神道大意、卜部兼直撰・・その2
心は則ち神明(かみかげ)の舍(みあらか、家)、混沌(まろかれたる)の宮なり。混沌まろかれたるとは、天地陰陽不分あめつちみぎのわいためなり。喜怒哀楽未発こころばえいまだおこらず、皆これ心の根本なり。心とは一神ひとつのかみの本もととするところなり。一神とは吾わが國常立尊くにのとこたちのみことといふ、國常立尊とは無形の形なきがごときのみかたち、無名の名なずくることなきのみな、なり(ここは密教で心を大日如来とするのと同じ)。これを虚無太元尊神(おおぞらのみたましい)といふ。この太元おおしもとより、一大三千世界成よろずのさかひをなして、一心ひとつのこころより大千の形(ちじのかたち)を分わかつ。なんぞいわんや森羅万象蠢動含霊ありとしあらゆるもの、すべて一神(ひとつかみ)の元(はじめ)より始まりまして、天地の霊気あめつちのみけを感ずるに至りて、生成無窮なりなりてきわまりなきなり。心の本源(もと)は一神ひとつの神より起こり、國の宗廟(あまつやしろ)は萬洲を照らす。譬えば一水の徳をもって(よるべのみずのうつくしみをもて)萬品(よろずのもの)の生(あ)れませるを育(やしな)ふが如し。儒佛(ひじりほとけ)の二教とは、一心の源より、万法の流れを分かつ。釈迦孔子共に、性命(みいのち)を天地(あまつち)に受け、徳行(みいきをい)を夙夜に施す(常に徳行を施している)。是吾神明(かみあげ)の託(かんがかり)するに非ずや。佛とは則ち神の性ひととなり、人は則ち神の主なり。梵漢の両聖、心地(さとり)のこころを和光(やわらげるひかり)に開き、天地の一神ひとはしらのかみ、通化(おもむけ)を塵埃(けがらわしき)に同(まじえ)ます。大道一元(みちのはじめ)の元(はじめ)、天心一貫(かみのさとりのさとり)、貫さとりこれ吾あが神道かみのみちに非ずや。そもそも開闢の初運くにつちのひらくるのはじめ、宗廟あまつやしろの元由おこり、他邦殊ことなりといえども蓋しその源は吾國にあり。その宗むね吾神にあり。誰か吾國を仰がざらんや。(終
わり)
心は則ち神明(かみかげ)の舍(みあらか、家)、混沌(まろかれたる)の宮なり。混沌まろかれたるとは、天地陰陽不分あめつちみぎのわいためなり。喜怒哀楽未発こころばえいまだおこらず、皆これ心の根本なり。心とは一神ひとつのかみの本もととするところなり。一神とは吾わが國常立尊くにのとこたちのみことといふ、國常立尊とは無形の形なきがごときのみかたち、無名の名なずくることなきのみな、なり(ここは密教で心を大日如来とするのと同じ)。これを虚無太元尊神(おおぞらのみたましい)といふ。この太元おおしもとより、一大三千世界成よろずのさかひをなして、一心ひとつのこころより大千の形(ちじのかたち)を分わかつ。なんぞいわんや森羅万象蠢動含霊ありとしあらゆるもの、すべて一神(ひとつかみ)の元(はじめ)より始まりまして、天地の霊気あめつちのみけを感ずるに至りて、生成無窮なりなりてきわまりなきなり。心の本源(もと)は一神ひとつの神より起こり、國の宗廟(あまつやしろ)は萬洲を照らす。譬えば一水の徳をもって(よるべのみずのうつくしみをもて)萬品(よろずのもの)の生(あ)れませるを育(やしな)ふが如し。儒佛(ひじりほとけ)の二教とは、一心の源より、万法の流れを分かつ。釈迦孔子共に、性命(みいのち)を天地(あまつち)に受け、徳行(みいきをい)を夙夜に施す(常に徳行を施している)。是吾神明(かみあげ)の託(かんがかり)するに非ずや。佛とは則ち神の性ひととなり、人は則ち神の主なり。梵漢の両聖、心地(さとり)のこころを和光(やわらげるひかり)に開き、天地の一神ひとはしらのかみ、通化(おもむけ)を塵埃(けがらわしき)に同(まじえ)ます。大道一元(みちのはじめ)の元(はじめ)、天心一貫(かみのさとりのさとり)、貫さとりこれ吾あが神道かみのみちに非ずや。そもそも開闢の初運くにつちのひらくるのはじめ、宗廟あまつやしろの元由おこり、他邦殊ことなりといえども蓋しその源は吾國にあり。その宗むね吾神にあり。誰か吾國を仰がざらんや。(終
わり)