平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

花燃ゆ 第16回「最後の食卓」~人とは、これでございます。寂しさも、慰めも、悲しみも、喜びも

2015年04月20日 | 大河ドラマ・時代劇
 江戸行きの前夜、杉家の人たちは松陰(伊勢谷友介)を〝普通の生活者〟に戻そうとしているようだ。

 水桶が倒れて崩れてしまった畝と苗を直すために、泥だらけになる父・百合之助(長塚京三)、兄・梅太郎(原田泰造)、弟・敏三郎(森永悠希)、そして松陰。
 地に足がついた、という言葉があるとおり、土と格闘するというのは生活そのもの。
 思想や観念の世界の対極にあるもの。

 母・滝(檀ふみ)は風呂で松陰の背中を洗いながら、松陰の話を聞きたがる。
 その話とは、〝大福〟や〝しもやけ〟や〝長崎の大きなガラス〟や〝流行の芝居〟や〝江戸のおなご〟といった誰もがするような日常の話。
 決して、〝天下国家〟や〝尊皇攘夷〟といった観念的な話ではない。

 妹・寿(優香)は松陰のことが嫌いだったと語りながらも「小田村に嫁がせてくれたんは兄上でした」と言う。
 冠婚葬祭、これも生活。家族の営み。
 人々はこうしたことに喜びや悲しみを感じながら生きている。

 このような杉家の人々に触れて、〝天下国家〟のために死のうとしている松陰は「私は、私でいられるじゃろうか」と揺れる。
 野山獄にいても、今まで、気づかなかった〝花の香り〟に気づく。
 高須久子(井川遥)には、「人とはこれでございます」と〝手の温もり〟の素晴らしさを教えられる。

 〝天下国家〟〝尊皇攘夷〟
 思想やイデオロギーに生きるってことはどうなんでしょうね?
 誰もが普通に生活をして、小さな幸せに満足していれば、争いごとや戦争など起こらないのに。
 〝花の香り〟や〝人の手の温もり〟に幸せを感じていれば、人生はそれだけで十分に豊かなのに。
 変に〝国家〟や〝志に殉じる〟みたいな思想が出て来るからおかしくなる。

 文(井上真央)の対応は、他の杉家の人たちとは違っていた。
 松陰を逃がす、という一歩踏み込んだ、具体的な行動。
 これに対して松陰は、
「至誠を貫き、ご公儀を動かす。説き伏せて萩に戻って来る」
 まさか、この言葉を松陰は信じていなかっただろうが、愚直ですね。

 伊之助(大沢たかお)は「お前が死ぬべきは今ではない」と説得したが、松陰の返事は「伊之助、後を頼む」。
 自分が死んで道を拓くから、続くお前たちが道をつくってくれ、と言っているかのよう。
 司馬遼太郎は『花神』で、「歴史では、まずブルドーザーのように道を切り拓く人間がいて、次に整地する人間が現れる」と語っているが、松陰はブルドーザー、伊之助は整地する人間という感じだろうか。
 
コメント (2)
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