江戸行きの前夜、杉家の人たちは松陰(伊勢谷友介)を〝普通の生活者〟に戻そうとしているようだ。
水桶が倒れて崩れてしまった畝と苗を直すために、泥だらけになる父・百合之助(長塚京三)、兄・梅太郎(原田泰造)、弟・敏三郎(森永悠希)、そして松陰。
地に足がついた、という言葉があるとおり、土と格闘するというのは生活そのもの。
思想や観念の世界の対極にあるもの。
母・滝(檀ふみ)は風呂で松陰の背中を洗いながら、松陰の話を聞きたがる。
その話とは、〝大福〟や〝しもやけ〟や〝長崎の大きなガラス〟や〝流行の芝居〟や〝江戸のおなご〟といった誰もがするような日常の話。
決して、〝天下国家〟や〝尊皇攘夷〟といった観念的な話ではない。
妹・寿(優香)は松陰のことが嫌いだったと語りながらも「小田村に嫁がせてくれたんは兄上でした」と言う。
冠婚葬祭、これも生活。家族の営み。
人々はこうしたことに喜びや悲しみを感じながら生きている。
このような杉家の人々に触れて、〝天下国家〟のために死のうとしている松陰は「私は、私でいられるじゃろうか」と揺れる。
野山獄にいても、今まで、気づかなかった〝花の香り〟に気づく。
高須久子(井川遥)には、「人とはこれでございます」と〝手の温もり〟の素晴らしさを教えられる。
〝天下国家〟〝尊皇攘夷〟
思想やイデオロギーに生きるってことはどうなんでしょうね?
誰もが普通に生活をして、小さな幸せに満足していれば、争いごとや戦争など起こらないのに。
〝花の香り〟や〝人の手の温もり〟に幸せを感じていれば、人生はそれだけで十分に豊かなのに。
変に〝国家〟や〝志に殉じる〟みたいな思想が出て来るからおかしくなる。
文(井上真央)の対応は、他の杉家の人たちとは違っていた。
松陰を逃がす、という一歩踏み込んだ、具体的な行動。
これに対して松陰は、
「至誠を貫き、ご公儀を動かす。説き伏せて萩に戻って来る」
まさか、この言葉を松陰は信じていなかっただろうが、愚直ですね。
伊之助(大沢たかお)は「お前が死ぬべきは今ではない」と説得したが、松陰の返事は「伊之助、後を頼む」。
自分が死んで道を拓くから、続くお前たちが道をつくってくれ、と言っているかのよう。
司馬遼太郎は『花神』で、「歴史では、まずブルドーザーのように道を切り拓く人間がいて、次に整地する人間が現れる」と語っているが、松陰はブルドーザー、伊之助は整地する人間という感じだろうか。
水桶が倒れて崩れてしまった畝と苗を直すために、泥だらけになる父・百合之助(長塚京三)、兄・梅太郎(原田泰造)、弟・敏三郎(森永悠希)、そして松陰。
地に足がついた、という言葉があるとおり、土と格闘するというのは生活そのもの。
思想や観念の世界の対極にあるもの。
母・滝(檀ふみ)は風呂で松陰の背中を洗いながら、松陰の話を聞きたがる。
その話とは、〝大福〟や〝しもやけ〟や〝長崎の大きなガラス〟や〝流行の芝居〟や〝江戸のおなご〟といった誰もがするような日常の話。
決して、〝天下国家〟や〝尊皇攘夷〟といった観念的な話ではない。
妹・寿(優香)は松陰のことが嫌いだったと語りながらも「小田村に嫁がせてくれたんは兄上でした」と言う。
冠婚葬祭、これも生活。家族の営み。
人々はこうしたことに喜びや悲しみを感じながら生きている。
このような杉家の人々に触れて、〝天下国家〟のために死のうとしている松陰は「私は、私でいられるじゃろうか」と揺れる。
野山獄にいても、今まで、気づかなかった〝花の香り〟に気づく。
高須久子(井川遥)には、「人とはこれでございます」と〝手の温もり〟の素晴らしさを教えられる。
〝天下国家〟〝尊皇攘夷〟
思想やイデオロギーに生きるってことはどうなんでしょうね?
誰もが普通に生活をして、小さな幸せに満足していれば、争いごとや戦争など起こらないのに。
〝花の香り〟や〝人の手の温もり〟に幸せを感じていれば、人生はそれだけで十分に豊かなのに。
変に〝国家〟や〝志に殉じる〟みたいな思想が出て来るからおかしくなる。
文(井上真央)の対応は、他の杉家の人たちとは違っていた。
松陰を逃がす、という一歩踏み込んだ、具体的な行動。
これに対して松陰は、
「至誠を貫き、ご公儀を動かす。説き伏せて萩に戻って来る」
まさか、この言葉を松陰は信じていなかっただろうが、愚直ですね。
伊之助(大沢たかお)は「お前が死ぬべきは今ではない」と説得したが、松陰の返事は「伊之助、後を頼む」。
自分が死んで道を拓くから、続くお前たちが道をつくってくれ、と言っているかのよう。
司馬遼太郎は『花神』で、「歴史では、まずブルドーザーのように道を切り拓く人間がいて、次に整地する人間が現れる」と語っているが、松陰はブルドーザー、伊之助は整地する人間という感じだろうか。