2015年8月11日 (火)
1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考その2
2010.8.21日付けブログ れんだいこのカンテラ時評782の「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」に続いてその2を発表しておく。門外漢なのではあるが、私の誕生日の事件と云うことで奇しきな縁を感じてウォッチを続けている訳である。今年、何か言わせるものがある。
一般に、事件は日々発生しているが、ディリーニュースとして消化的に処理されて構わないものと歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないものの二種ある。当然、その中間のようなものもあるので三種とみなすこともできる。「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」は、このうちの「歴史の最奥部に関わっており根底の真相を解明せねばならないもの」に属する。この事件の待遇の仕方として、まずこの観点を確立せねばならない。そういう訳で、「根底の真相解明」に向かう。
「その1」の構図を継承し、その後明らかになったことを補足したいが、この方面はできていないので他日に譲る。本稿では、この事件の核心的なキモの部分を再確認し共認を深めたいと思う。もう一つの中曽根犯罪を裏付けることに力点を置く。やること為すことが骨の髄までユダ屋被れであり、よくもバチが当らず90歳まで生きておることよと感心させられている。
マスコミの長年の名宰相論、大勲位論だのは当分の間、お笑いの種になるであろう。要するに中曽根は国際ユダ屋御用聞き一等賞の首相であり政界君臨者である。その対極が田中角栄であり、角栄の運命は衆知の通りである。よりによって二人が同年生まれの同期代議士にして首相経験者であるとは。歴史は時にこういう奇しき味なことをする。
さて、第一に記しておくべきことは、JAL123便(以下、単に123便と記す)の操縦者についてである。海上自衛隊出身の高濱雅己機長、他に佐々木祐副操縦士、福田博航空機関士が操縦していた。この3名は日航の誇る名パイロットであり鉢合わせすること自体が異例であった。事前に何事かが起ることが予見されており、その対策としてクルーにされていたようである。であるとすれば何が待ち構えていたのかが詮索されねばならない。
6時12分、123便が524人の乗客乗員を乗せ羽田を離陸した。これより「32分間の戦い」が始まる。18分、クルーが右前方から奇怪な飛行物体が飛行機に近づいて来るのを視認している。23分、一度外したシートベルトの再着用をアナウンスしている。24分35秒、123便が伊豆大島の北の相模湾上を飛行中、「ドドーンドンドン」と云う衝撃音が発生し垂直尾翼に何ものかが衝突した。同37秒、客室高度警報音が鳴っている。同40秒、関東南A空域のレーダー画面に「エマージェンシー・コール」(EMG、緊急事態)の赤い文字が点滅しピーピーと金属音を帯びた警報が鳴り異変を知らせた。同42秒、機長が、東京ACC(東京航空交通管制部)にEMGの国際緊急無線信号「スコーク77」を発信している。
以降、123便と管制室の命がけのやりとりが始まっている。機長は、「スコーク77」を発信した後、「羽田への帰還」を求めている。28分30秒、「現在アンコントロール(操縦不能)」と発信している。管制官は名古屋に着陸できるかと聞いている。機長は羽田着陸を主張している。この間、横田基地へ着陸誘導されている。31分02秒、機長は羽田に戻りたいと強く主張している。同08秒、焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロールし始めている。
なぜだか羽田空港に引き返すことができない状態になっており、右に大きく旋回し北方向へ飛行を続けていった。この後、異変が発生しているが略す。40分頃、管制室が横田基地への緊急着陸を指示している。この後、「謎の7分間の空白」となっているとされ明らかでない。傍受によると、横田基地が合計13回にわたって「スタンバイできている」ことを繰り返し呼びかけている。123便はなぜかこれに応答していない。
47分、123便は墜落地点である御巣鷹山に向かって降下して行く。この時、自衛隊機が123便の前方に出て進路誘導している気配があるが、強引に左旋回飛行指示を出して抵抗している。47分頃、既に墜落を覚悟し、最適の着陸地を求めて操縦している。48分40秒、機長「山いくぞ」、副操縦士「はい」。凡その着陸地の方位方角が決まったようである。50分09秒、機長「どーんと行こうや」。同27秒、機長「がんばれ」。副操縦士「はい」。この後のやりとり略。56分26秒、猛烈な衝撃音。
ここまでのピット内のクル―、パーサー、スチュワーデス乗務員一丸の奮闘は涙なしには語れない。この経緯で何を窺うべきか。機長が横田基地への着陸を頑なに拒否し、羽田に戻る旨を告げ、それが拒否され、(多くの解説が、ここの下りを逆に評している。本稿以降は通用しなくなるであろう) 123便は、与えられた情況と条件下での最適の操縦により「御巣鷹の尾根」に胴体着陸した。即ち多くの人が生き残られるよう海ではなく、なぜだか基地でもなく、山を目指し、「御巣鷹の尾根」を見つけ、墜落と云うよりも着陸した。
「れんだいこの事件考」はここまでが前半で、ここからが後半となる。後半については来年度の命日に記そうと思う。関心は、機長を始めとするコックピットの名操縦で相当数の者が生き残っていたのに、女性ばかり4名のみが生還した不可解さを問うことにある。午後7時だと、それほど暗くはなかろうに、長時間にわたって墜落現場が不明だとされ、向かった者は誤誘導され、あるいは正しく向かう自衛隊員が始末されたとも云う。これに関心の湧く者は各自で調べるが良かろう。