マントヴァの見どころの1つドゥカーレ宮殿に入った。この宮殿の目玉である結婚の間は完全予約制になっていて、今回は入れなかった。 それで、ほかの部屋を見て回った。
装飾された廊下の天井。
神を讃える天井画。
グロッタと呼ばれる人工洞窟の門。
タペストリーも何枚か。
キリスト誕生のシーン。
下の部分はゴンザーガ家の人達を描いているのかも。
いくつかの部屋を回ったが、何とも寂しい気持ちにさせる内容だった。もちろん結婚の間にはマンテーニャの力作が壁を彩っていることは承知しているが、その部屋に入れなかったことでなおさら一層喪失感を感じさせる訪問となってしまった。
原因はマントヴァの背負った歴史にもあった。その歴史を、マントヴァの女帝として知られるイザベラ・デステの生涯と重ねてたどってみよう。
マントヴァを訪れる上で知っておくべき名前がある。イザベラ・デステ。15世紀末から16世紀にかけてマントヴァ公国の王女として国を守り、またこの国を芸術の薫り高い都市として名を轟かせた立役者だ。
彼女はマントヴァの隣りフェラーラの名門貴族エステ家の長女として、1474年に誕生した。幼いころから才能を発揮し、学問を始め、ダンス、音楽、絵画にも優れていたという。
その才女は1490年、16歳の時マントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガ公爵と結婚し、マントヴァ公国の王女となった。
それは祝福された結婚だったが、翌年、イザベラは大きなショックを受ける出来事に遭遇する。
1491年、妹のベアトリーチェがミラノ公国のルドヴィコ・スフォルツァと結婚するこのになったのだ。
妹に付き添ってミラノに赴いたイザベラを待っていたのは、自らの結婚とは桁違いに華やかで豪華なセレモニーだった。服装、装飾、人数その他圧倒的な財力と洗練さに裏打ちされた式典。しかもその式典は、レオナルド・ダヴィンチとブラマンテが担当していた。
当時のイタリアは、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国の4大勢力が並び立って勢力を競っていた。
実は、ミラノのルドヴィコは、最初にイザベラとの結婚を申し込んでいた。ところがそのわずか1か月前にゴンザーガ家との結婚が成立したばかり。ベアトリーチェはイザベラの身代りの形でミラノに嫁いだのだった。ベアトリーチェはそれまで、何事にもイザベラに後れを取っていたが、突如この結婚によって二人の立場は逆転した。
そんな状況にイザベラが嫉妬したことは疑う余地はない。イザベラはどうしたのか?
彼女は、中小都市マントヴァでもできること、「芸術と文化のレベル向上によって世界に冠たる地位を築こう」と、一念発起したのだった。
実家のフェラーラから大学教師を呼び、自らの教養を高めるとともに芸術家を多数マントヴァに招へいした。マンテーニャを宮廷画家に登用してドゥカーレ宮殿の装飾に当たらせ、ジュリオ・ロマーニにテ宮殿の絵画を描かせた。
イザベラのサロンを訪れた芸術家はティツィアーノ、ラファエロ、ジョヴァンニ・ベリーニ、そしてレオナルド・ダヴィンチもいた。
特にレオナルドには思いを寄せた。
頼み込んで書いてもらったのが、この素描画。これだけではなく本格的な彩色の肖像画を再三にわたって手紙を出して依頼したが、結局レオナルドはそれに応えることはなかった。
イザベラは64歳で亡くなるまで、そうした芸術絵画作品収集などのほか、国を守るための外交戦術として諸国の元首級に絶え間ないレター作戦をし続けた。その数は実にトータル4万通にも及ぶという。イザベラという女性の意志の強さと執念を見る思いだ。
最初に掲載したティツィアーノによるイザベラの肖像画。実はイザベラが50代の時に描かれたものだ。最初に完成した作品を彼女は満足せずに、40年も若い16歳の肖像画として描きなおさせたーーというエピソードも残っている。
彼女の努力で16世紀のマントヴァはきらびやかな芸術の都として名声を博した。が、17世紀に当主となったヴィチェンツォ2世は財政困窮の末にコレクションを売却。
また、1707年にマントヴァを支配したオーストリアはゴンザーガ家の膨大なコレクションをウイーンの美術史美術館に持ち去ってしまった。さらに、1797年に新たな支配者となったナポレオンのフランスも美術品はパリに持ち去り、マントヴァに残ったのは剥がせなかった壁画のみになってしまった。
そんな悲しい歴史を抱えこんだ都市であることを認識させるドゥカーレ宮殿見学だった。
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