平成エンタメ研究所

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ドキュメンタリー作家はいかにあるべきか?~想田和弘監督「客観的なドキュメンタリーなど存在しえない」

2022年01月13日 | 事件・出来事
 NHKのテロップ捏造問題で、ドキュメンタリーについて考えていたら、
「選挙」「精神0」などのドキュメンタリー映画を手掛けている想田和弘さんのツイッターに遭遇した。
 以下に書かれていることに同感。
 客観的なドキュメンタリーなんてあり得ないし、つまらない。

「深夜特急」などを書いた沢木耕太郎さんのノンフィクション作品は「私ノンフィクション」と呼ばれているが、沢木さんの作品は「私が取材対象を見て、何を感じ、何を考えたか」が綴られている。
 想田和弘さんも同じ姿勢のようだ。

 以下は想田さんのツイッターからの引用。

 ここ20年くらい、ドキュメンタリー界ではドキュメンタリーをどうやって客観主義の幻想と呪縛から解き放つかというのがひとつのテーマになっていると思います。
 僕の観察映画もそうで、客観的なドキュメンタリーなど存在しえず、あらゆるドキュメンタリーは主観の産物とだという前提から出発しています。

 ただし主観の産物だからといって単に恣意的になればよいのかといえば、そうではない。
 僕の場合、そこで「観察(よく観る、よく聴く)」という行為がポイントになります。
 なるべく先入観と予定調和を排して虚心坦懐によく観てよく聴き、その結果発見したことを素直に映画にするということです。

 そして僕の考えでは、よく観てよく聴く(観察)の邪魔になるもののひとつが台本です。
 テレビ番組では普通、撮影前に事前取材をして台本を書かされます。
 台本にはナレーション案まで書き込まされたりします。
 この台本を局側と何度も書き直してゴーサインが出て初めて、撮影に行くことが許されます。

 しかしこれをやってしまうと、作り手は目の前の現実をよく観てよく聴くことよりも、台本に合わせて現実を切り取ろうとしてしまう。
 予定調和に陥り、発見がなくなる。
 だからこそ観察映画では事前取材もしないし、台本も一切書かず、行き当たりばったりで撮影しようと決めました。

 とはいえ、虚心坦懐に観察すれば「客観的真実」が描けるのかいえば、土台不可能です。
 観察という行為には必ず主体(拙作の場合は僕)があり、その主体の視点で観て聴いた主観的な世界が描けるだけです。
 大事なのは目の前の世界に対して意識を開き、何かを学び、それを観客と共有することです。

 ですから僕は撮影や編集の際には「自分」をなるべく空っぽにすることを心がけています。
 予期せぬ展開に翻弄され、制御不可能になればなるほど、ドキュメンタリーは輝くものだと信じています。
 現実を飼い慣らそうとした瞬間、ドキュメンタリーも輝きを失います。


 さて河瀬直美さんの「東京オリンピック公式記録映画」はどのようなものになるのだろう?
 始めに台本ありき、結論ありき。
 台本や結論のために「現実を飼い慣らそう」としていなければいいのだが……。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (象が転んだ)
2022-01-13 15:20:01
沢木氏の予想通り、とても”寂しいオリンピック”になりました。
その寂しさを徹底的に映像化して欲しいんですが、その勇気と才能が河瀬直美さんにはあるんでしょうか?
結局、無難な映像記録で終わりそうな気もしますね。
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同感です (コウジ)
2022-01-14 09:15:18
象が転んださん

いつもありがとうございます。

僕も無難な記録映画になると思います。
賛成派、反対派、いろいろな所に気を遣っていたら、無難なものにしかなりませんし。

一方、作家・河瀬直美に期待したい思いもあります。
さて、河瀬直美さんはがあのオリンピックをどう表現するのでしょうか?
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