新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

アカデミア美術館① 瞑想する聖母、謎の稲妻、タイムスリップを体感する風景の作品群

2019-08-12 | ヴェネツィア美術館・博物館

 アカデミア美術館は、ドルソドーロ地区のアカデミア橋を渡った正面に位置する。まさにヴェネツィア絵画の世界一のコレクションを誇る。長い間に閉鎖されたり破壊された教会が所蔵していた名画もこの美術館に集められている。

 まずはヴェネツィアの風景が描かれた絵画から見て行こう。

 カルパッチョ作「リアルト橋の奇跡」。15~16世紀に活躍した画家が1494年に描いたリアルト橋。この橋は12世紀の建設だが、元々は木造の跳ね橋だった。経済の中心地である橋周辺の賑わいが見事に活写されているし、夏の夕方の空気感も感じさせてくれる。

 ジェンティーレ・ベッリーニ「サンマルコ広場の祝祭行列」。こちらの広場は政治の中心地。主な公式行事はほぼこの広場を舞台として展開された。ヴェネツィアという特別な風景を持つ都市を映し出す「景観図」の端緒ともなった作品だ。

 こうした主な建築の姿は、500年経った今でもヴェネツィアに行きさえすれば普通に見ることが出来る。ヴェネツィア旅行はタイムスリップの旅でもある、と思わせる。

 同じジェンティーレ・ベッリーニの代表作が「サンロレンツォ橋の奇跡」。1369年、キプロスからヴェネツィアのS・G・エバンジェリスタ同信会に聖十字架の一部が寄贈された。その聖遺物を、祭礼行列の最中に運河に落としてしまうという事故が発生した。さあ大変!

 その時同信会長のアンドレア・ヴェンドラミンはとっさに運河に飛び込み、見事に聖遺物を救い上げたという。この瞬間を、まるで現場中継のように描いたのがこの作品だ。

 左側岸辺にはキプロス女王カテリーナ・コルナーロ。

 右手前にはベッリーニ一族がひざまづいて見つめている。

 なお、「サンマルコ広場の祝祭行列」の絵の中心にある金色の聖遺物箱に、落とした十字架が入っていた。つまり、ジェンティーレの描いた2つの絵画は連続した行列の模様だった、ということになる。

ジェンティーレにはジョヴァンニ・ベッリーニという弟がいた。実はこの弟の方が有名だ。盛期ルネサンス・ヴェネツィア派を代表する画家であり、ラファエロと同様に「聖母の画家」とも呼ばれる。

 「玉座の聖母と諸聖人」。

 高潔な威厳を保った静謐な聖母の表情。

 その下部には奏楽使達が控える。サン・ザッカリア教会にも同様な絵が残されている。

 こちらは「受胎告知」。聖母マリアの祈りの気持ちがうかがわれる。

 「若い木の聖母」。ひたむきにすこやかな我が子の成長を願う思いが透けて見える。

 こちらの聖母もうつむいて目を伏せた形で無言。ジョヴァンニ・ベッリーニの作品の多くは時間が止まってしまったような思いに駆られることが多い。

 

 メッシーナの作品「受胎告知」があった。この作品はパレルモのシチリア美術館にあり、これはレプリカのようだ。妊娠を告げる大天使ガブリエルは描かれておらず、受けとめる聖母だけの姿だ。

ベッリーニ工房にはジョルジョーネという画家がいた。彼は34歳で死亡したため作品は少ないがなぞを含む不思議な作品群はヴェネツィアの後輩たちに多くの影響を与えた。

 代表作は「嵐」。稲妻、裸の女、棒を持って立つ男・・・。美しい田園の中で展開される瞑想的な絵の真意は未だに未解明のままだ。

 「老女」もまた不思議な絵。彼女の持つ紙片には「col tempo」(時と共に)と記されている。人生のはかなさを描いたものなのか。モデルはジョルジョーネの母とされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ヴェネツィアあちこち⑤ ゴルドーニ劇場の正面扉には、ヴェネツィア3大祭りの模様が描かれている 

2019-08-09 | イタリア・ヴェネツィア

 リアルト橋近くにゴルドーニ劇場がある。ヴェネツィアを代表する劇作家カルロ・ゴルドーニにちなんで名付けられた劇場だ。ゴルドーニは18世紀に活躍した劇作家。ヴェネツィアの素顔の民衆のたくましく生きる姿を喜劇として描き、その作品は広くイタリア全土で支持された。

 劇場の正面を見ると、いろいろ面白いものを発見することが出来る。

 まず扉。ブロンズで造られた見事な扉の左の1枚を見ると、いくつかのレリーフが刻まれている。

 よく見るとこれはヴェネツィアを代表する3つの祭りを描いたものだ。上部はレデントーレの祭り。教会の前に一本の棒のようなものがあるが、これは祭りの日だけに特別に設けられる仮の橋を表している。

 真ん中にはサルーテ教会の祭り。これも人々が仮橋を渡って運河の先にある教会へ進む姿が描写されている。

 下部はレガータ・ストリカ。地域の人達が必死に手漕ぎボートで競争しているところだ。

 中央の扉右側に一人の紳士が上を見上げている。この人がゴルドーニ。

 次にもう少し上の壁面に目を移そう。ヴェネツィアには大きく6つの地区に分かれているが、その6地区をそれぞれ象徴するものが描かれている。左端はスクオーラ・デイ・サンマルコの建物。パオロ教会の横にあり、今は病院として使われている。これはカステッロ地区の運河に面した美しい風景の場所だ。私がほぼ最初にヴェネツィアに滞在したときはB&Bの窓からこの風景が見える部屋で、とても癒された思い出がある。

 次の絵は説明の必要もなくヴェネツィアの象徴であるサンマルコ大聖堂。サンマルコ地区の代表だ。

 特徴ある3つのアーチを持ったトレアルキ橋。カンナレージョ地区だ。手漕ぎボートの祭典でもあるヴォガロンガは、遠くのトルチェッロ島からの帰りにこの橋をくぐってヴェネツィア本島に入ってくる場所だ。

 サンポーロ地区からはサンジョヴァンニ教会が選ばれた。

 リアルト地区では、リアルト橋のたもとにあるサンジャコモ教会。

 最後に、ドルソドーロ地区を代表するのは、やっぱりサルーテ教会。

 このように、劇場の玄関を見るだけでヴェネツィアの基礎知識を学ぶことが出来るというわけだ。

 

 

 

 

 

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ヴェネツィアあちこち④ 不死鳥劇場、殺人者通り、カタツムリの館・・・

2019-08-05 | イタリア・ヴェネツィア

モーツアルトの館から程近くにフェニーチェ劇場がある。ここはヴェルディの「椿姫」や「リゴレット」などが世界発上演された歴史的なオペラ劇場だ。これまで2度にわたって火災で全焼するという不運に見舞われたが、いずれも見事に再建され、今でも世界屈指のオペラ劇場として君臨し続けている。

 「フェニーチェ」とは「不死鳥」という意味。まさに名前の通りだ。

 内部の壁面には手の込んだ細工がなされている。

 貴賓席付近はなおさらの装飾ぶりだ。

 そのすぐ近くにあるのが、コンタリーニ・デル・ボーヴォロ館。らせん状の外階段を持つ美しい館だ。ボーヴォロとはカタツムリのこと。らせん状の貝殻を連想させることからつけられたようだ。

 階段を上るとヴェネツィアの街が程よい高さで見渡せる。サンマルコ大聖堂の丸屋根も。

 家々の屋根はみな赤茶色で統一されているのがよくわかる。

 サルーテ教会のクーポラがちょうど壁柱のアーチにすっぽりと収まった。

そこから北に歩くとマニン広場という広い広場に出る。

 ここにあるライオン像は、沢山あるヴェネツィアのライオン像の中でも一番の風格を備えていると思う。

 少し横道にそれるとアサシーニ通りという道がある。アサシーニとは殺人(者)を意味する言葉だ。中世時代にはこの通りで何件もの殺人事件が発生したらしい。

 今では芸術関係の図書が充実した書店やスパゲッティのおいしいレストランなどがあり、決して物騒な通りではないのでご安心を。

 このとおり、ワンちゃんもゆったりとお散歩中。

 夕方リアルト橋近くのサルバトール教会で合唱の夕べがあるということで足を運んだ。

 コーラスは多分アマチュアの人達によるもので、清らかな気持ちになることが出来た。

 主祭壇には以前、ティツィアーノの「キリスト昇天」があったのだが、今は無くなっていた。修復中?

 ただし、「受胎告知」は健在だった。

 教会を出たら、子供達のミーティングに出会った。みんなジェラートをほおばって元気そう。

 

 

 

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ヴェネツィアあちこち③ モーツアルトとゲーテの泊まった場所は、サンマルコ広場のすぐ近くだった

2019-08-02 | イタリア・ヴェネツィア

 サンマルコ広場から旧行政館側の通路を抜けると、オルセオロ船着き場に出る。ここはゴンドラの発着所になっていて、シーズンにはゴンドリエーレと観光客との値段交渉もにぎやかに行われる。

 横のホテルの建物が黄色のため運河にその色が映り、ゴンドラの舳先の黒とのコントラストがとても美しく気に入っている。

 そこからフレッゼリア通りを北に向かい、突き当りを左に曲がると、バルカローリ通りの右側に4階建ての赤色の建物が目に入る。

 角に標識が掲げてある。そこには「15歳のモーツアルトが1771年のカーニバル時期にこの家に滞在した」と書かれてある。

 モーツアルトは少年時代父親に連れられて3回にわたって長期海外演奏旅行を行っているが、イタリア旅行は1769年12月に故郷ザルツブルクを出発し、1971年3月までの大遠征だった。その最終場面でのヴェツィア訪問だった。

 ベルリン国立図書館に残された父の覚書には「宿泊 バルカローリ橋そばのサン・フィレティーノ通り。カヴァレッティ家」と宿泊場所が記されている。

この滞在時期はまさにヴェネツィアカーニヴァルの最中。

 「ドイツ時間で夜の11時から12時にかけて私たちはサンマルコ広場の仮面舞踏会に出かけたのです」と、家族への手紙に書かれている。

 15歳という多感な年齢だったモーツアルトは、華やかなカーニヴァルにどんな感想を抱いたのだろうか。残念ながらその心境を示すものは残っていない。

 モーツアルトの館からバルカローリ通りを戻って最初の交差点を左のフゼーリ通りへ曲がると、フゼーリ橋のたもとにもう1つの歴史的な館が建つ。

 ここにはあまり目立たない小さな標識が掛かっており、「ゲーテが1786年9月28日から10月14日まで滞在した」と記されている。

 ゲーテはモーツアルトより15年後にヴェネツィアを訪れていた。ゲーテは当時37歳。それまで10年ほど続いたシャルロッテ夫人との仲が破たんした傷心のゲーテが、イタリアに旅立ってほぼ最初の訪問地だった。

 彼の「イタリア旅行」によれば、「私の部屋の窓は、高い家並みの間にある狭い運河に面しており、窓のすぐ下には虹型の橋が架かっている」。

 宿泊ホテルは当時「イギリスの女王館」と呼ばれた。実際イギリス女王が宿泊し、ホテルビクトリアと名付けられていた。

 サンマルコ広場からも数分という中心地だったせいで、人の通行もかなり多かったようで、「窓の下の運河で何やら大騒ぎしている。彼らは良いことだろうと悪いことだろうといつも一緒になって騒ぎ立てるのだ」とイタリア人の陽気な性格にちょっぴり苦情もつぶやいている。

 ただ、さすがにゴンドラには心を奪われ、ゴンドラに乗った時の気持ちを「アドリア海の支配者の1人であるかのように思った」と述べている。

モーツアルトとゲーテの2人の共通点を1つ見つけた。

モーツアルトのフルネームは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト。

対してゲーテはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。

 2人ともヴォルフガングという名前を持つ同時代の偉人だった。

 

 

 

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