サンマルコ広場から旧行政館側の通路を抜けると、オルセオロ船着き場に出る。ここはゴンドラの発着所になっていて、シーズンにはゴンドリエーレと観光客との値段交渉もにぎやかに行われる。
横のホテルの建物が黄色のため運河にその色が映り、ゴンドラの舳先の黒とのコントラストがとても美しく気に入っている。
そこからフレッゼリア通りを北に向かい、突き当りを左に曲がると、バルカローリ通りの右側に4階建ての赤色の建物が目に入る。
角に標識が掲げてある。そこには「15歳のモーツアルトが1771年のカーニバル時期にこの家に滞在した」と書かれてある。
モーツアルトは少年時代父親に連れられて3回にわたって長期海外演奏旅行を行っているが、イタリア旅行は1769年12月に故郷ザルツブルクを出発し、1971年3月までの大遠征だった。その最終場面でのヴェツィア訪問だった。
ベルリン国立図書館に残された父の覚書には「宿泊 バルカローリ橋そばのサン・フィレティーノ通り。カヴァレッティ家」と宿泊場所が記されている。
この滞在時期はまさにヴェネツィアカーニヴァルの最中。
「ドイツ時間で夜の11時から12時にかけて私たちはサンマルコ広場の仮面舞踏会に出かけたのです」と、家族への手紙に書かれている。
15歳という多感な年齢だったモーツアルトは、華やかなカーニヴァルにどんな感想を抱いたのだろうか。残念ながらその心境を示すものは残っていない。
モーツアルトの館からバルカローリ通りを戻って最初の交差点を左のフゼーリ通りへ曲がると、フゼーリ橋のたもとにもう1つの歴史的な館が建つ。
ここにはあまり目立たない小さな標識が掛かっており、「ゲーテが1786年9月28日から10月14日まで滞在した」と記されている。
ゲーテはモーツアルトより15年後にヴェネツィアを訪れていた。ゲーテは当時37歳。それまで10年ほど続いたシャルロッテ夫人との仲が破たんした傷心のゲーテが、イタリアに旅立ってほぼ最初の訪問地だった。
彼の「イタリア旅行」によれば、「私の部屋の窓は、高い家並みの間にある狭い運河に面しており、窓のすぐ下には虹型の橋が架かっている」。
宿泊ホテルは当時「イギリスの女王館」と呼ばれた。実際イギリス女王が宿泊し、ホテルビクトリアと名付けられていた。
サンマルコ広場からも数分という中心地だったせいで、人の通行もかなり多かったようで、「窓の下の運河で何やら大騒ぎしている。彼らは良いことだろうと悪いことだろうといつも一緒になって騒ぎ立てるのだ」とイタリア人の陽気な性格にちょっぴり苦情もつぶやいている。
ただ、さすがにゴンドラには心を奪われ、ゴンドラに乗った時の気持ちを「アドリア海の支配者の1人であるかのように思った」と述べている。
モーツアルトとゲーテの2人の共通点を1つ見つけた。
モーツアルトのフルネームは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト。
対してゲーテはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。
2人ともヴォルフガングという名前を持つ同時代の偉人だった。