福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今昔物語集巻十一「 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一」

2024-02-22 | 法話

今昔物語集巻十一「 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一」

今昔、本朝に聖徳太子と申す聖おはしけり。用明天皇と申ける天皇の、始て親王に御ける時に、穴太部の真人の娘の腹に生せ給へる御子なり。

 

初め、母夫人、夢に金色なる僧来て云く、「我は世を救ふ誓有り。暫くそこの御胎に宿むと思ふ」と。夫人、答て云く、「此れ、誰が宣へるぞ」と。僧、宣はく、「我は救世の菩薩也。家は西に有り」と。夫人の云く、「我が胎は垢穢也。何ぞ宿り給はむや」と。僧、宣はく、「我れ、垢穢を厭はず」と云て、踊て口の中に入ると見て、夢覚ぬ。其の後、喉中に物を含たるが如く思えて懐妊しぬ。

 

而る間、用明天皇の兄、敏達天皇の位に即給へる年、正月の一日、夫人、宮の内を廻り行て、馬舎戸の辺に行き至る程に、太子、生れ給へり。人来て、太子を懐て寝殿に入る。俄に赤黄なる光り、殿の内を照す。亦、太子の身、かうばしき事限無し。

 

四月の後、言語勢長(ものいひせい)おとなしく、明る如し年の二月の十五日の朝に、太子、掌を合て東に向て、「南無仏」と宣て礼し給ふ。

 

亦、太子、六歳に成給ふ年、百済国より僧来て、経論を持渡れり。太子、「此の経論を見む」と奏し給ふ。天皇、驚き怪み給て、其の故を問ひ給ふ。太子、奏し給はく、「我れ、昔、漢の国に有し時、南岳に住して仏の道修行して年積たり。今、此の国に生る。此れを見んと思ふ」と。天皇、許し給ふ。然れば、太子、香を焼き経論を開き、見給て後、奏し給はく、「月の八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・卅日を、此れを六斎の日と云ふ。此の日には、梵天・帝釈、閻浮提の政を見給ふ。然れば、國の内、殺生を止むべし」と。天皇、此れを聞給て、天下に宣旨を下して、此の日殺生を止給ふ。(『扶桑略記』敏達七年(578)二月 「七年戊戌春二月。耳聡王子。年纔七歳。燒香披見數百經論。奏曰。黒

月。白月。各八十四五日。是為六齋。此日。梵王帝釋來見國政。可絶

煞生。陛下饗應。降勅天下。六箇齋日禁制煞生。」)

 

亦、太子、八歳に也給ふ年、冬、新羅国より仏像を渡し奉る。太子、奏し給はく、「此れ西国の聖(さかし)き釈迦如来の像也」と。亦、百済国より、日羅というひときたれり、太子ひそやかにやつれたる衣着て、下童部の中に交はり、難波の舘にいたりて見る。日羅太子を指して怪しみ奉る。太子、驚き逃給ふ時、日羅、跪て掌を合て、太子に向ひて云く、「□□、敬禮救世観世音。傳燈東方粟散王」と申す間、日羅、身より光を放つ。其の時に、太子、亦眉の間より光を放給ふ事、日の光の如く也。

 

亦、百済国より弥勒の石像を渡し奉たり。(「太子傳古今目録抄」に「(敏達十三年)九月、復百済國将来一尺許弥勒石像御足下、日本國最初佛」)

其の時に、大臣蘇我の馬子の宿禰と云ふ人、此の来れる使を受て、家の東に寺を造り、此れを居へて養ふ。大臣、此の寺に塔を起むと為るに、太子の宣はく、「塔を起てば、必ず佛の舎利を籠め奉るなり」と。舎利一粒を得て、即ち瑠璃の壺に入て塔に安置して、おがみ奉る。惣て太子、此の大臣と心一つにして、三寶を弘む。

 

此の時に、国の内に病おこりて死ぬる人多かり。其の時に、大連物部弓削の守屋・中臣の勝海の王と云ふ二人有て、奏て云く、「我が国、本より神をのみ貴び崇む。然るに近来、蘇我大臣、佛法と云ふ物を発て行ふ。是に依て、国の内に病発て、民皆死ぬべし。然れば、仏法を止められてのみなむ、人の命残るべき」と。此れに依て、天皇、詔して宣く、「申す所明けし。早く仏法を斷つべし」と。

亦、太子、奏し給く、「此の二人の人、未だ因果を悟らず。吉き事をおこなへば福忽に至る、悪き事をおこなへば禍必ず来る。此の二人、必ず禍に会なむとす」と。然と云へ共、天皇、守屋の大連を寺に遣て、堂塔を破り佛経を焼しむ。焼残る仏をば、難波の江に棄てつ。三人の尼をば、責打て追出しつ。

 

此の日、雲無くして大風吹き雨降る。其の時に太子、「今禍発ぬ」と。其の後に、世に瘡の病発て、病痛む事、焼割くが如し。然れば、此の二人、悔ひ悲て、奏して云く、「此の病ひ、苦痛き事堪難し。願くは三寶に祈らむと思ふ」と。其の時に勅有て、三人の尼を召て、二人を祈らしむ。亦、改めて寺塔を造り、佛法を崇むる事、本の如く也。

 

然る間、太子の御父、用明天皇、位に即給ひぬ。詔して、「我れ三寶を帰依せむ」と。

(『日本書紀』巻二十一の用明天皇二年(587)二年の夏四月の乙巳の朔にして丙午に、磐余の河上御新嘗す。是の日に、天皇、病ひ得たまひて、宮に還入します。群臣侍れり。天皇、群臣に詔して曰はく、「朕、三宝に帰(よ)らむと思ふ。卿等議れ」とのたまふ。群臣、入朝て議る。)

蘇我の大臣、勅を奏奉て、僧を召して、初めて内裏に入れつ。太子、喜び給て、大臣の手を取て、涙を流して宣はく、「三寶の妙なる事、人更に知らず。只、大臣独り我れに心寄たり。悦ばしき事限無し」と。

 

而る間、人有て、窃に守屋の大連に告て云く「太子、蘇守の大臣と心を合わせて君を罸ち給はんとする」、守屋、阿都の家に籠居て、軍をあつめまうく。中臣の勝海の連、武者をおこして守屋の大連をあひ助むとす。亦、此の二人の天皇を呪ひ奉ると云ふ事聞えて、蘇我の大臣、太子に申して、共に軍を引将て、守屋を罸むと為る。

 

守屋、軍を発て城を固めて、禦ぎ戦ふ。其の軍、強く盛にして、御方の軍、怖惶(おぢをののき)て、三度退き返る。其の時に、太子、御年十六歳也。軍の後に打立て、軍の政人、秦の川勝に示して宣はく、「汝ぢ忽に木を取て、四天王の像に刻て、髪の上に指し、鉾のさきに捧て」願を発て宣はく、「我等を此の戦勝たしめ給たらば、当に四天王の像を顕し奉り、寺塔を起む」と。蘇我の大臣も亦此の如く願を発て戦ふ間に、守屋の大連、大なる櫟の木に登て、誓て、物部の氏の大神に祈請て箭を放つ。其の箭、太子の鐙に当て落ぬ。太子、舎人迹見の赤檮(いちひ)に仰て、四天王に祈て箭を放たしむ。其の箭遠く行て、守屋が胸に当て、逆様に木より落ぬ。然れば、其の軍壊ぬれば、御方の軍弥よ責寄て、守屋が頭を斬つ。其の後、家の内の財をば、皆寺の物を成して、荘園をば悉く寺の領と成しつ。忽に、玉造の岸の上に、始て四天王寺を造給ひつ。

 

亦、太子の伯父、崇峻天皇の位に即給て、世の政を皆太子に付奉り給ふ。其の時に、百済国の使、阿佐と云ふ皇子来れり。太子を拝して申さく、「敬礼救世大悲観世音菩薩。妙教流通東方日國。四十九歳傳燈演説。」とぞ申ける。其の間、太子の眉の間より、白き光を放給ふ。

 

亦、太子、甲斐の国より奉れる、黒き子馬の四の足白き有り、其れに乗て空に昇て雲に入て、東を指て去給ぬ。調使丸と云ふ者、御馬の右に副て、同く昇ぬ。諸の人、是を見て、空を仰て見喤(ののし)る事限無し。太子、信濃の国に至給て、御輿の堺(越前越中越後)を廻て、三日を経て還給へり。

 

亦、太子の御姑、推古天皇位に即給ぬ。世の政を偏に太子に任せ奉り給ふ。太子、天皇の御前にして、袈裟を着、主尾(払子)を取て、高座に登て、勝鬘経を講じ給ふ。諸の名僧有て義を問ふに、説き答ふる事妙也。三日講じて畢(はて)給ふ夜、天より蓮華雨れり。花の廣さ三尺、地の上三四寸満てり。明る朝に此の由を奏す。天皇、此れを見給ふに、大に奇み貴み給事限無し。忽に其の地に寺を起てつ。今の橘寺是也。其の蓮華、于今彼の寺に有り。

 

亦、太子、小野の妹子と云ふ人を使として、前身に大隋の衡山と云つもろこしの衡山にありてたもてりし経を取りにつかはす。妹子に教へ宣ふ、「赤県の南に衡山有り。其の山の中に般若寺あり、我が昔の同法共ありし、皆死にけむ。今、三人ぞ有らむ。其れに会て、我が使と名乗て、其の所に我が住せし時に持ちし法花経の合せて一巻なる御すらむ。請て持来るべし」と。妹子、教の如く彼の国に行て、其の所に至る門に、一人の沙弥有り。妹子を見、其の言を聞て、返入て、「思禅法師(南嶽慧思大師)の御使、此に来れり」と告ければ、老たる三人の杖を搥て出来て、喜て妹子に教て、経を取せつ。妹子、経を得て、持来て、太子に奉る。

 

亦、太子、鵤の宮の寝殿の傍に屋を造て、夢殿と名付て、一月に三度沐浴して入給ふ。明る朝に出給て、閻浮提の善悪の事を語り給ふ。

 

亦、其の内にして、諸の経の䟽を作り給ふ。或時に七日七夜出給はず、戸を閉て、音をも聞えず。諸の人、此れを怪む。其の時に、高麗の恵慈法師と云ふ人の云く、「太子は此れ三昧定に入り給へる也。驚かし奉る事無れ」と。八日と云ふ朝に出給へり。傍に玉の机の上に、一巻の経有り。太子、恵慈に語て宣く、「我が前身に、衡山に有りし時に、持奉りし経是也。去し年、妹子が持来れりし経は、我が弟子の経也。三人の老僧の我が納し所を知らずして、異経を遣(おこせ)たりしかば、我が魂遣(やり)て取たる也」と。其の経と見合するに、此には無き文字、一つ有り。此の経も一巻に書けり。黄紙に玉の軸をいれたり。

 

亦、百済国より道欣と云ふ僧等十人来て、太子に仕る。「前の世に衡山にして法華経説き給ひける時、我等廬岳の道士として、時々参つつ聞しは我等也」と申す。

 

次の年、妹子、亦唐に渡て衡山に行たりけるに、前に有し三人の老僧、二人は死にけり。今一人残て云く、「去し年の秋、汝が国の太子、青竜の車に乗て、五百人を随て、東の方より空を踏て来て、古き室の内に挟める一巻の経を取て、雲を凌ぎて去給ひにき」と云ふを聞きて、「太子の、夢殿に入て七日七夜出給はざりしは、然也けり」と知る。

 

亦、太子の御后柏手の氏、傍に候時に、太子宣はく、「汝ぢ我に随て、年来一事を違はざりつ。此れ幸也。我が死なむ日は、穴を同くして共に埋むべし」と。妃の云く、「萬歳千秋の間、朝暮に仕らむとこそ思給つるに、何に今日、終の事をば示し給ふぞ」と。太子の宣はく、「初め有る者、必ず終り有り。生ずるは死す。此れ人の常の道也。我れ、昔しあまたの身を受て、佛の道を勤行しき。僅に小国の太子として、妙なる義を弘め、法無き所に一乗の理を説、五濁悪世に久しくあらむと思はず」とのたまふ。此れを聞て、涙を流して、此の旨を承はる。

 

亦、太子、黒駒に騎て、難波の宮を出給ふ。片岡山の辺に飢たる人臥せり。乗給へる黒の小馬、歩ばずして留る。太子、馬より下て、此の飢人と談ひ給ひ、紫の御衣を脱て覆給て、歌を給ふ。

したてるや片岡山にいひにうゑて臥せる旅人あはれおやなし

(志弖太留耶。加太乎加耶末爾。伊比爾宇恵弖。布世留太此々度。阿和連於耶那志。)

 

其の時に、飢人、頭を持上て返歌を奉る。

 

 いかるがやとみの小川のたえばこそわが大君のみなはわすれめ 

(伊加留加耶。度美乃乎加波乃。太衣波古曽。和加乎保岐美乃。美奈波和須礼女。)

 

太子、宮に返給て後に、此の人死にけり。太子、悲び給て、此れを葬らしめ給つ。

 

其の時の大臣等、此の事を受けずして謗る人、七人有り。太子、此の七人召してのたまはく、「彼の片岡山に行て見よ」と。然れば、行て見るに、屍無し。棺の内、甚だ馥ばし。是を見て、皆驚き怪ぶ。

 

然る間、太子、鵤の宮に御坐て、妃に語ひ給ふ、「我れ、今夜世を去なむとす」と宣ひて、沐浴し洗頭し給て、浄き衣を着て、妃と床を并て臥給ぬ。明る朝に、久く起給はず。人々怪むで、大殿の戸を開て見るに、妃と共に隠れ給ひにけり。其の貌、生給へりし如し。香殊に馥ばし。年四十九也。其の終り給ふ日、黒小馬嘶き呼て、水・草を飲食ずして死ぬ。其の骸をば埋つ。

 

亦、太子、隠れ給ふ日、衡山より持亙れり給へりし一巻の経、忽に見失ひつ。定て、亦具し奉り給へるなるべし。今の世に有るは、前に妹子が持亙れりし経也。新羅より渡り給へりし釈迦如来の像は、今に興福寺の東金堂に在ます。百済国より渡り給へりし弥勒の石像は、今古京の元興寺の東に在す。太子の作り給へる自筆の法華経の䟽は、今鵤寺に有り。亦、太子御物の具等、其の寺に有り。多の年を積めりと云へども、損ずる事無し。

 

亦、太子に三の名在す。一は厩戸の皇子。厩の戸辺にして生れ給へばと也。二は八耳の皇子。数人の一度に申す事を善く聞て、一言も漏らさず裁(ことわ)り給へれば也。三は聖徳太子。教を弘め人を度し給へれば也。亦、上宮太子と申す。推古天皇の御代に太子を王宮の南に住ましめて、国政を任せ奉りしに依て也。

 

此の朝に仏法の傳はる事は、太子の御世より弘め給へる也。然らざれば、誰かは佛法の名字をも聞かむ。心有らむ人は、必ず報じ奉るべし、となむ、語り伝へたるとや。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 聖徳太子は一族を日本国の人... | トップ | 今日は金山穆韶猊下が高野山... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事