極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

うっかり笠子と技術論論争

2010年04月23日 | 日々草々


平目より うっかり笠子 重宝と 老獪狸 言うも深海 





技術とは人間実践(生産的実践)における
      客観的法則性の意識的適用である

                 武谷三男

今日はなにをしたのかと思うぐらい時間経過が
早い。歳を取れば取るほど早くなると先輩達か
ら聞かされていたが、なるほどと合点している
自分がいる。朝から毛染めと散髪、ホームペー
ジの追加制作、水泳とサウナ、試験菜園の造成
(「セカンドランド構想」)でフルタイム。眼
精疲労対策もあり早めに切り上げ着床。「新党
改革」の旗揚げがテレビに流れていたが、大半
は現段階の改革の最中に含まれている上に、国
際政治学者というには陳腐な見識だし、これを
報道論評するマスコミもいまひとつ盛り上がら
ない。

Fukuchiyama joko20051.jpg

もうひとつ、2005年4月25日に兵庫県尼崎市で起
きたJR福知山線脱線事故で、検事役の指定弁
護士4人は23日、井手正敬(まさたか)元相談役
らJR西日本の歴代社長3人を業務上過失致死
傷罪で神戸地裁に在宅起訴したということだ。
この日は、名古屋にあるノズルメーカに開発ノ
ズルの評価検収のため名神を走らせ、養老サー
ビスエリアで休憩を取っていたときに生々しい
映像が速報で流されていたことを鮮明に記憶し
ている。福知山線は過密ダイヤで、ドル箱路線
ということは仲間から聞き及んでいて、運転手
の個人の責任ではなく組織システムの問題であ
り、自動列車停止装置(ATS-Pの不備の経営に
あるとの判断をしており、社内のネットチャン
ネルに投稿したことも思い出した。大事故の背
景にある「必然性」のあれこれを思い出し、三
年前に亡くなった星野芳郎のことを思い出した。

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星野芳郎氏死去 技術評論家

星野芳郎氏(ほしの・よしろう=技術評論家、元帝京大教授)8日午前2時
28分、肺炎のため横浜市青葉区の病院で死去、85歳。東京都出身。自宅
は川崎市麻生区千代ケ丘9の8の19。葬儀・告別式は10日午前11時半
から川崎市麻生区栗木203、常念寺栗平会館で。喪主は妻久美子(くみこ
)さん。2007/11/09 12:27 【共同通信】

1922‐2007/昭和後期-平成時代の科学技術評論家。大正11年1月13日生まれ。
昭和21年民主主義科学者協会の創立に参加。現代技術史の研究をすすめ,技
術論を展開。37年立命館大教授となる。56年帝京大教授。瀬戸内海汚染の実
態を調査,公害などの社会問題にとりくんだ。平成19年11月8日死去。85歳。
東京出身。東京工業大卒。著作に「技術と人間」「技術革新の根本問題」な
ど。
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1970 『日本の技術者』勁草書房
1970 『高度技術社会への抵抗』実業之日本社
1973 『科学技術の思想』(戦後日本思想大系9)筑摩書房                                                            1977 『星野芳郎著作集 1 技術論Ⅰ』勁草書房 
1986 『先端技術の根本問題』勁草書房 
1978 『もはや技術なし-アメリカの焦燥,西
     欧の憂うつ,日本の混乱』光文社

※ その他『公害発生源』 『未来文明の原点』
  『反公害の論理』『日本の技術革新(科学論・
  技術論双書8)『技術革新の根本問題』『政
  治と技術』『自然・人間 危機と共存の風景

 星野芳郎


 技術論論争とは、技術なるものをめぐって、
 社会科学あるいは人文科学的にいかに捉え
 るべきか、いかに分析するべきか、そして
 生産・消費や労働などと技術がいかに関係
 するか、技術はいかに発展するかといった
 問題に対して日本で行われた論争である。

              フリー百科事典
            『ウィキペディア(Wikipedia)』


そう言えば、技術論論争は聞かれなくなったし
星野芳郎の政治社会面でのコミットに関して興
味を失しなってはいたが、ある時期、多大な影
響をわたしにも与えたことを懐かしみ振りかえ
ることに。



この論争は1930年代に唯物論研究会(唯研)で
の議論を発端として開始。戸坂潤、岡邦雄、永
田広志、相川春喜らの論争を経て 技術を労働
手段の体系として捉えるいわゆる「手段体系説」
が打ち出され、の立場から大河内正敏の「科学
主義工業」や宮本武之輔の「生産工学」に対し
批判を行いながら手段体系説を深化させた。し
かし、唯研の弾圧や相川の転向により、この論
争は戦後に至るまで停滞を余儀なくされた。だ
が、終戦の直前に戸坂は獄死し、戦後になって
も永田・相川はまもなく死去するなどしたため
手段体系説は停滞する。

 戸阪潤

終戦直後には、武谷三男や星野芳郎によって打
ち出された「技術とは人間実践(生産的実践)
における客観的法則性の意識的適用である」(武
谷三男、『弁証法の諸問題』技術論から引用)と
するいわゆる「意識的適用説」が論壇でもては
やされることとなった。この結果として、戦後
の論争は手段体系説と意識的適用説の対立を主
軸として進められて行くことになった。

 武谷三男

戦後論争では「第二次産業革命論」や「技術革
新論」などについての議論が重ねられ、さらに
は公害と技術の関係についてなども論じられた。
意識的適用説の側から主張された「第二次産業
革命」や「技術革新」なるものが恣意的な概念
にすぎず、技術を意識的適用とする立場からは
公害と技術の関係も分析しえないことが手段体
系説の側から指摘された。この論争は現在も「
技術の内的発達法則」などをめぐり進行中とあ
るが、意識的適用説はほぼその影響力を失った
とも伝えられている。

               フリー百科事典
              『ウィキペディア(Wikipedia)』

技術史の「基礎」をめぐって

  



 石田紀郎

「科学とは対象の意識化であり、技術とはその
応用である」ということに、また、その背景に
「人類史」が横たわっているや、「科学もまた
宗教」ということも誰しも認めるところである。
従って、技術は多様、選択、恣意、偶発という
特性を
保持する。従って、共同体(国家)及び
その幻想過程(政治)から要請されるインター
ネット技術や無線技術、様々な兵器技術などの
軍事技術の発展に見られるように、生み出され
た技術は、やがて社会や生活に波及還元し、生
活文化の水準の向上に貢献し、新たなる科学的
発見をうながすという相乗、波状的、因果律的
に科学進歩を促進するとわたし(たち)は思っ
ている。

 宇井純

さて、星野芳郎との出会いは、起業運動の過程
の「影」の側面課題(企業公害、労働安全衛生)
の解決過程であり、当時の武谷三男の三段階理
論と並行する日本の技術者運動との邂逅からで
あった(講演会を数回企画し「技術者問題」等
の講演いていただいた→初回は、所用があり出
席できなかったことがいまでも悔やまれる)。
やがて、それは宇井純の水俣病研究や、『瀬戸
内海汚染調査団』や『琵琶湖・淀川汚染調査団』
運動と合い絡み合うこととなり大変貴重な時間
を共有させていただいた経験を持つ。

 

が、冷戦構造の中、<社会主義>思想への肩入れ
と『もはや技術なし』に見られるスタンスの違
いからフィールドワークや実体論重視(現象→
実態
→本質)、えぇ~っとこれは身体論とも繋が
り大切なものだが、その後は疎遠となっていく。
その意味では偶発性や恣意性という主体的、主
観的パワーというものは無視できない重要なベ
クトル、ファクタということでここは了として
おこう。




Sebastiscus tertius Barsukov and chen

【うっかり笠子の語源】

Sebastiscus teltius


なぜ「うっかり」かというと、安倍宗明(著明
な魚類学者)が和名を整理、名づけることにい
そしむうちに、ほとんど名づけ終わったと安堵
していたら、なんと毎日見なれたカサゴが別種
であり、これを発表し忘れていた。「うっかり
論文を発表し忘れたため」。「他のカサゴとう
っかりすると区別がつかないカサゴ」でウッカ
リカサゴになったというから面白い。体長40セ
ンチを超える。紡錘形でやや側偏する。非常に
頭が大きい。身体の側面一面(測線の上側にも)
に円形の白い斑文がある。斑文には褐色(薄い
ものもある)の縁取りがある。触って硬いもの。
斑文がくっきりと色が褪せていないもの。鰓が
鮮紅色のもの。

かんこの刺身

旬は秋から冬白身で、クセのない味わい。ただ
淡泊で旨みに欠ける。旨みは皮下にある。汁物
(鍋、みそ汁、潮汁、ブイヤベース)、刺身(
焼霜造り、霜皮作り)。歩留まりからいっても
汁物にするのがいい。身が淡泊なわりにうまい
だしが出る。肝、胃袋、皮、目玉などもうまい。
刺身にするなら皮つきで焼霜造りか皮霜造りに
したい。皮と皮下に旨みと脂がある。勿論、
り寿司も上品で美味いと言われてる



コメント (1)
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