「言葉」についての物語だ。
家福悠介(西島秀俊)は俳優・舞台演出家。
広島の国際演劇祭に招聘されて、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の演出をしている。
その演劇形態は「多言語演劇」だ。
多言語演劇とは、その名のとおり、複数の外国人の役者が自国の言葉で演じる演劇だ。
観客は舞台上のスクリーンに映される字幕で内容を理解する。
今回の『ワーニャ伯父さん』にオーディションで選ばれたの役者と言語は──
・韓国のイ・ユナ(パク・ユリム)~手話
・韓国のリュ・ジョンウィ(アン・フィテ)~韓国語
・台湾のジャニス・チャン(ソニア・ユアン)~中国語
・高槻耕史(岡田将生)~日本語 などだ。
この多言語演劇が意味することは何だろう?
芝居の稽古が始まった時、役者たちとって、相手のしゃべっているせりふは単なる「音の繋がり」でしかない。
お経を聴いているように思える。
台本に意味が書かれているから、かろうじて芝居が成立している感じだ。
だが、稽古を重ね、何度も相手のせりふを聴いていくうちに相手の思いや感情が心に染み入って来て、言葉の壁を越えた演劇空間が生まれる。
人が理解し合うのに言葉はそんなに重要ではないのだ。
逆に人は言葉で嘘をつくから、理解し合うことの妨げになったりする。
「人が理解し合うのに言葉はそんなに重要でない」
このテーマは、運転手・渡利みさき(三浦透子)とのやりとりでも展開される。
当初、みさきは映画祭側が手配した単なる「運転手」でしかない。
みさきは運転中、何も話さないし、その運転は「重力を感じない」くらいに巧みなので「空気」のような存在であるとも言える。
だが、みさきの運転する車に乗って、少しずつ言葉をかわしていくうちに、
ふたりは同じ苦悩を抱えていることに気づき、理解し合うようになる。
……………………………………………………………………………
「人が理解し合うのに言葉はそんなに重要でない」
しかし、これは「言葉の無力」を意味するものではない。
芝居の稽古を重ねていくうちに、役者のイ・ユナは手話でこんなことを言う。
「チェーホフのテキストが私の中に入って来て、私の体を動かしてくれます」
自分は空っぽで何もない、と嘆く役者・高槻耕史に家福はこんなアドバイスをする。
「テキストが問いかけてくるものに耳を傾けろ」
「テキストに自分を投げ出すんだ」
言葉はなかなか伝わらないが、救いにもなる。
実際、家福もチェーホフのテキストを繰り返し聴くことで何かを探していた。
テキストが自分の中にスーッと入って来て、心を揺り動かす瞬間を待っていた。
たとえば、『ワーニャ伯父さん』のソーニャのこんなせりふだ。
「仕方ないの、生きていくしかないの。
ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。
長い長い日々と、長い長い夜を、
運命が与える試練に耐えながら、
安らかでなくても生きていきましょう。
そして最期の時が来たらおとなしく死んでいきましょう。
そしてあの世で言いましょう。
私は苦しみました。私は泣きました。つらかったって。
そして、その時が来たら、ゆっくり休みましょう」
このせりふが単なる「音の繋がり」で終わるのか?
心に染み込む「救いの言葉」になるのか?
僕の場合は後者の感じが強い。
胸に迫って来る言葉だ。
だが、これでわかった気になってはいけない。
さらに人生を重ねていけば、もっと深い「救いの言葉」になるかもしれない。
人は心の中を埋めてくれる言葉を探して生きているのかもしれない。
※追記
今作は米国アカデミー賞で「国際長編映画賞」、カンヌ映画祭で「脚本賞」などを受賞。
原作は村上春樹。
家福悠介(西島秀俊)は俳優・舞台演出家。
広島の国際演劇祭に招聘されて、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の演出をしている。
その演劇形態は「多言語演劇」だ。
多言語演劇とは、その名のとおり、複数の外国人の役者が自国の言葉で演じる演劇だ。
観客は舞台上のスクリーンに映される字幕で内容を理解する。
今回の『ワーニャ伯父さん』にオーディションで選ばれたの役者と言語は──
・韓国のイ・ユナ(パク・ユリム)~手話
・韓国のリュ・ジョンウィ(アン・フィテ)~韓国語
・台湾のジャニス・チャン(ソニア・ユアン)~中国語
・高槻耕史(岡田将生)~日本語 などだ。
この多言語演劇が意味することは何だろう?
芝居の稽古が始まった時、役者たちとって、相手のしゃべっているせりふは単なる「音の繋がり」でしかない。
お経を聴いているように思える。
台本に意味が書かれているから、かろうじて芝居が成立している感じだ。
だが、稽古を重ね、何度も相手のせりふを聴いていくうちに相手の思いや感情が心に染み入って来て、言葉の壁を越えた演劇空間が生まれる。
人が理解し合うのに言葉はそんなに重要ではないのだ。
逆に人は言葉で嘘をつくから、理解し合うことの妨げになったりする。
「人が理解し合うのに言葉はそんなに重要でない」
このテーマは、運転手・渡利みさき(三浦透子)とのやりとりでも展開される。
当初、みさきは映画祭側が手配した単なる「運転手」でしかない。
みさきは運転中、何も話さないし、その運転は「重力を感じない」くらいに巧みなので「空気」のような存在であるとも言える。
だが、みさきの運転する車に乗って、少しずつ言葉をかわしていくうちに、
ふたりは同じ苦悩を抱えていることに気づき、理解し合うようになる。
……………………………………………………………………………
「人が理解し合うのに言葉はそんなに重要でない」
しかし、これは「言葉の無力」を意味するものではない。
芝居の稽古を重ねていくうちに、役者のイ・ユナは手話でこんなことを言う。
「チェーホフのテキストが私の中に入って来て、私の体を動かしてくれます」
自分は空っぽで何もない、と嘆く役者・高槻耕史に家福はこんなアドバイスをする。
「テキストが問いかけてくるものに耳を傾けろ」
「テキストに自分を投げ出すんだ」
言葉はなかなか伝わらないが、救いにもなる。
実際、家福もチェーホフのテキストを繰り返し聴くことで何かを探していた。
テキストが自分の中にスーッと入って来て、心を揺り動かす瞬間を待っていた。
たとえば、『ワーニャ伯父さん』のソーニャのこんなせりふだ。
「仕方ないの、生きていくしかないの。
ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。
長い長い日々と、長い長い夜を、
運命が与える試練に耐えながら、
安らかでなくても生きていきましょう。
そして最期の時が来たらおとなしく死んでいきましょう。
そしてあの世で言いましょう。
私は苦しみました。私は泣きました。つらかったって。
そして、その時が来たら、ゆっくり休みましょう」
このせりふが単なる「音の繋がり」で終わるのか?
心に染み込む「救いの言葉」になるのか?
僕の場合は後者の感じが強い。
胸に迫って来る言葉だ。
だが、これでわかった気になってはいけない。
さらに人生を重ねていけば、もっと深い「救いの言葉」になるかもしれない。
人は心の中を埋めてくれる言葉を探して生きているのかもしれない。
※追記
今作は米国アカデミー賞で「国際長編映画賞」、カンヌ映画祭で「脚本賞」などを受賞。
原作は村上春樹。
言葉には意味がない。
しかし、何かを伝えようとする時の不透明な錯綜感に意味があるんでしょうか。
上手く言えないけど、それが言葉なんですかね。
いつもありがとうございます。
言葉って、実は単なる「音の繋がり」なんですよね。
でも、コミュニケーションを取りたいと思ったり、何かを求めている時には「意味のあるもの」になっていく。
求めるものが切実な場合、言葉はどんどん体に染み込んでいく。
今作を見て、僕はこんなことを考えました。