極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ルピナスの安曇川賛歌

2012年05月27日 | 滋賀のパワースポット

 




【ルピナスの安曇川賛歌】





       いつまでも愛してくれますかとルピナスに悲しきジェスタ
 









淡海昔 

平野部が狭い西近州は決して豊かではないが、安曇川・石田川水系は豊穣な農産物を担保する。
それが、清酒の源泉となり県下一の鮎漁場として知られる。9世紀頃の高島郡は『和名類聚抄』
によると、木津・鞆結・善積・河上・角野・三尾など10郷の存在の記載が残る。このうち木津
荘(旧饗庭村)は、保延4年山門領に加えられ、富永荘(伊香郡)、栗見荘(神崎郡)とともに
「三箇庄聖供領(千僧供領)」と言われ延暦寺の重要な経済基盤を担う。安曇川・鴨川デルタ
地帯(旧新旭町・旧安曇川町・旧高島町)は、応永29年の『木津荘検注帳』、年次不詳の『木
津荘引田帳』などから条里制であることが知られている。鎌倉時代初期、近江源氏である佐々
木信綱の子の佐々木高信が、高島郡に所領を分与されて高島高信と名乗る。高島氏は後に数流
に分かれた、高島郡の各所に居城を構え戦国期まで栄え、惣領家である高島氏を筆頭に、高島
朽木氏・高島永田氏・高島平井氏・高島横山氏・高島田中氏らがあったとされる。高島平野の
中央部(安曇川北岸の饗庭野丘陵末端・新旭)にある清水山の清水寺跡に清水山城を築いて居
城とした。北野天満宮史料『目安等諸記録書抜(文安4年12月4日記録)』から文安4年以降の築
城と考えられ、鎌倉時代室町時代と将軍家に直属する奉公衆として栄えるが、浅井郡の戦国大
名浅井亮政の侵攻で、永禄11年には浅井氏の影響下に置かれ(『朽木文書』史料)、元亀年間、
明智光秀ら織田軍の進攻により高島氏宗家は追われ、磯野員昌により新庄城に政治の中心が移
るものの、入城した津田信澄により大溝城に政治の中心が移されたという。大溝城は、その後、
京極高次らが城主となり、市西部の朽木谷は高島氏の支族である朽木氏が鎌倉時代・室町時代
を通して領していた。朽木氏は織田家および豊臣家・徳川家に従い、旗本として幕末まで転封
することなく栄えた。この地の小川村には近江の聖人、陽明学者の中江藤樹を輩出している。

 

また、足尾鉱毒事件で有名な盛岡で江州の人古河太郎左衛門の養子で鉱山王の古河市兵衛古河
市兵衛の養父太郎左衛門など近江商人が明治の初年に東北へ大量進出している。滋賀県に八日
市は、その市場商業の遺跡で、日本中くまなく近江屋という屋号の店があるのも近江商人の進
出を物語るものであり、その因縁は極めて古く、比叡山と山寺から、比叡山と縁故の深い彼等
が山形に目をつけたというのが初めとされる。桃山時代に、山形の領主最上義光が交緑元年、
朝鮮征伐に加わり、秀吉から近江国蒲生郡を耕場(まぐさば)を拝領し、山形と近江が結びつく。
山形が城下町としたのは最上義光の時代がはじまりで、地子銭を免除したり、各種の職人を保
護し、今日の檜物町、桶町、塗師町、銀町、蝋燭町、鞘町、材木町、鍛治町、銅町等の町名が
残るが、殊に近江商人を誘致して上方と商売し、近江の八幡、日野等の進取的商人が義光の求
めに応じ八幡の商人は蚊帳、麻布、呉服類を営業とし、日野の商人は主として醸酒業に従事し
た。近江商人の経済的進出理由は、京都の西陣織の染料に使う紅花(べにばな)の買い付けであ
った。また十日町の村居清七は近江日野から移住し、秋元領主の御用達を勤める五百石(七五ト
ン)積の船二隻を所有し、日本海回りで京阪から綿、ろう、砂糖を運び、紅花、青苧を移出し、
江戸後期には仙台に出店を置く。恵比寿足袋の呉服屋西谷伊兵衛、日野屋中井源左衛門、八幡
は大黒屋谷口惣兵衛らの山形、仙台方面に進出しのが琵琶湖の湖東方面は八幡、日野の出身で、
岩手県(南部藩)に進出した湖西の大溝の出身であった。因みに八幡、日野よりおくれているが
その特徴は小野、村井両家を中心とした血族的な匿名組合的性格が強く、八幡、日野系の大規
模な強い協同組合的なものではなかったといわれる。その代表の村井権兵衛は志和を根拠とし、
良質の水と志和米で灘仕込の清酒をつくって売り出し、濁酒しか知らなかった農民は争ってこ
の「すみ酒」を買ったとされ、の栽培の南部での麻着物を常用していたが、麻は極めて染付け
が悪く、冬着として適さず、色模様の木綿の古着を近江商人が売りつけたので、近江屋はたち
まち巨富を築き上げた。ところが、井筒屋権右衛門、鍵屋茂兵衛、井筒屋善助、近江屋治左衛
門等の独占的な政商活動、酒造経営、金穀融通はその後の藩政介入として極めて深刻なものに
なる。近江商人の経済的活動はどこまでも商業資本的で東北から利潤を二重、三重に吸い上げ
関西に持って行き、明治維新による産業革命にさいし、東北には自主的資本の蓄積なく、徒ら
に植民的存在たらしめたといわざるを得ない状況に追い込んでいく(「岡田益男 「東北鉱山
の繁栄」~近江商人~
」)。
このように歴史的側面からも豊穣な地だ。
難しいことはさておき、
「温故知新」という、革命的論語をこの高島は「藤樹の里あどがわ」にあって醒覚できるとい
うわけで、感謝。








【アモルファスシリコンに光】

図1

薄膜シリコン太陽電池は、アモルファスシリコン(トップセル)と微結晶シリコン(ボトムセ
ル)を組み合せ
せたタンデム構造型定着している。ところが大きな課題が残件するする。それ
は、アモルファスシリコン
の光劣化の問題と微結晶シリコンでの赤外光の低吸収のハードル。
そこで、アモルファスシリコンの光劣化の抑制法や赤外感度に優れたボトムセル新材料(SiGe、
SiSnなど)の研究開発が進められてきた。もっとも、それ以外にも光吸収を最大化するために、
効果的な光閉じ込め効果をもつテクスチャ構造の開発や、発電層以外での吸収損失を抑制する
高透明性ドープ層・バッファ層の開発を進められている。

図  高次シラン生成メカニズム

今回産総研は、アモルファスシリコンの光劣化抑制に、トライオードプラズマ製膜法(下図)
により、光劣化の主要因と考えられる高次シラン系ラジカルの膜への取り込みを低減する、ボ
トムセルの高電流化には微結晶 SiGeを用いて赤外感度の改善を図るのだが、これらの要素技
術を取り入れた2接合や 3接合セルを開発し、安定化効率 15%の達成を目指していたが、光
劣化率を10%までの抑制し、変換効率9.6%を達成。現在世界最高の10.1%超を達成するとい
う。光劣化の原因は、アモルファスシリコン層の成膜過程にあり、SiH4
を用いるプラズマCVD
で成膜する時に、プラズマで発生した高次シラン種(HOSクラスタ)が膜中に取り込んで光り劣
化するのだ。

図 トライオードプラズマ製膜法

そこで、プラズマCVDのチャンバー内をメッシュ状の金属で仕切って、プラズマ領域を基板から
離すことで、拡散が遅いクラスタ状の高次シラン種は基板に届かず排除されてしまうこと利用
して実現する。そのため、成膜速度が遅れてしまうので従来法(0.3nm/sec)より10倍遅いので
ガス流量を増やし対応するのだという。

特開2006-019593

【符号の説明】

1…真空槽 6…ガス 7…第1電極 8…第2電極 9…第3電極(メッシュ電極)11…バイ
アス電源 13…基板





外は突然の雷雨。憂鬱な体調が続く。母親を久しぶりに連れだし、恒例のバラ園に鑑賞だ。で
きれば足繁く見舞いたのだが、時間がないと言えば言い訳なんだろうが、予定している仕事量
がはけないでいる。ルピナスの歌はそんななかで書いてみた。ノボリフジ。放物線は降下して
いるのだが、欲深く自嘲しながら、捨て切れずにもがいている憧れを歌う。ジェスタ(道化者)
とはおれのことかと、写像し遠点下から覗きみしながら自問するわたしがそこにいる。
 

 

コメント
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