日本国現報善悪霊異記・中巻「極めて窮しき女千手観音の像に憑り敬ひ福分を願ひ以て大なる富を得る縁 第四十二」
「海使みの女(あまのつかいみのめ)は諾楽(なら)の左京の九条二坊の人なりき。子九産み、極めて窮れること比なし。生活くること能はず。穴穂寺の千手のみ像にして福分を願ひ、一年に満たず。
大炊の天皇の御世の天平宝字七年癸卯の冬の十月十日に不慮の外に、あえてその
妹来り、皮櫃を姉に寄せて往きき。脚に馬の屎(くそ)、染みたり。曰く「我、今来むが故に、是の物を置け」といふ。待てども来らぬが故に、往きて弟に問ふ、弟答ふらく「知らず」といふ。ここに内心怪しと思ひ、櫃を開きて見れば、銭百貫有り。常の如くに花香油を買ひて、千手の前に擎げ往きて見れば、其の足は馬の屎著けり。爾に乃ち疑ひ思はく「菩薩の貺たまひし銭か」とおもふ。
三年過ぐ。千手院に収めたる修理分の銭、百貫なし。因りて皮櫃は彼の寺の銭なることを知る。あきらかに委(し)る、是れ咸(みな)観音の賜りし所なりといふことを。
賛に曰く「善きかな、海使の氏の長母、朝に飢ゑたる子を視て、血の涙を流して泣く。夕べに香灯を焼き、観音の徳を願ふ。応ひありて銭家に入り、貧窮の愁を滅す。聖に感じて福を留め、大富の泉を流し、児を養ふに飽くこと発り、衣苑(あつま)る。晰(あきら)かに悉(し)る。慈子来りて祐け、香を買ひ価を得たることを」といふ。
涅槃経に説きたまへるが如し。「母、子を慈しび育てることに因りて自ら梵天に生る」とのたまへる(注)は
其れ斯れを謂ふなり。斯れ奇異しき事なり。
(注)大般涅槃經一切大衆所問品第五
「譬へば女人の懷妊し産するになんなんとして、國の荒亂に値ひ、遠く他土にり、一天廟に在りて即便ち生産す。のち、其の舊邦の安隱豐熟を聞きて、其子を携持して本土に還らんと欲し、路、河水を経るに水長暴急なり。是の兒を荷負して能く渡を得ることあたわず。即ち自ら念言すらく「我今寧ろ、子と一處に命を併して終るとも、捨棄して獨り渡らざるなり」。念じ已りて母子倶共に沒命す。命終之後、尋で天中に生ず。子を慈念して渡を得しめんと欲するを以てなり。而も是女人の本性は弊惡なり。愛子を以ての故に天中に生ずるを得るが如し。犯四重禁・五無間罪の護法心を生ずるも亦復た如是なり」。
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