昨日、かなり疲れていましたので、写真のアップが出来ず残念でした。
台風が来ているというので、富士山は見られない無いのデハ?と思っていましたが、
台風が来ているというので、富士山は見られない無いのデハ?と思っていましたが、
雪を背負っていない雄大な富士山を久しぶりに見て来ました。
雪のない雄大な富士山は久しぶりでした。
母を訪ねている頃は、国道から母の家の方面にハンドルを切りますと、
ひたすら雄大な富士山に向かって走るのです。懐かしい感覚でした。
母を訪ねている頃は、国道から母の家の方面にハンドルを切りますと、
ひたすら雄大な富士山に向かって走るのです。懐かしい感覚でした。
台風の接近で雲が変化し、雄大な富士山は見えたり見えなくなったりでした。
霊園ではすぐ後ろに富士山が見えるのですが、昨日は一寸残念でした。
それでも東名を走っている時に、富士山の姿が撮れました。
霊園ではすぐ後ろに富士山が見えるのですが、昨日は一寸残念でした。
それでも東名を走っている時に、富士山の姿が撮れました。
終戦を富士宮で迎え、軍属でシンガポールに行っていた父親も富士宮に戻って来ました。
大きなリュックを背負った父が、兄と弟とわたしの3人を抱える様に抱いた時、
”人さらい?”と瞬間恐怖を覚えた記憶が有ります。
兄は直ぐ父親と気が付いたようですが、わたしと弟はぼんやりしていました。
ただ、富士宮の何処で父と再会したかははっきり覚えています。
父と富士宮で住んだことが無いのに、どうしてわかったのかしら?
それがとても不思議でしたが、それを父に質問出来ずにいました。
ただ、富士宮の何処で父と再会したかははっきり覚えています。
父と富士宮で住んだことが無いのに、どうしてわかったのかしら?
それがとても不思議でしたが、それを父に質問出来ずにいました。
ただ、父は父の写真の裏に、わたし宛ての手紙を書き、送って来ていましたので
父親への違和感はすぐ消えましたが…。懐かしい昔々の記憶です。
そして、大森に住みながら、”別荘”と言って富士宮に家を建て、
結果的には両親の終の棲家になったのです。
父が亡くなっても、母は広い敷地に建てたその家に独りで住み続けたのです。
母の生まれた地でもなく、疎開先の地です。
もっとも富士宮は母の母、わたしの祖母の姉夫婦が住んでいたので、
疎開先になったと聞いています。
子供の頃、夏休みは40日間、毎年疎開先の大叔母の家で過ごしていました。
子供の頃、隣の灯りが見えるようなことは無いほど、人家は有りません。
回覧板をお隣に持って行くよう言われても、蛇の姿を視たりしますので
怖かった記憶があります。
今日はゆっくり写真のアップを頑張りましたが、エラーの続出。
近々パソコンの講師の方にお願いして、クリアしたいです。
昨日がパソコン教室でしたが、当然、優先順位はお墓参りと新盆のお参りです。