格差階級社会をなくそう

平和な人権が尊重される社会を目指し、マスゴミに替わって不正、腐敗した社会を追求したい。

青色LED開発でノーベル物理学賞を受賞した中村修二教授は「超難関のウルトラ クイズ

2014-10-11 10:46:19 | 杉並からの情報発信


青色LED開発でノーベル物理学賞を受賞した中村修二教授は「超難関のウルトラ
クイズみたいな大学受験システムがつまらない人間をつくりだす元 凶」と批判
したが、物事の善悪ができず、出世と金にしか興味を持たない【反国民・売国】
官僚や政治家を大量に育成する東大法学部は解体すべき!

中村修二教授はまた個人の自由な努力と成果を尊重せず、企業や組織や国家が個
人の成果を横取する日本のシステム、個人が搾取され企業と国家が繁栄 する日
本のシステムを次のように批判している!

①[怒りが私の研究の原動力」と語り、研究に冷ややかだった元勤務先から「無駄
飯食い」と中傷されたエピソードを披露。「会社の上司たちが私を見 るたび
に、まだ辞めてないのか、と聞いてきた。私は怒りに震えた」と話していた。

②一方で「仕事はアメリカがやりやすい。スピードが速く、規則がない」と米国
の研究システムを高く評価し、「米国の研究者にはたくさんの自由があ るが、
日本には本当の自由がない」とバッサリ。過去には「超難関のウルトラクイズみ
たいな大学受験システム が、つまらな い人間をつくりだす元凶」とまで言って
のけた。

【関連情報1】

▲ 「国の誇り」と大騒ぎだが…中村教授はなぜ日本を棄てたのか

2014年10月10日

「日本に自由はない」と中村教授/(C)AP

「日本人が快挙達成」「同じ日本人として晴れがましい」――。日本の研究者3人
がノーベル物理学賞を受 賞したことで、国内メディアは大騒ぎ。個人の受賞を
「国の栄誉」と解釈して、万歳ムードが広がっている。

だが、ちょっと待って欲しい。受賞者の一人の中村修二氏は世界的発明の対価で
ある「報奨金2万円」を不服として勤務先を相手に裁判を起こし、日本 の産業
界に一石を投じた先駆者でもある。その後はさらなる研究の場を求めてカリフォ
ルニア大教授に転身。米国籍も取得した。つまり日本を見限った わけだ。

7日の会見でも中村氏は「怒りが私の研究の原動力」と語り、研究に冷ややか
だった元勤務先から「無駄飯食い」と中傷されたエピソードを披 露。「会社の
上司たちが私を見るたびに、まだ辞めてないのか、と聞いてきた。私は怒りに震
えた」と話していた。

一方で「仕事はアメリカがやりやすい。スピードが速く、規則がない」と米国の
研究シス テムを高く評価し、「米 国の研究者にはたくさんの自由があるが、日
本には本当の自由がない」とバッサリ。過去には「超難関のウルトラクイズみた
いな大学受験システム が、つまらな い人間をつくりだす元凶」とまで言っての
けた。

偏狭な民族主義をあおる安倍政権以下、日本の自称「愛国者」たちは、この国に
愛想を尽かした中村氏を「国家の誇り」と持ち上げているわけ だ。

工学博士の秋元格氏が言う。

「中村氏は研究者にとって日本は劣悪な環境と痛感したのです。理研みたいな研
究機関や大学では文科省の役人が予算を取り仕切り、研究者はカヤの 外。自由
な研究はできません。しかも画期的な発明をしても報酬はゼロに近い。米国の大
学はその対極にあります。中村氏のカリフォルニア大の年俸は 2000
万~3000万円でしょうが、米国では研究者が企業などから研究費を提供して
もらい、自由に使うことができる。研究に5億円出してもらい、契 約によって
はそのうちの1割を生活費に充てることも許されます。企業側は余計な口出しを
せず、自由なお金として使えるのです」

■ムードで飛びつく日本社会の未成熟

秋元氏によると、欧米では受賞はあくまでも個人の栄誉と受け止め、それほど騒
がないそうだ。

「せいぜい大学の学生が“お祝いパーティーで酒が飲める”“就職に有利になるか
も”と期待する程度」(秋元氏)というから、日本と大違いである。

「日本人がおかしいのです」とは社会学者で作家の岳真也氏だ。

「小保方さんがSTAP細胞を発表したときもそうでしたが、明るいニュースが
あると一斉に飛びついてもてはやす。個人の考えではなく、ムードで行 動して
し まう。まさに“国民が成熟していない大衆社会”です。これから安倍首相は受
賞者を呼んで政治パフォーマンスに利用するだろうし、国民は“日本は技術立国
だ”と勘違いする。集団催眠にかかり、安倍さんの支持率は上昇。その先に待っ
ているのは消費税の引き上げや集団的自衛権でしょう」

中村氏は腹の底で苦笑いしているのではないか。

【関連情報2】

中村教授「2万円」騒動から10年…日亜化工の成功報酬は今
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/153986
2014年10月9日 日刊ゲンダイ


 中村修二教授(60)のノーベル賞受賞で、再び脚光を集めているのが古巣の「日亜化学工業」(徳島)だ。

「中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは、光関連技術の日亜化学にとっても誇らしい」――。日亜のコメントは、かつての同僚の栄誉を称えるよりも、あくまで青色LEDは自社の研究成果と強調するような内容だった。

 あらためて同社にコメントの真意を聞くと、「(受賞は)中村氏だけではなく、多くの社員も努力したからということ。そう受け取っていただいて結構です」(広報)と淡々と答えた。05年に和解が成立した発明対価をめぐる激しい“法廷バトル”のミゾは今も完全には埋まっていないのだろう。

 とはいえ、中村教授が開発した青色LEDが、徳島の中小企業だった日亜を「世界企業」に押し上げたのは事実だ。

「日亜は、蛍光灯やテレビのブラウン管で使用されていた蛍光体を細々と作る零細企業でしたが、93年に青色LEDを製品化すると、一気に業績を伸ばした。90年当時、200億円足らずだった売上高は今や約3100億円と15倍に跳ね上がった。米国や欧州に子会社14社を抱える大企業に成長したのです」(経済ジャーナリスト)

 これだけ規模が大きくなれば、社員の待遇も「世界レベル」かと思いきや、同社の有価証券報告書によると、社員の平均年収は約510万円(33.4歳平均)。国内サラリーマンの平均レベルだ。一方、14人いる役員の平均年収は約4000万円である。

 中村教授が「2万円」しか受け取れず、海外の研究者から「スレイブ(奴隷)」とバカにされた研究・開発の成功報酬制度は改善されたのか。同社は「変わりましたが、内容は公開しておりません」(広報)というだけだ。

「一般論として、日本の企業は社員個人の報酬を増やすという考え方でなく、会社が利益を全てぶん捕る考え方です。その発想は、ここ何十年も変わっていない。悪い意味の平等主義で、これではサラリーマンは働いても働かなくても同じ。モチベーションが高まるはずがありません」(一橋大特任教授の西山昭彦氏)

 日亜社員の平均勤続年数は8.4年。“人材流出”をうかがわせる数字だ。

 日本の産業界の状況は、中村教授が「一石」を投じた当時と変わっていない。


▲LED開発 創業者長男が明かす秘話

大恩人の[やってみなはれ]精神
現トップには[人を見る目がないんじゃないか]

2014.10.10【日刊ゲンダイ】

[誰に一番感謝していますか]ととわれて中村教授が真っ先に挙げた人物は、自身
が20年間務めた日亜化学工業の創業者・故・小川信雄氏だた。

中村氏が開発費3億円をかけて[青色LEDを作りたい]と直訴した際、[ええわ、や
りなはれ]とあっさりOK.サントリー創業者の鳥居信次郎氏を 彷彿させるが、ど
んな人物だったのか。

[陸軍医学校に入り、南方戦線へ軍医直属の薬剤官として従軍。終戦後の56年
に、出身地である徳島県阿南市で日亜を設立しました。89年いは社長 を退く,02
年に死亡。享年90でした。二男二女をもうけています。現社長の小英治氏は長女
の娘婿です](マスコミ関係者)

信夫氏の長男・雅照氏は[父は非常に豪胆な性格でした。会社運営のための細か
い手続きなどは綿密に処理するなど、繊細な一面もありました]とこう 続ける。

[人が知らないものを一から作り出すことを最上の目標にし、研究や勉強に一切
妥協しない。中村さんもひたむきな研究を繰り返すかただったので、父 とは波
長が合っていました。大塚製薬創業者の大塚竹三郎氏を尊敬し、寝室には大塚氏
の書いた四字熟語の掛け軸がありました。意味は『汗を流して道 を悟る』。苦
労するのが好きな父らしい言葉だと思います]

雅照氏は77年に日亜に入社したが、82年に退社している。今の日亜をどう見てい
るのか。
[開発に"3億円"をポンと出すような社風は、今はありません。会社が一定の規模
に成長しているので仕方のないことです。しかし、私の弟・智滋は 中村さんと
同期入社で取締役まで勤めましたが、父の社長退任後、追われるように会社を
辞めました。中村さんも父が退社した後は冷遇されていたよ うです。現社長に
は人を見る目がないんじゃないかと疑いたくもなります]
創業者の精神は息づいているのか。

▲小川信雄とは?(Wikipediaより)

小川信雄(おがわ のぶお、1912 年7月9日 - 2002 年9月6日)は日本の実業家。
日亜化学工業創業者。元社長。会長。徳島県出身。旧制徳島高等工業学校製薬化
学科(現・徳島大学薬学部)卒業。現・日亜化学 工業社長の小川英治は娘婿で
ある。

旧制徳島高等工業学校製薬化学科卒業後、南方戦線へ軍医直属の薬務員として従
事する。そこで、ア メリカ製の蛍光管を目の当たりにして、今後伸びる製品と
確信。1956 年に徳島県阿南市に、蛍光管製造を主とする日亜化学工業株式会社
を設立した。

開発課員だった中村修二の 青色発光ダイオード開発着手希望の直訴を受け、ア
メリカ留学と中小企業としては破格の研究開発費を拠出して中村の開発作業を側
面から支援し た。なお、中村 は2014年ノーベル物理学賞授賞のインタビュー
で、「私は日亜化学先代社長の小川信雄氏の研究支援に感謝している」と述べた







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