フォンテーヌの家  わたしのつぶやき

横浜市南区で趣味の会[フォンテーヌの家」 

車中から撮った富士山をアップしたいのですが、残念!”システムにエラー”が有るようです。

2021-08-08 17:48:59 | 老人一人暮らし
昨日、かなり疲れていましたので、写真のアップが出来ず残念でした。
台風が来ているというので、富士山は見られない無いのデハ?と思っていましたが、
雪を背負っていない雄大な富士山を久しぶりに見て来ました。

雪のない雄大な富士山は久しぶりでした。
母を訪ねている頃は、国道から母の家の方面にハンドルを切りますと、
ひたすら雄大な富士山に向かって走るのです。懐かしい感覚でした。

台風の接近で雲が変化し、雄大な富士山は見えたり見えなくなったりでした。
霊園ではすぐ後ろに富士山が見えるのですが、昨日は一寸残念でした。
それでも東名を走っている時に、富士山の姿が撮れました。

終戦を富士宮で迎え、軍属でシンガポールに行っていた父親も富士宮に戻って来ました。
大きなリュックを背負った父が、兄と弟とわたしの3人を抱える様に抱いた時、
”人さらい?”と瞬間恐怖を覚えた記憶が有ります。

兄は直ぐ父親と気が付いたようですが、わたしと弟はぼんやりしていました。
ただ、富士宮の何処で父と再会したかははっきり覚えています。
父と富士宮で住んだことが無いのに、どうしてわかったのかしら?
それがとても不思議でしたが、それを父に質問出来ずにいました。

ただ、父は父の写真の裏に、わたし宛ての手紙を書き、送って来ていましたので
父親への違和感はすぐ消えましたが…。懐かしい昔々の記憶です。

そして、大森に住みながら、”別荘”と言って富士宮に家を建て、
結果的には両親の終の棲家になったのです。
父が亡くなっても、母は広い敷地に建てたその家に独りで住み続けたのです。

母の生まれた地でもなく、疎開先の地です。
もっとも富士宮は母の母、わたしの祖母の姉夫婦が住んでいたので、
疎開先になったと聞いています。
子供の頃、夏休みは40日間、毎年疎開先の大叔母の家で過ごしていました。

子供の頃、隣の灯りが見えるようなことは無いほど、人家は有りません。
回覧板をお隣に持って行くよう言われても、蛇の姿を視たりしますので
怖かった記憶があります。


今日はゆっくり写真のアップを頑張りましたが、エラーの続出。
近々パソコンの講師の方にお願いして、クリアしたいです。
昨日がパソコン教室でしたが、当然、優先順位はお墓参りと新盆のお参りです。
コメント
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