井伊直弼の台頭→山内容堂の謹慎→吉田東洋の復活→武市ら勤王派の排除。
激動の時代というのは右に左に揺れ動いていくんですね。
荒れ狂う海の中でうまく波に乗れる舟もあれば、沈没してしまう舟もある。
今回、弥太郎(香川照之)はうまく波に乗れた。今後はまだわからないが。
一方、武市(大森南朋)は波に呑まれて身動きが取れない。
人が「自分の望む人間になろうとする」のは結構大変なこと。
武市のように非情な決断をしなければならない。
ひとりの女性の幸せを奪い、友を失わなければならないこともある。
これが安定した時代だったら、<自分の望む人間>になるといった野心も抱かずに、多少の不満は抱きつつも、穏やかに生きていけたのに。
さて、今回は龍馬(福山雅治)の恋話。
恋話としてはありがちなので深く言及しませんが、最後に加尾(広末涼子)が言ったせりふが気になった。
「わたしなんかより大きなことのために生きて」
加尾は龍馬を<大きなことをなす人物>として見ていたんですね。
その片鱗は「兄の力を借りずに道場を建てる」と言ったことと「加尾と家族を連れて黒船で世界を旅する」と言ったこと。
特に後者は常人では思いつかないような夢。
おそらく加尾は龍馬といっしょに生きて、その夢を実現したかったのでしょうね。
なので、その思いをどこかで加尾に言って欲しかった。
「龍馬さんといっしょに黒船に乗って世界を見たかった……」みたいなせりふ。
気の早い話ですが、「龍馬伝」のラストシーンは<龍馬と加尾、龍馬の父や家族、龍馬の関わった人々全員が黒船に乗って大海を行く>みたいなシーンになるような気がします。
あと気がついたのは龍馬の表情の変化。
「命をかけて大事なものを守る」と武市に言った龍馬の顔は実に凛々しく厳しい。
以前のおっとりした優しい顔ではなくなった。
着実に成長しているんですね、龍馬は。
龍馬が今後どの様な表情を見せてくれるか楽しみです。
※追記
加尾が実在の人物であったとは知らなかった。
司馬遼太郎の「竜馬がいく」では、公家の家に諜報にいく役割は確かお田鶴様がやっていた。
もうひとつ「竜馬がいく」との違いを言うと、「龍馬伝」の龍馬は<家族>というものへのこだわりがある。
加尾との家庭を夢みることや、黒船に乗って家族で世界をまわりたいというのがそう。
この点は、家や藩に縛られない自由奔放な「竜馬がいく」の竜馬とは大きく違う。
確かに「龍馬伝」で描かれている温かい家庭に育てられた龍馬なら、家庭にこだわることは必然のような気がする。
激動の時代というのは右に左に揺れ動いていくんですね。
荒れ狂う海の中でうまく波に乗れる舟もあれば、沈没してしまう舟もある。
今回、弥太郎(香川照之)はうまく波に乗れた。今後はまだわからないが。
一方、武市(大森南朋)は波に呑まれて身動きが取れない。
人が「自分の望む人間になろうとする」のは結構大変なこと。
武市のように非情な決断をしなければならない。
ひとりの女性の幸せを奪い、友を失わなければならないこともある。
これが安定した時代だったら、<自分の望む人間>になるといった野心も抱かずに、多少の不満は抱きつつも、穏やかに生きていけたのに。
さて、今回は龍馬(福山雅治)の恋話。
恋話としてはありがちなので深く言及しませんが、最後に加尾(広末涼子)が言ったせりふが気になった。
「わたしなんかより大きなことのために生きて」
加尾は龍馬を<大きなことをなす人物>として見ていたんですね。
その片鱗は「兄の力を借りずに道場を建てる」と言ったことと「加尾と家族を連れて黒船で世界を旅する」と言ったこと。
特に後者は常人では思いつかないような夢。
おそらく加尾は龍馬といっしょに生きて、その夢を実現したかったのでしょうね。
なので、その思いをどこかで加尾に言って欲しかった。
「龍馬さんといっしょに黒船に乗って世界を見たかった……」みたいなせりふ。
気の早い話ですが、「龍馬伝」のラストシーンは<龍馬と加尾、龍馬の父や家族、龍馬の関わった人々全員が黒船に乗って大海を行く>みたいなシーンになるような気がします。
あと気がついたのは龍馬の表情の変化。
「命をかけて大事なものを守る」と武市に言った龍馬の顔は実に凛々しく厳しい。
以前のおっとりした優しい顔ではなくなった。
着実に成長しているんですね、龍馬は。
龍馬が今後どの様な表情を見せてくれるか楽しみです。
※追記
加尾が実在の人物であったとは知らなかった。
司馬遼太郎の「竜馬がいく」では、公家の家に諜報にいく役割は確かお田鶴様がやっていた。
もうひとつ「竜馬がいく」との違いを言うと、「龍馬伝」の龍馬は<家族>というものへのこだわりがある。
加尾との家庭を夢みることや、黒船に乗って家族で世界をまわりたいというのがそう。
この点は、家や藩に縛られない自由奔放な「竜馬がいく」の竜馬とは大きく違う。
確かに「龍馬伝」で描かれている温かい家庭に育てられた龍馬なら、家庭にこだわることは必然のような気がする。
情報ありがとうございます。
まだ、僕は「JIN」の原作を読めていないんですよ、マンガ喫茶とか読もうとしているのですが。
原作の龍馬はそうなんですか。
勝がどんなふうに絡むのかも興味津々です。
「JIN」の龍馬はかなりの<人たらし>ですよね。
出会った人の心を楽しくして、開かせてしまうような所がある。
「龍馬伝」の龍馬は、<女性>に関してはなかなかの人たらしですが、それ以外に関してはまだまだのようですね。
いずれはすごい人たらしに変わるのでしょうか。
「龍馬伝」の龍馬の伸びしろは、まだまだありそうですね。
あの内野龍馬はたしかに傑作でしたが、あれはドラマでの完全なオリジナルです。
原作の龍馬は-勝、西郷、慶喜などの歴史上の人物は皆そうですが-顔も性格も歴史の教科書からそのまま抜け出てきたようなリアルイメージでした。
ネタバレぎりぎりになりますが、確かに原作でも龍馬と仁先生とは親友になりますが、出逢うのはかなり後になってからで、むしろ先に仁と出逢っている勝先生の方がずっと重要な役割を果たしています。
それにしてもドラマの龍馬には本当に楽しませてもらいました。
>いろいろな龍馬がいて、龍馬ご本人も当惑されていることでしょう。(第6話2/11コウジさんコメント)
いつもありがとうございます。
確かに福山さんで直球の恋愛ものってありませんよね。
それゆえ、「待たせたな。結婚してほしい」はグッと来られたことでしょう。
福山さんの恋愛もので言うと、「ひとつ屋根の下」はよかったですね。
小雪の酒井法子さんがああなってしまって、作品的には普通に見られなくなってしまいましたが、せつない三角関係でした。
>弥太郎の算術修行は「ガリレオ」のオマージュ
は言われてみると、なるほど!
脚本が同じ福田靖さんですからね、意識されて書かれたかどうかはわかりませんが、絶対に影響はありましたよね。
いつもありがとうございます。
僕も<イデオロギー型純粋人間>には抵抗があります。
僕が坂本龍馬を好きなのもイデオロギーや世の慣習にとらわれず、<坂本龍馬>という個人で生きたこと。
素晴らしい!
「竜馬がいく」についてもおっしゃるとおりですね。
最初の方など、多分に痛快な講談的な面があります。
「竜馬がいく」の龍馬イメージにとらわれていたのも確かで、最近は自然に受け入れられるようになりましたが、「龍馬伝」の龍馬に違和感を感じていました。
ただ「龍馬伝」の龍馬はかなり現代的な所はありますよね。
恋愛観など、ほとんど<現代の若者>と変わらない考え方、感じ方をしている。
もっとも大河ドラマとは言っても、現代に生きる人間が観るものですから、それでいいのですが。
なので、この作品については、僕は「竜馬がいく」の龍馬像を捨てまして、白紙で楽しもうと思っています。
今後、どの様な龍馬が描かれるか、楽しみです。
そして、おそらく「龍馬伝」を見てしまうと、「仁-JIN-」の龍馬は違って見えるでしょうね。
こんなおっさんじゃないし、こんなズボラじゃないみたいな感じで。
この作品で日本人の龍馬像は変わりそうですね。
史実の平井家は最下層ながら上士である。
司馬氏(「おーい龍馬」も?)は姫君の側近となることを自然にするために、加尾を上級上士の娘「お田鶴様」に「格上げ」した。
本作の平井加尾、収二郎は実名であるが、加尾が龍馬の「初恋の人」であること、また収二郎が武市派であることを自然にするために、平井家を「下士」に「格下げ」した-細かく言えば武市家も上士と下士との中間的な地位だったらしいのですが図式を単純化したかった-ということでしょう。
「竜馬がゆく」で「龍馬」ではなく「竜馬」の表記を用いているのは、司馬氏自身フィクションであることを明示するためだったとも聞いています。
本作では、弥太郎入獄、山本琢磨逃亡などの史実エピソードも用いられていることからも、司馬氏の決定的影響下にあった従来の龍馬像に対して独自の史実解釈にまで遡って描き直そうとしている姿勢が窺われます。
福山さんはドラマであまり直球の恋愛モノをやらないので、ドキドキしながらみていますよ。
司馬さんで龍馬像をとらえているため、とまどいもあったのですが、加尾が実在した名前なんですね。ちなみにさな子も、佐那が史実通りの本名だそうです。
武市は龍馬の恋をかなえたいと思いましたが、その想いは伝わりませんでした。これが来週以降2人の関係に影を落とすのでしょうか。
弥太郎は牢屋の壁で算術修行。あのシーンはガリレオへのオマージュという解釈でいいですか?
しかし、前回から今回にかけて武市の人間らしさが描き込まれているのが印象的でした。前回の彼はコウジさんご指摘どおり「琢磨の処分に迷う分、<鬼>にはなりきれていない」し、今回も「鬼の分身」を登場させてまで「葛藤」を描き、一度は柴田備後に加尾の人事撤回を願い出ています。
一応「攘夷のためには幕府を動かす、幕府を動かすためには藩の実権をにぎる」という現実戦略をもち、そのため「敵の敵」である柴田に接近するわけですが、そもそもイデオロギー型純粋人間がそうしたパワーポリティクスに棹さす事自体に危うさが感じられます。加尾との悲恋もその一つの現れでしょう。
>加尾が実在の人物であったとは知らなかった。
コウジさんやNolly Changさんと、白紙で見ている私とで「恋愛パート」についての視点に微妙なずれがあったのはそのためでしたか。
Wikiによれば平井家は最下層ながら上士だったそうです。仮にも公家に嫁いだ姫君の側近となる以上下士の娘では無理があったということで司馬氏などは加尾をモデルに「お田鶴様」なる家老級の上士の娘を考案したのでしょう。