第一番 四萬部 誦経山玅音寺 御堂五間四面東向 本尊聖観音 立像御長一尺五分 行基菩薩御作
原夫當寺の来由は、人王四十五代の聖主聖武天皇、大に佛乗を信敬まします事、先代(女帝・元正天皇)に越へさせ御座て、南都東大寺を始、闔國(コウコク・国中)に數多の梵刹を開基し給ひければ、遠く異邦に其の徳聞へて、皈化の高僧數を知らず。南天竺の婆羅門僧正、林邑の佛哲、唐の鑑真各来朝して、天皇の徳を稱し、盛に佛法を弘通し給ふ。此時行基、良辨の二師を以て國家安全の御祈の為、法華・最勝両部を講ぜられ、亦諸國に國分寺をよび國分尼寺を建させ給へば、行基菩薩東西南北の諸道を往来して其他、地の靈なるを得るに随ひ、則ち佛像を彫刻して堂宇を建て、永く其の地をして佛乗退轉なからしめ給ふ。此の時 行基菩薩東道の按察使とともに来て、此の地必観世音有縁の霊地たる事を覚給ひ、本尊を彫刻し堂宇を艸創し給ふ。其後二百年有餘の星霜を経て、永延二年988性空上人、化人の告に依て播州書写の山を開き、圓教寺を艸創し給ひ、國民の為に讀誦大乗の三昧に入り給ひけるが、故あって暫く其行を怠り給ひし事ありしに、或時一つ霊鳥飛来て上人に向て啼て曰く、上人何とて讀誦を怠り給へる、此處より東に霊地あり、武蔵國秩父郡と云、佛法永く彼の地に昌なるべし。大徳必ず彼地の佛乗護法の為に先の如く玅典を讀誦し給ひ、且つ亦梵刹の再興を計り給へ、我は是観世音の御使なりと。金色の翼四方に輝かし、東方をさして飛去ぬ。元来此上人は天耳通を得給ふ事傳記に載する處の如く、能く霊鳥の囀りを解して大衆に命じ祈願し給ひて、此地の佛法昌隆のために妙經四萬部を讀誦せしめ給ふ。其後寛弘四年1007三月十三日上人寂に臨んで、弟子幻通比丘に遺命して曰く、汝吾滅後に及んで東國秩父に到り、彼の地をして益ます観世音の霊場、行基菩薩化縁を施し給ひし跡の、怠轉なからん事を計営すべしと、云畢て忽然として寂し給ふ。幻通遺命を堅く守、数百里の海陸を凌ぎ、此處に来て其地の水上を考へ、風俗を窺ひ見るに、開基より星霜を経たれば其頃の民の心甚邪に、誠に東夷と謂つべければ、結縁の應機發すべくもなし。暫く時の到れるを待つべしとて、近き山林に隠れて読経し給ふ。其後数回の春秋を送り、一朝忽ち機縁発して、有信の輩力を合せ堂塔則ち𦾔觀に復しぬ。於此玅典四萬部讀誦の供養を行ひ、塚を築て後世に示す。依之其地の名とせり。誠に不可思議殊勝の霊跡なり。當寺順禮の詠歌に
「有難や一巻ならぬ法の花 數は四萬部の寺の古」
詠歌の意を註釈するに、忝くも妙經の功徳は一字一句も其利益むなしからず、況や四萬部の功徳廣大にして邊際なきをやと。當寺開闢の来由を讃歎せしなり。宜なる哉、讀誦大乗は上品往生の正因、観経所説の三福(『観経』に西方極楽往生を願う者が修すべき三種の浄業、① 孝養父母・奉事師長・慈心不殺・修十善業、②受持三帰・具足衆戒・ 不犯威儀 ③発菩提心・深信因果・読誦大乗・勧進行者)の随一なり。一度此地順禮の輩、妙經の得益豈唐損ならん。命終即往安楽世界の金文(妙法蓮華經藥王菩薩本事品第二十三「若如來滅後後五百歳中。若有女人。聞是經典如説修行。於此命終。即往安樂世界阿彌陀佛大菩薩衆圍繞住處。生蓮華中寶座之上・・」)其頼母しからずや。當寺を以て札處の最第一とし給ふ事、併権化の定刻にあらずんば、誰か能く爰に及ばんや。等閑の看をなす事なかれ。