中島敦の『山月記』
近々、これが国民の教科書から外されるらしい。
教科書で『山月記』を読んだ時、僕は漢語をつかったその格調高い文章に魅せられたんだけどなぁ。
こうして日本人の国語力がどんどん貧弱になっていく。
『山月記』は羞恥心と高すぎる自尊心の物語である。
詩人になりたかった主人公の李懲(りちょう)はなぜ虎になってしまったのか?
その原因を李懲はこう語る。
『人間であった時、己(おれ)は努めて人との交わりを避けた。
人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは言わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
己は詩によって名をなそうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。
己(おのれ)の珠に非ざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、
また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによってますます己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。』
高すぎるプライドと羞恥心。
それゆえ世間や他者と上手くやっていけない。
なまじっか自分に才能があると思っているから、普通の平凡な生活を送ることを潔しとしない。
文学青年が陥りそうな心情だ。
あるいは、
文学青年なくても前半の部分は、青春時代の若者が多かれ少なかれ抱く思いではないか?
青春時代、若者は自尊心と羞恥心に振りまわされ七転八倒する。
まあ、年齢を重ねるうちに、自尊心は社会生活の中で粉々に打ち砕かれ、
羞恥心はなくなってだんだん図々しくなっていくんですけどね。
この点で『山月記』は若い人に読んでほしい青春文学だ。
こういう漢語の格調高い日本語があることも識ってほしい。
近々、これが国民の教科書から外されるらしい。
教科書で『山月記』を読んだ時、僕は漢語をつかったその格調高い文章に魅せられたんだけどなぁ。
こうして日本人の国語力がどんどん貧弱になっていく。
『山月記』は羞恥心と高すぎる自尊心の物語である。
詩人になりたかった主人公の李懲(りちょう)はなぜ虎になってしまったのか?
その原因を李懲はこう語る。
『人間であった時、己(おれ)は努めて人との交わりを避けた。
人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは言わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
己は詩によって名をなそうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。
己(おのれ)の珠に非ざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、
また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。
己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚(ざんい)とによってますます己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。』
高すぎるプライドと羞恥心。
それゆえ世間や他者と上手くやっていけない。
なまじっか自分に才能があると思っているから、普通の平凡な生活を送ることを潔しとしない。
文学青年が陥りそうな心情だ。
あるいは、
文学青年なくても前半の部分は、青春時代の若者が多かれ少なかれ抱く思いではないか?
青春時代、若者は自尊心と羞恥心に振りまわされ七転八倒する。
まあ、年齢を重ねるうちに、自尊心は社会生活の中で粉々に打ち砕かれ、
羞恥心はなくなってだんだん図々しくなっていくんですけどね。
この点で『山月記』は若い人に読んでほしい青春文学だ。
こういう漢語の格調高い日本語があることも識ってほしい。
>近々、これが国民の教科書から外されるらしい。
2022年度から高校国語の教育課程が改訂され、現代国語は、実用系国語科目群とブンガク系国語科目群に分けられているらしいです。そうすると、ブンガク系国語を開講しない高校が増えると言われているようです。
実用国語(論理国語などというようです)は、家電の取説を正確に読んだり、法律文書を読んだり、ディベートでの「ハイ論破」テクニックを学んだりするらしいです。
まあ、教えたり入試問題をつくったり、そういった場合も「論理日本語」の方がラクでしょうね。
この「ブンガクの切り捨て」は、コスパとタイパを追い求めた結果で、おそらく「ブンガク」が「論理」と正反対であるかのような決めつけが根底にあるんでしょう。でも本当に正反対でしょうか?
わたしの勝手な考えかもしれませんが、ブンガク的言語(日本語に限らず)は情報量が多く、同時にいろいろな意味を含ませることができると思っています。一見非論理のように見えるだけで、ひとつの文章、ひとつの段落の中にいろいろなストーリーが同時に走っているようなことがあるわけです。
なので、ブンガク的文章って、隠喩や反語的表現や皮肉や忖度といった、外交的な駆け引きを学ぶにはちょうどいいと思うんですけどね。
これから日本はブンガクを捨てるでしょうが、諸外国からボコボコに攻撃されていいように利用されて手玉に取られても、それすら気がつかずニコニコ笑っているような、アホ的な民族になるリスクがあります。
いつもありがとうございます。
僕も記事で読みましたが、国語は実用系になるようですね。
>ブンガク的言語(日本語に限らず)は情報量が多く、同時にいろいろな意味を含ませることができる
おっしゃるとおりですね。
文学がもたらすもの──深い情緒、矛盾したさまざまな思い、行間から滲み出るもの、正解のない世界などは重要だと思うんですよね。
これが失われると、
「社会の役に立たない人間・非効率な人間=悪」
みたいな言論が当たり前に生まれてしまいます。
しかも、論理というのも非常に不確かなもの。
今、話題の兵庫県・斎藤知事問題。
「告発した県民局長は不倫をしていた→だから県民局長の告発文書はウソ」
みたいな論理が平気でまかり通っています。
これが論理の国語教育で是正されるといいのですが、果たして?