「吾輩は猫である」には、漱石が明治の人間をどう見ていたか、という描写がある。
まずは銀行家と役人。
銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。
役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。
ところが委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らのくちばしを容るる理由がないものだなどと狂ってくる。(新潮文庫版P406)
役人の件などは現在にもあてはまるな。
役人は権力を委任されただけなのに自分の力だと勘違いしている。
「ある権限を委托した代理人」なのに偉そうにしているし、人民の代表の国会では平気でウソをつく。
これは政治家も同じで、彼らには「公僕」であること、漱石流に言えば「人民の召使」であることを忘れないでほしい。
金儲けを第一とする人間に対しても、漱石は不快感を表明している。
しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。
中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利きかないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。
これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。
吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。
こんな働き手を見るたびになぐってやりたくなる。
こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。
こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。
恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。
日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情なさけない事だ。(新潮文庫版P410)
金儲けをするために、騙し、生き馬の目を抜き、脅し、陥れる者たち。
漱石は彼らを恥を知らない「ごろつき」と呼ぶ。
現代社会でも、政治家にヨイショして、中抜きした利益をキックバックして、税金を貪る輩がいるからな。
まあ、こんな「ごろつき」になることが資本主義社会で幅を利かせることなのだが、漱石はこういう輩が殴ってやりたくなるほど大嫌いなのだ。
そして、働きもなく、駄弁を弄して、日々ぐうたら過ごす主人・苦沙弥先生に言及する。
こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。
意気地のないところが上等なのである。
無能なところが上等なのである。
猪口才でないところが上等なのである。(新潮文庫版P411)
ここ、すごいな。
意気地がなくて無能で生産性がないことが上等で素晴らしい、と価値観を転換させた!
ぐうたら過ごす人間の方が、他人を騙したり、陥れたりしないから、人間として上等なのだ!
僕はこのくだり好きなんですよね。
資本主義社会に組み込まれて、ずるいこと、他人を陥れることをするよりは、
それから外れてのんびり生きた方がいい。
僕が漠然と思っていたことに漱石からお墨付きをいただいた。
まずは銀行家と役人。
銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。
役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。
ところが委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らのくちばしを容るる理由がないものだなどと狂ってくる。(新潮文庫版P406)
役人の件などは現在にもあてはまるな。
役人は権力を委任されただけなのに自分の力だと勘違いしている。
「ある権限を委托した代理人」なのに偉そうにしているし、人民の代表の国会では平気でウソをつく。
これは政治家も同じで、彼らには「公僕」であること、漱石流に言えば「人民の召使」であることを忘れないでほしい。
金儲けを第一とする人間に対しても、漱石は不快感を表明している。
しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事よりほかに何も知らないようだ。
中学などの少年輩までが見様見真似に、こうしなくては幅が利きかないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。
これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。
吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。
こんな働き手を見るたびになぐってやりたくなる。
こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけ衰える訳である。
こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。
恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。
日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情なさけない事だ。(新潮文庫版P410)
金儲けをするために、騙し、生き馬の目を抜き、脅し、陥れる者たち。
漱石は彼らを恥を知らない「ごろつき」と呼ぶ。
現代社会でも、政治家にヨイショして、中抜きした利益をキックバックして、税金を貪る輩がいるからな。
まあ、こんな「ごろつき」になることが資本主義社会で幅を利かせることなのだが、漱石はこういう輩が殴ってやりたくなるほど大嫌いなのだ。
そして、働きもなく、駄弁を弄して、日々ぐうたら過ごす主人・苦沙弥先生に言及する。
こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。
意気地のないところが上等なのである。
無能なところが上等なのである。
猪口才でないところが上等なのである。(新潮文庫版P411)
ここ、すごいな。
意気地がなくて無能で生産性がないことが上等で素晴らしい、と価値観を転換させた!
ぐうたら過ごす人間の方が、他人を騙したり、陥れたりしないから、人間として上等なのだ!
僕はこのくだり好きなんですよね。
資本主義社会に組み込まれて、ずるいこと、他人を陥れることをするよりは、
それから外れてのんびり生きた方がいい。
僕が漠然と思っていたことに漱石からお墨付きをいただいた。
バルザックほど理屈っぽく直線的でもないんですが、あの当時にこれだけの権力批判が出来るのは、やはり凄いですね。
いつもありがとうございます。
漱石は明治社会が居心地が悪かったんでしょうね。
まわりには腹の立つやつばかりいる、みたいな感じで。
そんな中、何もせず、半分隠遁生活を送ることに価値を見出すのは、東洋的ですよね。
西洋人なら、気にくわない社会を改革してやろうという方向に向かいそうです。
つまり「生産性って何なの?」です。
今の延長線上に果てしなく未来があるのなら、現時点で役に立つことを極大化して効率化していけばいいわけですが、今の先に、未来があるとは限らないわけです。
民話の三年寝太郎は「現在の延長線上」にないところに未来を見つけました。
ただ、三年寝太郎は「今とは違うベクトルを見つける」ために密かに考えて努力していたわけで、単なるぐ~たらではなかったわけですが。
いつもありがとうございます。
「三年寝太郎」wikiで調べました。
蟻は「働き者」のイメージがありますが、群れの中にはまったく働かない者がいるみたいですね。
彼らは何をするかというと、いざという時、働き始める。
この怠け者の蟻のエピソードを思い出しました。
映画「シンゴジラ」の長谷川博己率いる「はぐれ官僚たち」も、普段は組織の外で、まったく機能していないんですよね。
でも、ゴジラが襲来したら、大活躍した。
「シンゴジラ」の主人公たちは、「三年寝太郎」だった!
いずれにしても、おっしゃるとおり、「違うベクトル」で者を見る存在が必要なんですよね。
現状で行き詰まった時は、「違うベクトル」で突破する。
同じ価値観で硬直化した社会はいずれ衰退・滅びへの道へ進むんでしょうね。
↓
「違うベクトル」でものを見る存在