福聚講

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原人論(終南山草堂寺沙門宗密述)8/8

2021-04-08 | 諸経

8、原人論(終南山草堂寺沙門宗密述)「本末を会通する第四」

「本末を会通する第四」

(前に批判したすべての教え(儒道・人天教・小乗・大乗法相教(唯識)・大乗破相教(中観))も最後の究極の一乗顕性教(華厳)に合していて意味を持つことを説く)

  あるがままの本然の性は、人間の大本となるものだが、それが生まれてくるにはそれなりの訳がある。いきなり生まれてくる訳ではない。ただ前に取り挙げた仏の教えは、未熟なものだったので、批評した。今こそ、この未熟な教えを真の教えの一乗顕性教の下に集めて、その存在意義を明らかにする。さらに儒道二教についても同様である。(初めは第五番目の本然の性の教えを明らかにし、後半以後は順序立てて諸教を真の教えの下に集め、その意義を各注で説き明かす)

  初めに「真の教えの一乗顕性教でいうところの、唯一無二の真の靈性である本然の性は、勝手に生滅したり増滅したり変易したりするものではない」という。人々は遠い昔から、迷いによって自身の霊妙な本姓・如来蔵を自覚できないでいる。この如来蔵から生滅の現象が現れてくる。(ここでは第四の教えの大乗破相教を、真の教えの大乗顕性教に融合し、生滅の色々な姿の真相を見抜くことにする)

  いわゆる心の深層にあって生滅することの無い真心と、時により生滅を繰り返す妄想心を一緒にして、溶け合ってもいないし混ざり合ってもいない状態の意識を、阿頼耶識とする。   (下記は、第三の法相教の内容を、真の教えの大乗顕性教に合せて繙くものである)まともではない状態にあるので初めに妄念が起きるが、その状態を業相と呼ぶ。また、この妄念は元々は存在しないと云う事を知らないものだから、心は動き続けて能見相と境界相が現れてくる。またこの心の認識対象は、自身の心の働きとして現れた迷いだと云うことを自覚しない。しかもそこに執着して実在するものだと信じる、これを法執と呼んでいる。(ここから下に記するものは、第二の小乗教の内容を、真の教えの大乗顕性教に融合して繙くものである)すべては実在するものだという考えに執着する余り、遂には自身と他人を区別するようになり、その結果我執が生まれてくる。実体としての自我があるものと信じ切って、気に入った対象だけを貪欲に愛し満足しようとする。意に染まない対象は毛嫌いし、損失を恐れたり悩まされることを恐れる。この愚かな思いは次第に激しくなる。(ここから下に記するものは、第一の人天教の内容を、真の教えの大乗顕性教に融合して繙くものである)。そうなると遂には殺や盗の心がこの悪行を働かせることになり、地獄・餓鬼・畜生などの三悪道の苦しみに堕ちることになる。またこの苦しみを恐れる者や、或いは生まれつき善良な者が居て、布施や持戒などを行い、その心はこの善行を働くことによって、中陰の時期を経て母胎の中に生まれてくる。(ここから下に記するものは、儒道二教の内容を、真の教えの大乗顕性教に融合して繙くものである)人間は気を受けて生まれ、天然自然の性質を受け継ぐ。(儒・道二教では、天地間に満ちる気を万物生成の根本と考えるが、この点は真の教えの大乗顕性教に融合する)気はにわかに地・水・火・風の四つの物質構成要素を整え、次第に眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの認識器官を形成する。心はにわかに受・想・行・識の四蘊を整え、次第に前五識・第六意識・第七未那識・第八阿頼耶識を形成する。こうして十ヶ月を経て生まれてきたものを人と呼ぶ。すなわちこれが我々の今の身心の姿である。こうして我々の身心には、それぞれ其の拠ってきたる本があり、儒道と仏教の二種類の考え方を合わせれば、一人の人間が出来上がる様子が理解出来る。天界に生まれ変わる様子も、修羅道に生まれ変わる様子も、いずれもこれと似通ったようなものである。しかも、業因の結果として幸いにも人として生まれてきても、さらに人としての所行に違いが生じた結果として、貴賤・貧富・寿夭・病健・盛衰・苦楽などの違いが現れてくる。例えば前世の所行が敬愛であったか驕慢であったかによって、現世の品格が貴人か賤人かに分かれてくる。また情け深かった人は長生きし、人を殺した者は若死にし、施しに積極的だった人は繁栄し、吝嗇だった人は貧乏するなど、その例は尽きない。ところで悪い人では無いのに災いを被っていたり、善人ではないのに幸せに暮らしていたり、非情な人なのに長生きしたり、人殺しでもない人が早死にしたりする者が居る。これらはすべて前世の所行で決まっているので、現世での所行には関係なく、当然約束されたことなのである。儒道二教を学ぶ者は前世のことを考えず、ただ目前の事柄だけを問題にし過ぎている。(儒道二教で説く自然を重視する考えを取り込む)また、前世において若い時には善行に務め老いては悪行に走る場合や、或いはその逆の場合がある。そうなると、現世で前者は若い時には富有で楽に暮らし、老いては貧乏な暮らしで苦しむことになる。或いは後者は若い時には貧乏に苦しむが、老いてからは富有に暮らすことになるなど千差万別である。ここで儒道二教を学んでいる者は、これら運不運は時の定めによるものだと諦めてしまう。(儒道二教の天命思想を取り込む)さて人間は気を受けて生まれたと云うが、その気の源は陰陽の気を含んだ元気である。その元気から生まれてくる心の源は、仏教で云う真実唯一の霊妙心に他ならない。本当の處、霊妙な心以外に別なものが有る訳ではない。元気と云ってもそれは霊妙な心の働きが現れたもので、前述の根本識から変転した前六識の認識対象に属すものである。これこそが阿頼耶識が認識する客観対象に相当する。初めの一瞬に起こった業の状態に基づいて、主観の心と客観の対象の二つに分かれたのである。心は、身近なものから次第に広範に亘って、妄念を広げて業を生み出す。認識もまた微かなものから明らかなものへと対象を広げ、ついには天地の間に至る。(すなわち道教では、「世界の初めは何も無い太虚の空間に動く気配=太易が起こり、五段階を経て陰陽の気の分化が起きる太極の状態に至り、この太極が陰陽二つの力を生む」と云う。また老子の説く万物の根源である深遠な道と云うのは、仏教で説く万物が存在しているあるがままの姿と云う考えに似ているが、事実は全く異なっており、それは一瞬の阿頼耶識の主観的側面に過ぎない。また儒教の云う元気なるものは、仏教で云う世界の初めの一瞬の動きの事を云っているようだが、その実体は認識の対象となる世界のただの姿に過ぎない)

 先天五太(道家の中心思想)は天地誕生前の五つの段階すなわち

太虚(全く何も無い世界)から太易(何らかの動きが始まる状態)・太初(気が生まれる状態)・太始(形が出来る状態)・太素(素質が整う状態)太極(陰陽の分化が起こる状態)を指す。両儀は天地または陰陽を指す。人間として生まれる業の定めが決まると、父母のそれぞれの精気を受け、それが妄念に覆われた真如の阿梨耶識と合体して人間が生まれてくる。こうして識によって変えられる外界の現在の姿は、果報を受けている本人とその環境に分かれる。前者の人間は業を含んだ心意識を持って生まれ、後者の環境は心意識を持たない天地・山河・国々となる。天地人の三才の中で人間だけが霊妙な力を持っているのは、心意識を併せ持つ事が出来たからである。仏教で説く人間の構成要素の四大(地水火風)と、環境を構成する四大とが異なると云うのは、将にこの事を指している。浅学の徒が正当でない教えに執着して戸惑っていることは、甚だ嘆かわしいことである。最後に同じ道を志す人々に提言する。成仏しようと思うならば、事の粗細や本末を洞察し、末事は捨てて基本に立ち帰り、真の本源を明らかにすべきである。表面的な教えを断ち、技葉末節の教えを取り除き、霊妙なる本性を明らかにするならば、真理に到達出来ない筈はなく、そこに永遠不滅の真理を持つ仏の姿があり、完全な悟りの世界に入った仏の姿があり、自然に応えて現れ極まる處のない仏の姿がある。  華厳原人論終わり。)

  「本末を會通す第四      (前に斥く所を會して同じく真源に歸し、皆な正義と為す。              )」

「眞性を身の本と為すと雖も、生起すること蓋し因由有り。端なくも忽ち身相を成すべからず。但し前宗未了なるに縁って、所以(ゆへに)節節に之を斥く。今將に本末會通す。乃至儒道も亦た是なり。初は唯だ第五の性教の所説なり。後段より已去、節級方に諸教に同ず。各の注に説くが如し。

謂く、初は唯一眞靈の性、不生不滅、不増不減、不變不易なり。衆生は無始より迷睡して自ら覺知せず、隱覆に由るが故に如來藏と名く。如來藏に依るが故に生滅の心相有り。此より方に是れ、第四教も亦た同く此

已下の生滅の諸相を破す。             所謂、不生不滅の眞心、生滅の妄想と和合して非一非異なるを名て阿頼耶識と為す。此の識に覺・不覺の二義あり。             此の下方に是れ第三の法相教の中も亦た同じ所説なり。不覺に依るが故に、最初の動念を名けて業相と為す。又、此の念は本と無なるを覺らざるが故に轉じて能見之識を成し及び所見の境界相現ず。又、此の境は自心より妄現することを覚らずして執して定有と為すを名けて法執と為す。       此の下方に是れ第二小乘教中も亦た所説に同ず。      此等に執するが故に、遂に自他之殊(ことなること)を見、便ち我執を成す。我相を執するが故に順情諸境を貪愛して、以って我を潤すことを欲す。違情諸境を瞋嫌して、相ひ損惱せんことを恐る。愚癡之情展轉増長す。  

此の下方に是第一人天教中も亦た所説に同ず。故に殺盜等の心神、此の惡業に乗じて地獄鬼畜等中に生ず。復た此の苦を怖るる者、或は性善なる者有り。施・戒等を行じ、心神此善業に乗じて中陰に運して母胎中に入る。此下方に是れ儒道二教も亦た所説に同ず。              氣を禀け、質を受く。(彼の所説、氣を以て本と為すを會す)

氣は則ち頓に四大を具し漸に諸根を成ず。心は則ち頓に四蘊を具し漸に諸識を成ず。十月滿足し生じ來るを人と名く。即ち我等の今の身心是也。故に知りぬ身心各の其の本有り。二類和合して方に一人を成ず。天と修羅等も大に此と同じ。然るに引業に因って此身を受得すと雖も、復た滿業に由っての故に貴賎貧富壽夭病健

盛衰苦樂あり。謂く前生の敬・慢を因と爲して今貴賎之果を感ず。乃至、仁は壽、殺は夭、施は富、慳は貧。種種の別報、具さに述ぶべからず。是れを以て此の身に或は惡無くして自ら禍に、善無くして自ら福に、不仁

にして壽、不殺にして夭等は、皆な是れ前生の滿業已に定れるが故に今世の所作に依らずして自然に然るが如し。外學の者は前世を知らずして但だ目覩に據って唯だ自然なりと執す。(彼の所説の自然を本と為すを會す)復た前生に少(わかきとき)修善して老て造惡す、或は少(わかきとき)惡にして老て善なる者あり、故に今世に少(わかきとき)は富貴にして樂しみ、老て大に貧賎にして苦む。或は少(わかきとき)貧苦にして老て富貴等あり。故に外學の者は唯だ否泰(「否」「泰」は易の六十四卦の一つで、「否」は陰陽の気が塞されて万物が生命力を失い、君臣が隔絶して天下が治まらない卦で、「泰」はその逆)は時運に由ることを執す。(彼の所説の皆天命に由ると云ふを會す)。然るに禀る所の氣、展轉して本を推せば、即ち混一の元氣也。起す所之心、展轉して源を窮むれば即ち眞一之靈心也。實を究めて之を言はば心外に的(まさ)に別法なし。元氣も亦た心之所變に従ふ前の轉識所現之境に屬す。是れ阿頼耶相分の所攝なり。初の一念の業相より分れて心・境の二と為る。心既に細より麁に至り、展轉妄計して乃至業を造り(前の敍列の如し)境も亦た微より著に至り、展轉變起して乃至天地あり。

即ち彼の始め太易より五重運轉し乃ち太極に至る。太極兩儀を生ず。彼れ自然の太道と説くは、此の眞性を説くが如くなれども其實但是れ一念能變の見分のみなり。彼れ元氣と云ふは此の一念初動の如くなれども其實但是境界之相なり。     

業既に成熟し即ち父母より二氣を禀受し業識と和合して人身を成就す。此に據らば則ち心識所變之境は乃ち二分と成り、一分は即ち心識と和合して人と成り、一分は心識と和合せずして即ち天地山河國邑と成る。三才中に唯だ人の靈なるは心神と合するに由る也。佛説の内の四大と外の四大と同ならずとは正に是此也。哀哉、寡學にして異執紛然たり。語を道流に寄す。成佛せんと欲する者は必須く麁細本末を洞明して方に能く棄末歸本し心源を返照すべし。麁盡き細除き靈性顯現せば法として達せざるなきを法報身と名く。應現無窮なるを化身佛と名く」

原人論   終         

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