SAILIN' SHOES

デジタル一眼、ライカ等でのスナップ写真や、カメラ、音楽、鉄道・車、子育ての日々雑感です。

関西詣で 05  千里ニュータウンへ

2010-07-02 | 旅行
難波から御堂筋線で千里ニュータウンへ向かった。
大阪地下鉄に乗る場会は絶対に先頭車がお勧めだ。
警笛が電子タイフォンで独特なのだ。
そして、派手に長く鳴らす運転手も居て、かなり楽しい。
関西は警笛にも特徴がある。
近鉄のホーム通過時の「ビー」や、JR西日本のミュージックホーンも楽しい。
関東はあまり特徴を出さない(小田急ロマンスカーは別)のだが、
通勤電車で楽しいのは京王だろうか。



無料立体道路の新御堂筋を両脇に挟みながら、千里中央に向かう。




千里中央駅は私がすごくなじみのある駅だ。
小学校から中学校3年まで過ごした町だ。
時はちょうど大阪万博の開催時。
そのときは、この駅は開業していなく、電車は万博を直行していた。
江坂から千里中央は阪急資本の北大阪急行の所有。
今でも千里中央からの初乗りはたったの80円と異例の安さである。




当然、ビル増えて風景は一変しているが、その頃にあった建物自体も変わっている。
大幅なリニューアルをしたのだろう。
見た目がまったく違っている。




私の住んでいた大阪府営住宅は跡形もなく、その後に高層マンションが並んでいる。
4階建ての府営の分譲団地の地区だったのだが、その頃の人で、
まだ健在であれば、リニューアル後は優先的に入居できたのだろうか?




写真の広場は、下が駐車場だ。
この部分が私の住んでいた場所だ。
中学3年生だったのだ。




ほとんど日が暮れてしまったが、中学校に行ってみた。
豊中市立第八中学校だ。

35年も前の話だが、よく覚えている。
校歌も歌える。


ネットで見ると、1学年は2クラスとなっている。
私の頃は8クラスか9クラスもあった。
少子化もあるが、ニュータウン自体が高齢化した結果なんだろう。





中学校近辺の府営の賃貸団地はなんとまだ残っていた。
築年数は40年をとうに超えている。

僕はここに住んでいた楠元さんという女の子に告白をしたのだ。
3年生で千葉に転校するときも会いに行ったのをよく覚えている。
ところが、大学を出て社会人になったとき、会社に同姓の女性が居た。(名前は違う)
お互いに組合執行委員をやっていて、あるとき大阪からその楠元さんが東京に来た。
告白をした女の子の妹だった。
「覚えてますよ。お姉ちゃんが中学のとき、好きって言われたって言ってたのを」
と言われた。
そして、それからも25年以上の月日が流れた。
今はどうしているのだろうか?




千里ニュータウンには10ほどの町がある。
豊中は4つ、吹田側は数個だった。
各町には必ず一つの近隣センターがあり、大きな公園があり、小学校が1つあった。

夕方の7時前だというのに、人がほとんど居なかった。
シャッターを閉じた店も多かった。




中学校のすぐ隣にある小学校にも寄ってみた。
豊中私立東丘小学校。

公式HPで生徒数の推移が書いてある。
私が居たころは1172人でその後も増えて多いときは1422人となっている。
2005年が最終データだが、195人で、2002年に至っては163人だ。
10分の1ほどになっているのだ。




小学校周辺の公団地区は、建て替えの寸前だった。
当時としては広い間取りで、3DKか2LDK等だったと記憶している。




ここに住んでる子供はちょっと裕福に見えた。
ただ急速に住居は改善されていき、その直後にはほとんど初めてに近い感じで
民間マンションも空いた地区にできた。
それはそれは贅沢なものに見えた。



しょっちゅう遊んでいた深谷公園に行ってみた。
ここの池では材木をボートにして乗ってみたり、危険な遊びに明け暮れた。
今はかなり湿地化して、周りには柵もあり、直接池に入れないようになっていた。




千里丘陵はもともとは竹薮に覆われた地区だった。
そこにニュータウンを造成したのだが、竹薮なだけに地盤が強いと言われていた。
しかし、それは本当だったのだろうか。




千里中央駅に戻り、夕食を食べて、次なる聖地、中津に向かった。



SONY α900、AF17-35mm/F2.8-4.0(D)、タムロンA09
コメント (16)
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