原文
「或るが問うて云く、『般若は、第二未了の教なり。何ぞ能く三顕の経を呑まん。(はんにゃは、だいにのみりょうのきょうなり。なんぞよくさんけんのきょうをのまん。』
如来の説法は、一字に五乗の義を呑み、一念の三蔵の法を説く。
何に況んや、一部一品、何ぞ匱しく、何ぞ無からん。(いかにいわんや、いちぶいっぽん、なんぞとぼしく、なんぞなからん。)
亀卦・爻蓍、万象を含んで尽くること無く、(きけ・ぎょうし、まんぞうをふくんでつくることなく、)
帝網・声論、諸義を呑んで窮まらず。(たいもう・しょうろん、しょぎをのんできわまらず。)
難者の曰く(なんじゃのいわく)
『もし然らば、前来の法匠、何ぞこの言を吐かざる。(もししからば、ぜんらいのほっしょう、なんぞこのことばをはかざる)。』
答う。
『聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随い、(しょうにんのくすりをなぐること、きのじんせんにしたがい)、
賢者の説黙は、時を待ち、人を待つ(げんじゃのせつもくは、ときをまち、ひとをまつ。)
吾れ、未だ知らず、蓋し、言うべきを言わざるか(われ、いまだしらず、けだし、いうべきをいわざるか、)
、
言うまじければ言わざるか。言うまじきを之を言えらん。失(とが)、智人(ちにん)、断りたまえまくのみ。」
訳・・般若心経が大般若経典の要約であるとする法相宗等の立場の人が質問していうかもしれない。
『すべての経典が、お釈迦様の悟りの初時に説かれた有教、第二時に説かれた空教(ここまでをお釈迦様の真実をすべてあらわしてないとして未了義経という)、第三時に説かれた中道教(これをお釈迦様の真実を顕していると入して顕了の経とする)、という三種に分けられるが、『般若経』は、第二の空教(未了義経)にあたるものであり、すべてを論じつくしているものではない。どうして第三時の顕了真実の中道を説く経典まで含むということができるのか。』と、
(答えていうと)『如来の説法は、わずか一字の中にも、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗の教を含んでいる。また、一念のうちにも経・律・論の三蔵の教えを明らかにしている。
したがって、経文の一部でも、一品でもあれば、すべての教えがふくまれているはずだ。
あたかも、亀甲に乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤という八卦があらわれ、蓍(し)という神草に六爻があらわれるなど占の中にも宇宙全体のあらゆる現象があらわれるようなものであり、
あるいは、帝釈天宮にかかっている網に無数についている宝珠が互いにすべてを映しあっているようなものであり、あるいは、梵天の「声明論」にも一言一言にすべての意味が含まれていると説かれているようなものである。』
(さらに)論難する人が質問する。
『もしそうであるならば、これまでの仏教の学匠たちは、いったいどうして『般若心経』が、それほど深い経典であることを論じなかったのか。』
答えていう。
『聖人が教えを説く場合には、それを聞く人々の程度にあわせて教えを説くのである。
また、賢者が教えを説いたり、逆に黙って説かなかったりするのは、それは、適当な時期と聞くにふさわしい人が現れるのをまっているからだ。
この心経の深い内容を先人たちが説くべきだったのにとかなかったのか、説くべきでないとおもって説かなかったのか。その判断は保留する。
けれども私は、いまからそれを説こうとしている。このことが、説いてはならないことを説く過失になるかのかどうか、この点については、一切智をもつ仏陀に判断をあおぐばかりである。』
「或るが問うて云く、『般若は、第二未了の教なり。何ぞ能く三顕の経を呑まん。(はんにゃは、だいにのみりょうのきょうなり。なんぞよくさんけんのきょうをのまん。』
如来の説法は、一字に五乗の義を呑み、一念の三蔵の法を説く。
何に況んや、一部一品、何ぞ匱しく、何ぞ無からん。(いかにいわんや、いちぶいっぽん、なんぞとぼしく、なんぞなからん。)
亀卦・爻蓍、万象を含んで尽くること無く、(きけ・ぎょうし、まんぞうをふくんでつくることなく、)
帝網・声論、諸義を呑んで窮まらず。(たいもう・しょうろん、しょぎをのんできわまらず。)
難者の曰く(なんじゃのいわく)
『もし然らば、前来の法匠、何ぞこの言を吐かざる。(もししからば、ぜんらいのほっしょう、なんぞこのことばをはかざる)。』
答う。
『聖人の薬を投ぐること、機の深浅に随い、(しょうにんのくすりをなぐること、きのじんせんにしたがい)、
賢者の説黙は、時を待ち、人を待つ(げんじゃのせつもくは、ときをまち、ひとをまつ。)
吾れ、未だ知らず、蓋し、言うべきを言わざるか(われ、いまだしらず、けだし、いうべきをいわざるか、)
、
言うまじければ言わざるか。言うまじきを之を言えらん。失(とが)、智人(ちにん)、断りたまえまくのみ。」
訳・・般若心経が大般若経典の要約であるとする法相宗等の立場の人が質問していうかもしれない。
『すべての経典が、お釈迦様の悟りの初時に説かれた有教、第二時に説かれた空教(ここまでをお釈迦様の真実をすべてあらわしてないとして未了義経という)、第三時に説かれた中道教(これをお釈迦様の真実を顕していると入して顕了の経とする)、という三種に分けられるが、『般若経』は、第二の空教(未了義経)にあたるものであり、すべてを論じつくしているものではない。どうして第三時の顕了真実の中道を説く経典まで含むということができるのか。』と、
(答えていうと)『如来の説法は、わずか一字の中にも、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗の教を含んでいる。また、一念のうちにも経・律・論の三蔵の教えを明らかにしている。
したがって、経文の一部でも、一品でもあれば、すべての教えがふくまれているはずだ。
あたかも、亀甲に乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤という八卦があらわれ、蓍(し)という神草に六爻があらわれるなど占の中にも宇宙全体のあらゆる現象があらわれるようなものであり、
あるいは、帝釈天宮にかかっている網に無数についている宝珠が互いにすべてを映しあっているようなものであり、あるいは、梵天の「声明論」にも一言一言にすべての意味が含まれていると説かれているようなものである。』
(さらに)論難する人が質問する。
『もしそうであるならば、これまでの仏教の学匠たちは、いったいどうして『般若心経』が、それほど深い経典であることを論じなかったのか。』
答えていう。
『聖人が教えを説く場合には、それを聞く人々の程度にあわせて教えを説くのである。
また、賢者が教えを説いたり、逆に黙って説かなかったりするのは、それは、適当な時期と聞くにふさわしい人が現れるのをまっているからだ。
この心経の深い内容を先人たちが説くべきだったのにとかなかったのか、説くべきでないとおもって説かなかったのか。その判断は保留する。
けれども私は、いまからそれを説こうとしている。このことが、説いてはならないことを説く過失になるかのかどうか、この点については、一切智をもつ仏陀に判断をあおぐばかりである。』