親に直訴状を届けに行こうとするのを松陰が止めるシーンがある。
さすがの松陰も実の弟には死んで欲しくないのだ。
塾生には「死んで志を果たせ」と言うのに。
これは松陰の思想の矛盾であるが、同時に〝生活者〟としての側面でもある。
入江九一(要潤)、野村靖(大野拓朗)兄弟の死を賭した行動を妹・すみ(宮崎香蓮)が止めたように、家族は過激行動のストッパーになる。
杉家の人たちが松陰に手紙を書いたのも、〝生活者〟に戻ってきてほしかったからだろう。
次回、松陰が杉家の人々と最後の食事をするシーンがあるようだが、果たして松陰は〝生活〟〝形而下の世界〟に戻って来られるか?