福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「仏のお姿」は神力により現れたもので、人々の中にある仏を表している

2020-06-08 | 法話
イスラム教がはやっていますがイスラムの言う「偶像」と「仏像」は根本的に違います  。「仏像」は神力により現れたもので、人々の中にある仏を表しているからです。仏像に跪拝するのは自身仏に跪拝しているのです。従って偶像破壊などといって仏像を壊すことは自身を壊すことになります。

1、東大寺の森本管長が平成21年2月8日のNHK心の時間で、イスラム教のいう「偶像」と「仏像」は違うと言っておられました。要は「仏像は仏さまの働きを表しているので偶像とは違う」とおしゃっています。
森本「あなた方(イスラム)のいう偶像とこの仏像(大仏様)とは違うんだ。意味が違うんだ、と説明していく。」 「仏教では最初はお釈迦様を一つの姿にするということはしなかった。五百年ほど経って仏像というのは生まれた。」「イスラムの場合はコーランという言葉があって、それで伝える。しかしこれはアラビア語で書かれていますから、アラビア語をしゃべれる民族はいいけれども、それ以外の人たちにとっては言葉が非常に難しい。」「仏教の場合は言葉の問題もあって、むしろ形というものを示すことによって仏教の思想をわかって貰えるんじゃないか、ということで仏像が生まれた。仏像が生まれると同時に、今度はいろんな仏像のバリエーション―仏、菩薩像もそうですけれども―それぞれの働きというものを形を示すことによって人々にわかって頂くという、形そのものがあなた方(イスラム教)のいうコーランにあたるのだ、というような説明の仕方をする。」

2、そもそも仏像は(以下「仏教博識問答五百題」等によります)、増一阿含経に「仏、帝釈の請によりて刀利天に昇り母の為に説法したまう。その時、優填王は仏と離れがたく思い,仏を思慕して栴檀を以て高さ五尺の仏の像を造る」とあるのが始まりとされます。(仏祖統紀)。「またこれを聞いて波斯匿王は紫磨金を以て高さ五尺の仏像を鋳たといい、これを鋳像の始めとします。
中国への仏教伝来は、後漢(二五~二二〇年)の明帝(五七~七五年)の感夢求法説が有名。これは明帝が夢の中で金 色に輝く「金人」を見て大月氏国(アフガニスタン北部)に使者を派遣し『四十二章経』を写経、さらに仏寺(洛陽の白馬寺)を建てたとするも ので、このときの仏さまの絵像が中国の仏像の始まりといわれます。

3、以上のように仏像には仏さまを慕う心情が籠っている以上に仏像を求めると必ず開眼供養(魂入れ)をします。仏壇や寺の仏さまにはちゃんと「魂」が入っています。単なる偶像ではありません。
そして仏像は当然無数の霊験を発揮されています。
例えば最初の仏像といわれる吉野の比蘇寺の阿弥陀如来は日本書紀巻第十九 欽明天皇14年5月に「河内国から『泉郡の茅渟の海(大阪湾)から、雅楽の音が聞こえ、それは雷のように響くほどで、また、麗しく照り輝き日の光のようです』との報告があった。天皇はあやしんで、溝辺直(いけべのあたい)を使わし、海の中を探させた。溝辺直は海の中で照り輝く樟木を見つけ、これを取って持ち帰り、天皇に奉った。天皇は匠に命じて、仏像2体を造らせた。これが我が国の仏像の始まり。これが今の吉野寺に光を放っている樟の仏像である。」とあり、又同寺の十一面観世音菩薩は日本書紀巻第二廿 推古3年3月に「土佐国の南海に毎夜、雷光のように光を発する「沈水香」という木があり、翌四月には、淡路島に漂着した。島人は、これを薪として火にくべたところ、非常に良い香りがしたので、天皇に献上した(香木の日本の史書における初見)。これを見た聖徳太子は、この木が南海に自生する栴壇という香木からできた沈水香であると、天皇に奏上した。天皇は喜び、匠に命じて、この香木で観音像を作らせ、吉野の比蘇寺に祀った。この像は、時々光を放った。」
浅草寺、川崎大師等諸寺の開創をみても仏像の不思議な霊験によるものばかりです。また全国津々浦々の寺院の仏さまは数えきれない霊験を発揮されています。

4、仏像は衆生に自身の中の仏を自覚させるためにつくられています。そして
5、お大師様の「付法伝」に「塔は人力の所為に非ず。如来神力の所造なり」とあります。塔がそうであれば仏像も当然「如来神力の所造」です。
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