福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

山岡瑞円師「人格的生活を目指して」その1

2016-09-13 | 法話
「・・・遍く一切に行き渡った心を遍照といふのであります。すでにこの遍照金剛の機根をもたずして密教を取り扱ふのは間違いもはなはだしいのであります。・・・この遍照金剛の無限絶大の仏をひしと拝むのでなければなりません。仏様の絶大の力をまさしく身に受けてそこから無碍のはたらきとなって表れてくるとき、理屈はなくとも人は自然に心服するのであります。無限絶大の力にひれ伏すときはじめて無から有を生ずる力もでてくる、日本の国難を救うのは全くこの力なしではできませぬ。・・・ただ理屈さえ口賢くしゃべればそれでよいかのように今日の教育は知育に偏しているから世の中が混乱に陥ったのであります。・・・しかるに密教はすでに何千年もの間所謂身口意の三密の修練をつんできたのであります。身口意即ち物と心と活動が総合的に一如になることができるのであります。この境地から神変不思議の力が顕れてくるのであります。・・・なにごとにつけても理論だけでは物にならぬ。実行がともなわなければなりませぬ。それにはどうしても鍛錬が必要です。鍛錬の要は心を込めて拝むことであります。・・・この世界は学問で片附く世の中ではありません。先ずなにごとにおいても本当の生きた仏様に向かい合う事からはじめなければならぬのです・・。

さて本当の拝み方とはなにか、仏様を拝むということは「懺悔」「随喜」、「勧請」、「菩提心」、「廻向」の五つからなります。そしてその「師」とはだれかと云うに、これは常住の三宝であります。宇宙の本体たる仏と、その働きの規則である「法」と、自在無碍の働きたる「僧」でありました、この「佛(体)法(沿う僧(用)の三つを一人格に円満せる霊体を三世常住の大日如来と呼び、これを我らの生きた師匠として拝むのであります。すなわちこの大日如来に対して自己を内省したとき「懺悔」の心が起こらずにはおりません。同時にそれは大日如来への敬慕「随喜」となりついに自らもその道を一歩一歩踏みたい心になって仏を自己の中に「勧請」し、そのたびに妙味深々と湧いてこの境地を断じて離れえぬ不退の菩提心となり、その道を得るごとに法悦を他に分かって他とともに喜びあふ「廻向」となるのであります。かくてはじめて仏を拝むのであります。・・このなかの一つだけでも欠けては拝むことになりません。(続)
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