![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/52/97b8d7fba768f74956debcd5fc07125f.jpg)
Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
野にひともと薔薇が咲いていました。
そのみずみずしさ 美しさ。
少年はそれを見るより走りより
心はずませ眺めました。
あかいばら 野ばらよ。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ/手塚富雄 訳
『野薔薇』
Wer nie sein Brot mit Tränen aß,
Wer nie die kummervollen Nächte
Auf seinem Bette weinend saß,
Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Mächte.
Ihr führt ins Leben uns hinein,
Ihr laßt den Armen schuldig werden,
Dann überlaßt ihr ihn der Pein;
Denn alle Schuld rächt sich auf Erden.
涙と共にパンを食べたことのない者は
苦しみに満ちた夜ごとに
ベッドに座って泣いたことのない者は
あなた方を知らないのだ 天の力よ
あなた方は私たちを人生へと導き
惨めなものに罪を負わせ
苦しみを与えるのだ
全ての罪は地上において報いを受けるのだから
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ/渡辺美奈子 訳
『涙と共にパンを食べたことのない者は』
「ヴィルヘルム・マイスター修行時代」
第2巻第13章より
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Goethe_1774.JPG/220px-Goethe_1774.JPG)
例のBENI(安良城 紅)の『COVERS』(「ロビンソンをめぐる小宇宙」で研究
と実用を兼ね聴き終え延滞していた)のCDを返すと、ただそれだけで帰るのはと思い
無計画に目についた『関雲長』『ゲーテの恋』のDVDを借りて鑑賞。といっても、例に
よって流し(な・が・ら)なのだが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/e2/2e26c5dad474458acb37909c6b4376a2.jpg)
評日 関羽張飛皆稱萬人之敵
為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顔
然有國士之風 然暴剛而自衿
飛暴斤無恩 以短取敗 理數之常也
『三国志』を著した陳寿は、「關張馬黄趙傳」で関羽・張飛二人を「関羽・張飛の二人
は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であっ
た。関羽は顔良を斬り義を果たし、張飛は巌頭の義心に感じ入ってその縄目を解き、両
者並んで国士の気風があった。然し関羽は剛情で自信過剰で、張飛は乱暴で無情、両者
共その短所によリ身の破滅を招いた。道理からいって当然である」と評しているが、大
事(大局・原理)の前で小事(小局・煩瑣)を誤謬つまりは損なうことの戒めとして受
け流しつつ、武を誇る一方で、学問を好み『春秋左氏伝』をほぼ暗誦出来る等、文武両
道を持つ。
小説『三国志演義』では、身の丈9尺(約216cm)、2尺(約48cm)の髭、「熟した棗(=
なつめ)の実のようなと形容される紅顔で重さ82斤(約48kg)の青龍偃月刀または、れ
いえんきょと呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨る。史実に比べ、脚色された活躍は華
々しく、たとえば、董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬っ
た話。曹操の元を去るとき、6人の将軍を斬り殺して突破した話(五関突破)。孫権軍
に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺しす話などあり、名馬赤兎については呂布の死後、曹
操から譲りうけたたことになっているが、曹操からの二夫人への贈り物を全て封印した
関羽が「この馬は千里を駆け、今幸いにして之を得たなら、兄(劉備)に一日にして見
えることが出来ましょうぞ」としてこれを受け取り、関羽の愛馬として活躍する。
関羽(? - 建安24年(219年)12月[1])は、中国後漢末期の武将。字は雲長(うんちょ
う)。元の字は長生。司隷・河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。子に
関平・関興。孫に関統・関彝。三国時代の蜀(蜀漢)の創始者である劉備に仕えた武将。
その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛され
た。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯、諡は壮穆侯。諡号は歴代王朝から多数贈られた。
悲劇的な死を遂げたが、後世の人間より神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、
47人目の神といまなお崇められている。
映画は黒沢明風の配色(広義の映画技法の意)となり、つくづくと不思議にも『三国演
技』の英傑伝に惹かれる精神を再確認する。有り体にいえば幼いころにみた東映の時代
劇のヒーローへの憧れなのだが「あなたも馬鹿ねぇ~」と彼女に見下されてもなお、老
いたりといえど、一丁事あれば馳せ参じる心構えはまだ残っていると受け流す。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/c2/ee273c8867bc24b8c7e5ec0f6fe58487.jpg)
「ヴィルヘルム・マイスターを語るということは、ドイツにおける精神の修養の過程を
すべからく語るということ。ドイツ人の修養を語るとはまさにゲーテを語ること。ゲー
テを語ることはドイツの意情そのものを語ること、ドイツの意情はその最もドイツ的な
時向を語ることにほかならない。そのドイツ的な時向を語るにはゲーテの疾風怒涛を語
らないかぎりは、何も始まらない」(松岡正剛の千夜千冊『ヴィルヘルム・マイスター』
)と蓋し名言と、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は、ヨハン・ヴォルフガン
グ・フォン・ゲーテの教養小説。1796年に発表され、発展的な教養小説といわれるのだ
がついつい引き込まれ読み続ける。
もっとも、この映画ストーリーの『若きウェルテルの悩み』(Die Leiden des jungen
Werthers)は、1774年に刊行されたゲーテによる書簡体小説で、青年ウェルテルが婚約
者のいる身である女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺するまでを描
き、出版当時ヨーロッパ中でベストセラーとなり、ウェルテルを真似て自殺者が急増す
るなどの社会現象を巻き起こした。現在も世界中で広く読まれているものだが「あぁ~
忘れかけていたもを呼び覚まされた!」と主人公の自殺をこころみるシーンで懐かしく
一瞬、傷口に塩をすり込まれ顔を歪めさせる「若気」を呼び起こす。さて、さきほどの
松岡の感想を続けよう。
![](http://wwwdelivery.superstock.com/WI/223/1566/X1300/PreviewComp/SuperStock_1566-071450.jpg)
「とくにヨハン・ペーター・エッカーマンが記録した『ゲーテとの対話』(岩波文庫全
3冊)で、ゲーテの語るところにひたすら耳を傾けているのは、なるほどニーチェが、
ルター訳聖書とショーペンハウアー『意志と表象としての世界』と『ゲーテとの対話』
の3冊のみによって、その思索の始点と終点をいつも決めていたというのがよくわかる
ほどに、心服がよかった(中略)そのころこっそり併読してみた『ツァラトゥストラ』
や『この人を見よ』は痛くて尊大で、辛くて高邁、しかも陶酔的でありながらチクチク
としているのに、ゲーテの言葉を聞いているのは、言葉の音楽のように浄感があって、
また、真実というものがあるとすれば、なるほどこういうものなのかと、つねに思わせ
た。いまは「真実」なんていう言葉に照れるようになってしまったのに、ゲーテが正面
で、自然も人間も愛も悪も受け止めて、これを全身全霊をもってふたたび正面で言葉に
していくという語り方をしつづけたということは、わが青春には、やっぱり比類がない
ほどの激発だったのだ」と吐露し、本居宣長の「からごころ」排除の背景と、プチ・フ
ランス主義、フランス擬古主義の文学的植民地から脱却させるゲーテの試みと重ね合わ
せ、先駆者ヨハン・ヘルダーがドイツ精神のフランスからの独立をゲーテに決断させた
であり、彼(松岡)が愛する、自然と民族の個性を謳歌する人間史=疾風怒涛(シュト
ゥルム・ウント・ドラング)のドイツ詩人の意情の個性-がここに沙羅双樹のごとく絶
対開花するという。故郷のフランクフルトで弁護士を開業したゲーテは、一方では自由
のために闘う篤実剛毅な中世騎士を主人公とした戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲ
ン』を書き、他方では恋に自殺する『若きウェルテルの悩み』を小説にして、その名を
一躍とどろかすこととなる。
周知の通りゲーテはただの文豪だけで終わることはなかった。1775年、26歳で人口10万
のワイマール公国の宮廷に入りここでゲーテはドイツのどんな市民生活からも得られぬ
全局的な活動の舞台を与えられ、9カ月後に枢密院に議席をもつ顧問官となり、若き大
公カール・アウグストを英明な君主たらしめる、あらゆる知識と政務提供を行う。そこ
で研究着手したのが、自得自若な自然科学観を形成する解剖学や植物学や色彩学、そし
て鉱物学・地質学・動物学へ開花する。32歳には貴族に列し内閣主席となる。文豪詩人
がワイマールに入ったことについては、ゲーテの意情に内なる王国理念のようなものが
り。生まれ育ったフランクフルトはドイツ皇帝の戴冠式が必ずおこなわれていた町で、
少年ゲーテはヨーゼフ2世の戴冠を目の当たりにして、胸打ち震えるおもいをしている
から当然の帰結だととも受け取れる風な感想を書き「そのようなゲーテでも、この理想
主義的活動の日々を抜け出さざるをえない日がやってくる。これが有名なイタリア旅行
というものになる。1786年9月からの約1年。ここでいよいよ『ヴィルヘルム・マイス
ター』の書き継ぎが始まった。これも本当かどうかは確かめてないが、このイタリア旅
行はワイマールの誰にも知らせずに、たった一人で旅立ったらしい(中略)イタリア旅
行については追走追慕したいことはいくつもあるが(たとえばタルコフスキーとの比較
など)、ここでは省く。なかで二つだけあげるなら、「原」(ウル)と「変形」(メタ
モルフォーゼ)の概念を発見したことと、ゲーテ自身がヴィルヘルム・マイスターとし
て圧縮遍歴を体験したことだろう。ゲーテは「普遍」と「原型」を本気で探したのであ
る。異国に赴いて「普遍」と「原型」を探しだすなんて、その後はダーウィンや南方熊
楠やレヴィ=ストロースがやっとなしとげたことである。それをゲーテは1年でやって
のけている。」と続ける。これを読んで、へぇ~~~!凄いゝゝと無知を突き抜け感心
の一点だ。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/29/Wilhelm_Meisters_Lehrjahre_1795.jpg)
「ワイマールに戻ったゲーテが、意外にも「寂寞」を思い知らされたということを、文
学史家たちはどう見ているのだろうか。政務から退き、交友こそ断たなかったものの、
ひたすら「普遍の人間」であろうとしてワイマールの一隅に蟄居したことは、大才ゲー
テの生きる計画のシナリオの、いったいどこにメモってあったことなのだろう(中略)
それは、クリスチアーネ・ヴルピウスという造花の花売り娘にゲーテの情感のすべてが
注がれたことにあらわれている。ゲーテは少女を引き取って、妻子とは別のちっぽけな
擬似時空のようなものをつくりあげたのだ。ゲーテは前歴を捨て、栄光を脇に押しやり、
少女に賭けたのである(中略)つまりはゲーテは、これっぽっちも川端康成にはならな
かったのである。それどころか、ここに勃発したフランス革命のさなかには、対仏作戦
の連隊長として2度にわたって従軍するとともに、戻ってはワイマール宮廷劇場の総監
督として、今度はあらゆる演劇的古典性の快挙のために一身を捧げはじめた。その渦中、
『ファウスト』と『ヴィルヘルム・マイスター』が書き継がれていった(中略)ゲーテ
はファウストの罪を、厳正に描いたのだ。その罪とはなにか。すでに壊れてしまった相
手の姿がそこにあることを知っていること、それが罪なのである。フラジリティ(frag
ility:はかなさ)の極北を知っていながらそこまで放置していたことが罪なのだ。こう
してゲーテにとっての少女とは、フラジリティの極北をあらわした。ぼくはそう考えて
いる。『ファウスト』の最後に何が書いてあるか、知っているだろうか。「永遠的なも
のは女性的なるものである、そこへわれらをひいて昇らしめよ」、だった(中略)シュ
タイナーが神智学から別れて人智学を興そうとしたことには、あきらかにゲーテ思想の
普遍化という計画が生きていたということだ。ゲーテ思想とは一言でいえばウル思想と
いうことである。原植物や原形態学を構想した、そのウルだ。植物に原形があるのなら、
人類や人知にウルがあっておかしくはない。シュタイナーはそれをいったん超感覚的知
覚というものにおきつつ、それを記述し、それを舞踊し、それを感知することを試みた
のである。超感覚的知覚とでもいうべきものがありうるだろうことは、堅物の科学者以
外はだれも否定していない。リチャード・ファインマンさえ、そんなことを否定したら
科学の未知の領域がなくなるとさえ考えていた。ハイゼンベルグだってウルマテリア
(原物質) を想定した。しかし、そういうウル世界をどのように記述したりどのように
表現するかとなると、それこそノヴァーリスからシャガールまで違ってくる。ヴォスコ
ヴィッチからベイトソンまで異なってくる。シュタイナーはすでに1920年代に、それを
ひたすら統合し、分与したかったのだ。このことは強調してあまりある。」と読み手を
圧倒するするかのように、ゲーテを通し持論を陳開している。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Steiner_Berlin_1900_big.jpg/240px-Steiner_Berlin_1900_big.jpg)
※ゲーテの「十字架に薔薇をからませたのはいったい誰か」→「汎知学」(=グノーシ
ス主義)を背景→薔薇十字団を生み出す。あるいは、アイザック・ニュートンの錬金術
(=科学の魂→薔薇十字の幻想はつねに「何かの代わり」として、あるいは「何かの組
み合わせの相手」として、多様な局面にあらわれてきたのだ(中略)薔薇十字とは、わ
れわれがたえず置き去りにしてきた「何かの補償性」のようなものなのだ。」(松岡)
→「NMBインパクト」で触れた「新錬金術」技法を参照)などの展開は面白いが割愛
する。
そうしながら、松岡のゲーテ論(これは勝手な読み手のテクスト、あるいは解釈)は、
三木成夫著の『頭骨の形態学』へと辿り着く。
「(前略)たとえば「植物のからだは、動物の腸管を引き抜いて裏返したものだ」。た
とえば「この小さな胎児は喉を鳴らして羊水を思いきり飲み込む」。たとえば「母親の
物思いによって無呼吸の状態が続くようなとき、増量した血中の炭酸ガスが臍の緒を通
って胎児の延髄に至り、そこの呼吸中枢を刺激するといった事態がおこるという。ここ
で胎児もまた大きく溜息をつく。母と子の二重唱といったところか」というふうに。圧
巻は、「いったい生命はどうしてリズムを知るのか」という自問自答に始まるくだりで
ある。女性の排卵は月の公転と一致して、左右の卵巣から交互に一個ずつ体腔内に排卵
される。このとき暗黒の体腔でかれらはどのようにしてだか、月齢を知る。三木先生は、
この問題は魚鳥が移動するとき、その時刻と方角をどのように知るのかという問いに集
約されると考える。そして、この問題を解くための指針はただひとつ、それは卵巣こそ
がその全体が一個の「生きた惑星」ではなかったかということに合点することなのだ、
と考えていく。こうして三木先生は、「地球に生きるすべての細胞はみな天体なんだと
知ることなのである」と喝破する。すなわち、胎児たちはすべて「星の胎児」なのだと
宣言をする。本書を一貫しているのは、「面影」というものである。これはゲーテの
「原形」にあたるキーワードで、むろん生きた面影のことをさす。この面影が数億年の
太古に蘇り、胎児に宿る。この面影を消し去ることはできず、この面影を含まない科学
は生きた生物学にはなりえない。ぼくにデボン紀の面影を見たのは、三木先生の一貫し
た哲学による御神託だったのである。それにしても、ぼくはずっと“デボン紀の男”と
してありつづけるのだろうか」と。
「たかがDVD、されどDVD」。『三国史英傑伝 関雲長』『ゲーテの恋(Young Goethe
in love)』、 \330×2=\660のレンタル料金で、余りある智の宝石と引き替えることがで
き大満足? この体験をブログするとすれば『にわかゲーテの恋物語』と名付けようと最
初に書き込んでおいたがこれは妥当だったろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/52/97b8d7fba768f74956debcd5fc07125f.jpg)