親鸞は父母の孝養のためにと考えて一返も念仏したことはない。
そのゆえは、一切の生きとし生けるものは、みな生まれ変わり死に変わりしたなかでの父母兄弟であるから。
いずれの生き物もこの次に生まれたときには仏になりて、たすけるべき存在でなのである。そんな深い縁の人たちを、次の世には自分が成仏して 助けなければなりません。 この世で自分の力で励む功徳ができればそれをさしむけて父母を 助けることもできましょう。しかし、自分で積むことのできる功徳などできる私ではないのです。ただ、仏様のお助けを得れば、生まれ変わり死に変わりする中でどんな目に会っても、 仏様の神通方便をたよりにご縁のある人を救うことができるでしょう。
(原文・・わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生(六道は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六種の世界をさし、四生は胎生・卵生・湿生・化生)のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々(歎異抄 第五章))